三章 天秤の外側(2)
目の前に男が座っていた。
椅子の背もたれを前にして、その上で腕を組んでいる。
白い肌と青い瞳。
髪は短く刈り上げている。スクエア型の眼鏡を掛けてインテリ風に見えるけれど、細いのにやけに筋肉質な体が気になった。
「やぁ。ちょうど良いところに目覚めてくれたね」
日本語だった。滑舌が良く聞き取りやすい。
どこの国の人だろう。
「君からも言ってやってくれないか。僕がどれだけ好青年なのかってことを」
「……は?」
「波木、聞かなくて良いわ。戯れ言よ」
手首は後ろ手に縛られ、足は前に投げ出した状態。足首も縄で固く結ばれている。
「な、何だよこれ」
隣を見ると紅も同じように縛られ、じっとしていた。俺の方を一瞥すると、すぐに男に向き直る。
「ご覧の通り、彼はただの男子高校生よ。この時代のね」
「だけど君と秘密を共有する仲。そうだろ?」
男は俺に問いかけたようだ。
でも俺はそれどころじゃなかった。
「どうなってるんだ? おい、あんた誰だよ、これ外せよ」
「君が説明してやれよ。あんまりうるさいと血が必要になる。僕は望まない」
男に言われ、紅が経緯を説明する。
「彼はロシア人の自称活動家。私たちの話を聞いて、鳴居計画に協力したいと申し出ている。現状の戦力でアルファを倒すのは難しいから、ARMの研究開発をロシアで全面的に請け負い、必ず駆逐できる兵器に改良してみせると」
男が満足げに頷く。
「紅、これは笑うところか?」
「もちろん嘘よ、だけどあまりかっかしないで。私たちが監禁・脅迫されているのは事実。命を大事にしましょう、波木、私の協力者でしょう?」
男は半分不満げに、頷く。
「僕はいつだって真面目なのに」
「あなたは知るはずのない私たちと柳井の会話を知っている。ARM、タイムリープ、アルファ……盗聴していたのね? 柳井が公安の人間とわかった上でやっていたとすれば——
「想像には自由がある。良いねぇ。君たちは柳井を頼ったようだがそれは間違いだ。今の彼は想像力の欠如したつまらないサラリーマンに過ぎない」
「彼とはどういう関係?」
「昔の仕事仲間だよ。あの頃は良かったんだ、彼も若くて。仕事に美学を持ち込めるのは若者だけだとは思わないかい? ふふ。ふ……」
二人が話している間に、俺は部屋を見回す。天井には弱々しい電球が六つぶら下がっていて、それぞれの根元から延びたコードが絡み合いながら壁を這い、床に落ちている。ぼんやりとした明かりに照らされた床はコンクリートで固めただけの簡易的なもの。表面が粗いヤスリのようになっているので尻が痛い。窓にはカーテンが掛かっている。隙間から光が漏れていないところを見ると、夜になったか、何かでしっかり塞いでいるのか。出入り口は男の背後にあるドア一つだけだ。
そして、目の前の男。
男の足下にはナイフが落ちていた。刃は俺がこれまで実際に見たどんなナイフよりも長く、太い。
怯える体。歯を食いしばる。
男は椅子から立ち、床のナイフを手に取った。
「柳井はもう抜け殻だ。未だに死んだ妻の影を追い続けてる。せめて妻が死ぬ前の世界に戻れるのならやる気を出したかも知れないけどね。それがなきゃ彼がこの世界を——妻のいない世界を救う理由なんてないさ」
「あなたみたいなクズにお爺ちゃんを悪く言う資格はないわ」
「素晴らしい敬老の心——そして未来人の日本的罵倒! ああ……だが彼からは返事もないんだろう? 僕は君たちの言葉を無条件に信じる。そして手を貸すと言っているんだ。これ以上ない提案じゃないか」
「手を貸す——強引に拉致してきた人間の言う台詞じゃないわね」
「感情で手段を選ぶべきではない、というのが僕のモットーでね。魂に反する行為も時にはやむをえないのさ」
強引に拉致された。そうだ。
俺は記憶を辿る。
パイロット候補である高坂宗太郎に会うため、俺は紅と一緒に電車に乗った。自衛隊駐屯地の最寄り駅に着いたところで、ホームレスに声を掛けられる。熱中症で倒れた人がいると聞いてその場所まで行ったところで——。
そこで意識が途切れていた。
「波木、今何時?」
紅が言う。俺は腕時計をつけないし、スマホはポケットから抜き取られたようだ。探してみると——部屋の奥にあるテーブルに置かれていた。
「わからない。スマホが取り上げられてる」
「すまないねぇ。僕たち三人の時間を楽しみたいんだ」
この男、気味が悪い。
「お互い時間は確認しておいた方が良いんじゃないかしら。話を聞いていたんでしょう? アルファの出現は二十五日の午前八時。あなたも逃げ遅れるわよ」
「君のようなヒロインと共に心中できるなら本望だよ!」
男が目を大きく見開く。
口から垂れた一筋の涎を、ナイフの側面で拭った。
「でもみんなで生き残る道もある……そうだろう? 僕にロボットの場所を教えてくれ。そして共にモスクワに渡り、より麗しい兵器を完成させるんだ!」
そう言うと男は椅子を離れ、紅に近づく。
ナイフを左手に持ち、右手で紅の髪を掴むと——。
させてたまるか。
「気持ちわりぃんだよ」
俺は壁で体を支え、縛られたまま立ち上がる。
「お前、気持ちわりぃんだよ」
とんでもなくダサい。気の利いた罵詈雑言の一つも思いつかないで、足は子鹿みたいにガクガクしてて。
でも、紅を守らないと。
「君はオマケのくせに主張が激しすぎるね。主役の座を奪いたいのかな? でも駄目だよ、君のような弱い人間は——生まれ変わらなければ」
男が俺の口を右手で塞ぐ。
想像以上に力が強い。
壁に押しつけられて、顔がまったく動かなくなる。
そして左手に掴んだナイフの先を、男はゆっくりと俺の右肩に突き刺していく。
「——————っ!」
痛みに悶える。そのせいで余計ナイフが肩に深く、広く刺さる。
自分の肉が、悲鳴を上げている。
耐えるために目を瞑ると、父さんの最期の姿が瞼の裏に浮かんだ。
誰かを救うために、自らの命を投げ捨てるなんて。
それで悲しむ人——母さんがいるってのも忘れやがって。
俺は、そんなふうにはならない。
自分の正義や、誰かの命のために母さんを犠牲にはしないって、決めたのに。
「やめて!」
紅が叫ぶ。
「大げさだなぁ。もっと愛を育もうよ、僕たちは国境を越えるんだからさ!」
男が右手を離す。
俺は体を支える気力もなく、床にくずおれた。
テーブルの下に、紅のタブレットが落ちているのがふと見えた。
「わかったわ。あなたの要求を呑む。私はARMの場所を教え、あなたと共にモスクワに行く。未来の知識を全て提供するわ。あなたと祖国は未来の出来事と、テクノロジーを知ることで他国に大きな差を付けることができる。それが望みでしょう?」
紅を止めたかった。
でも俺は、痛みに堪えるので精一杯だった。
「それじゃあ僕が悪者みたいじゃないか。僕は君と同じく、人類を救済したい。それだけだよ」
「理由なんてどうでも良いわ、とにかく私は協力する。だから彼を解放して」
テーブルの上には俺の持ち物の他に、紅のバックパックも置かれている。中身は一通りチェックされたらしく、机上に散乱していた。車のキーらしきものもあるが、あれは男のものだろうか。
タブレットだけが床に落ちている。画面に大きな罅が入っているところを見ると、男がエナと言い合いになって投げ捨てたのかもしれない。壊れたのか。
「どうでも良くはないんだよ! ああ、僕と君との崇高なプランを理解してくれ……ふふふ……時を超えるという禁忌は数学的だろうか……はは、は……」
「何でも良いから波木を手当てして! 今すぐ舌を切るわよ!」
床に血だまりが出来ている。
血って、こんなにも温かいんだな。
「悪魔……悪魔の言いつけを守るべき時もある……彼らは全てを知り……」
そう言いながら男はテーブルの上にあったペットボトルと包帯を手にする。
俺の体を起こして右肩にペットボトルの水を掛け、血を洗い流して包帯を巻いた。
痛みに大声で叫ぶ、ふりをした。
いや、半分は本気だった。
男が気にとめないところを見ると、それで助けが来るような場所ではないみたいだ。
「紅、ここはどこだ?」
「私にもわからないの」
「僕たちのアトリエだよ」
男は酔ったような足取りで最初に座っていた椅子のほうへ向かっていた。
この男から正面切って場所を聞き出すのは無理だ。紅もそれくらい試しているだろう。
「なぁあんた、母さんと電話させてくれよ。今頃母さんは心配してる、俺からの連絡がないと警察に通報するぞ、絶対。そうなると厄介なのはあんたの方だろ? 紅と俺の命を助けてくれ、その代わり母さんを止める。えーっとな、番号は、080、××××、××××——」
「心配は無用だよ、警察が足取りを追えるような場所じゃない。彼らがここに気づいた頃には全て終わってるさ——その時が君の最期にならないように、隣の女の子が美しい四肢を持ったまま帰れるように、僕と建設的な話をしようじゃないか」
「くそったれ……」
俺はまた床に倒れてしまった。
水と包帯で傷がなかったことになるわけじゃない。
俺にはこういう下手なやり方しか出来ない。今はいっそ眠ってしまいたいくらいだ。
「どうしたの、波木? 大丈夫? 血が止まらないわ、どうすれば……」
「エナ、頼んだ……」
「狂おしい愛のシーンだね。でも大丈夫、彼は助かるよ。僕はこれでもプロだから、彼がどの程度危険な状態なのかはよくわかる」
紅が男を睨めつける。
「そんな目で見ないでくれ! 彼が動くのは計算外だったんだ! ああ……でもさ、そろそろ教えてくれないかな。ロボットの場所を」
大丈夫、と俺は小さくつぶやく。
紅は聞いてくれただろうか。
「あなたも焦ってるのね。少しは自分で考えてみたら?」
「僕を翻弄するのか?」
「協力すると決めたからには、あなたがそれに値する人間か知りたいのよ」
「ダンスは嫌いだ」
「もう一人、あなたの仲間を呼んで欲しい。波木を病院に連れて行って。誰かを監視につけていれば問題ないでしょう?」
「君は要求ばかりする——女!」
不毛なやり取りが続く。
やがてまた男が立ち上がり、ナイフを振りながら紅に近づく。
危ない。
早く。
早く……。
そのとき。
うっすらと聞こえてくるサイレンの音。
徐々に大きく。明らかにこちらに接近している。
「な……なんでだよっ!」
男が紅の真ん前で顔をドアの方へ向ける。彼女はそれを見逃さず、ナイフを持っている手に思い切り噛みついた。
痛みで男はナイフを床に落とす。俺の足下だ。
「この野郎っ!」
ナイフを部屋の隅に蹴飛ばし、男の体にタックルを喰らわせた。右肩の傷口が相手の腹にぶつかり、猛烈な痛みに襲われる。力をこめていることが出来ず、そのままうつ伏せに倒れた。
男はすぐに立ち上がる。
だがナイフの場所は見つけられないようだ。
「すみませーん。警察です。通報がありまして……」
「う、嘘だ、夢、僕の、が!」
取り乱した男は反対側の窓を強引に突き破り、手ぶらで出て行った。
「た、助けてくれ!」
俺は叫ぶ。
外の警官からの返事はない。
「なぁ、おい、助けてくれ!」
「——もういないようだね」
扉が開く。
部屋に入ってきたのはスーツ姿の男——紅の祖父、柳井貴樹だった。
「臆病な男ほど、口数が多いものだ。よく時間を稼いでくれた」
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