二章 太陽の顔が違う気がする(7)
八月二十四日、土曜日。
奇妙な音で目が覚めた。かん、かん、と不揃いな感覚で窓に何かがぶつかっている。カーテンを開けて外を確認すると、表に自転車に乗った平野さんがいた。
「おはようございます。何か用ですか?」
俺は窓から顔を出す。平野さんが投げた石が綺麗な弧を描き、俺の顔の横を通って奥の壁にぶつかる。賢志並のコントロールだ。
「あれ? 一人なの?」
「そりゃそうですよ。この年で母さんと寝るわけないです」
「違うよー。今日も女の子連れ込んでないかなーって思って来てみたのに」
「連れ込みません! そして今日もって何ですか!」
「ふふふ。もしも恋敵が現れたら私に相談してね。ブードゥー人形の作り方、教えてあげる」
それは絶対人を呪う系のやつだな。
平野さんは満足し、自転車を走らせた。バイトの時間まではまだあるので、怪しい雑誌でも買いに行くのだろう。
暑い。今日も猛暑日になると天気予報は言っていた。早くも台風十二号が発生し、日本へ接近する可能性がある、とも。
「紅ちゃんが帰るまであと二日かぁ。寂しいわねぇ」
朝食の席で母さんが言う。今日の朝は俺が作った。目玉焼き、ベーコン、インスタントの味噌汁、柔らかめの白米。定番中の定番だ。
「きっとまた来ますから。私にとってもこの家はとても居心地が良くて、まるで第二の家のような感じがするんです」
「本当? 絶対よ、約束だからね」
母さんがベーコンの切れ端を口から飛ばす。
どっちが子供かわからないな、これじゃ。
「でもやっぱり、タダで泊めてもらうのは申し訳ないです。少しでもお礼を」
「いらないよ」
財布を出そうとした紅を止める。
「俺たちは好きで君を泊めてるんだし。だよね?」
「もちろんよ、だってここはあなたの第二の家なんだから」
母さんが同意する。
紅は開いた財布を閉じた。
扇風機の風が、彼女の短い髪を靡かせた。
名神高速で事故があり、六名が重軽傷。大渋滞が発生しているという。
母さんが仕事に出てから、俺たちも出かける用意をする。
「先に時限煙幕弾の設置だな」
「ええ」
アルファの出現位置を考慮した上で、俺たちは比較的人の多い鳴居西駅近辺に一つ、そこから南東方向の主要な駅、五国ヶ原(ごこくがはら)駅と中鷽(なかさぎ)駅に一つずつ設置することに決めた。人通りの多い駅の近くにすることで騒ぎになりやすく、警察も無視できないだろうという考えだ。この三つの駅なら俺も何度も行ったことがあるし、適切な設置場所を選びやすいというのもあった。
「ニューナルイの社会科の授業では、まず鳴居市について学ぶの。仮想空間内に再現された街を歩いたこともあるわ。でもやっぱり本物は違う」
紅がきょろきょろと辺りを気にしながら歩くのが、俺には不思議だった。鳴居西駅は昔から鳴居市でも利用客の多い駅だけど、都会と呼ぶのはおこがましい。目立つ建物と言えば小ぶりなデパートと市役所くらいのもので、後は個人経営の居酒屋やラーメン屋がちらほら見られる小路があるくらいだ。未来の人たちの憧れが、鳴居を神格化してしまっているんじゃないかと思う。
「設置するならあのデパートか、市役所が話題になりそうだ。けど監視カメラがあるに決まってるから、時間が来る前に見つかりそうな気がするんだよな」
言いながらもデパートの中を調査。二人でいるおかげで特に怪しまれることもなく、フロアを見て回る。
「決めたわ。トイレに通風口があるから、その中にしましょう。じゃ、よろしく」
「男子トイレかよ……監視カメラは?」
「これだけ人がいるんだから、誰が犯人かなんて特定出来ないわよ。あなたしかも、ちょうど良い帽子被ってるじゃない」
古着屋で買ったベースボールキャップ。そりゃあ顔丸出しでこんなこと出来ないだろう。
「じゃあここは俺、次は紅な」
しぶしぶながら言われた通りのやり方で設置する。残りの二カ所も順調に付け終わり、午前中に俺たちは仕事を完了した。
「予告状はどうするんだ?」
「先に投函しておいたわ。とっくに見てると思うけど」
「全然ニュースになってないな」
「そりゃ悪戯としか思わないでしょ。昨日見た赤と黄色のマーク、両方合わせれば鳴居市の四分の一を占めるのよ。あの範囲内のあちこちで爆破テロを起こすなんて、どう考えても現実的じゃないわ」
「そんなこと言ったらこの計画そのものが成り立たないだろ」
「だからまず、ちょっとした準備体操をしておくんじゃない。予告状の通り、三カ所で煙が発生し騒ぎになる。予告状の内容を警察や市長が公表せず、その後で実際に爆破が起こったら? 誰かの引責辞任程度の問題じゃ済まないわ。本物も適当にちりばめておけば、より効果があったんだけど」
「諦めてくれてよかったよ。どれだけ人が来なさそうなところに設置したって、子供が迷い込むことはありえるだろ。秘密基地にぴったりな場所を探して、茂みの中とか裏路地をうろちょろしたりするんだ」
「波木にもそういう時があったのね」
「俺でも十年以上前の話だ。ぎりぎり覚えてる」
さて、一仕事終えたところで。
スマホを開くが、柳井から連絡はない。
まだ期限まで時間はあるが……。
午後はパイロット候補のスカウトだ。これが明日の戦いの命運を分ける。目的地は市外の自衛隊駐屯地。通常部外者は中に入れないが、今日は一般公開日だという。
「運が良いな」
「そういう人をリストに入れているのよ」
紅が駅券売機の前でまた財布を開く。俺は横から小銭を入れ、目的地までの切符を買った。
「はぁ。さっきから全部あなたに出してもらってるわ。作戦のために十分な資金をもらっているのよ」
「貸しだよ。その金は使わないほうが良い」
二〇五二年には事実上日本円の価値はなくなり、ニューナルイではアメリカドルを基本通貨としているという。だから紅は、昔流通していた日本円を集めてこの時代に持ってきた。
正真正銘、本物のお金だ。ご丁寧に二〇十九年までに発行されている紙幣だけを選んで持ち込んでいる。
けどそれを使ってしまうと、この世界にまったく同じ紙幣が二枚存在することになってしまう。本物なのに、あるはずのない二枚目の紙幣。それは俺にとっては偽札と同じことだと思えた。
「これが使えなければ、私には返す術がないわよ。持ち金は他にないわ」
「働いて返してくれ」
さすがに駅は人の耳がある。
俺たちは誰に聞かれても良いように、言葉を選んだ。
「そうね……全部終わったら、そうしましょう」
そう、全部終わったら。あの化け物がいなくなれば、紅の任務は完了する。平和な世界で、何を焦る必要もない。なんならもっと家にいてくれても構わない。トミザワマートのバイトを紹介してやる。そして、しばらくお金を貯めて、俺に返してくれれば良い。
それからでも遅くないはずだ。未来へ帰るのは……。
……未来へ?
俺はまた引っかかりを覚える。
昨日、柳井の車に乗っていたときと同じだ。
未来から来た彼女がこの二〇一九年でアルファを倒しても、紅は存在し続けるらしい。
それは端的に言って、彼女がいた未来と彼女が未来からやってきたこの現在は、平行世界という別の世界だからだ。
彼女はもう一つのニューナルイが存在する世界で生まれたのだから、この世界でニューナルイが存在しなくなったからといって矛盾はしない。
でも、それはつまり。
もともと彼女のいた世界は何も変わっていないということじゃないのか。
この世界でアルファを倒したって、元の世界のアルファが死ぬわけじゃない。
そして彼女はこうも言った。ARMにはタイムリープの機能がある。けれどアルファとの戦闘の後では、もう時間跳躍するだけのエネルギーは残らないのだと。
つまり紅は。
自分とは何の関係もないこの平行世界を救うために、自分の世界を捨ててやってきたんだ。
そして彼女はこの鳴居作戦が始まった時点で、もう元の世界には戻れないことが決まっていた。
「そんな……」
どうして、そんなことを。
ホームに電車のブレーキ音が響く。
俺のつぶやきはその音にかき消され、紅には聞こえていないようだ。
「行くわよ。私、電車って好きだわ」
紅が俺の手を引く。俺はその小さな手を——小さくても力強い手を、握り返した。
皮膚は固く、ざらついている。
命がけで戦っていると。
こんな手に、なるんだ。
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