二章 太陽の顔が違う気がする(6)

 今夜中に東京に戻るはずだったのに、まだ鳴居に留まっている。

 馴染みのバーだ。妻と結婚する前、デート中に喧嘩するといつもここに逃げ出してきた。個人的なことは一切聞かず、ただ良い酒を出すことだけに全力を尽くすマスター。それに呼応するかのようにどの客も自分の世界に浸り、互いに触れ合うことをしない。そんなところが心地良かった。

「どうぞ」

 丸氷がグラスに当たる音。ボウモアの十二年だ。公安という仕事柄ある程度の銘柄を抑えてはいるが、私にはこれがちょうど良い。特別高価でも、ツウでもない酒。それをこの店で飲むのが、昔から好きだった。

 私は一口含み、ピート香を味わう。そしてグラスをコースターの上に戻すと、上着の内ポケットから壊れたスマートフォンを取り出した。

 豊崎紅——私の孫と名乗った娘。彼女が渡してきたものだ。

 画面の罅も、裏面についた血痕も私が持っている妻のスマートフォンと完全に一致する。その上でより年月を経ているのは間違いない。本体表面の変色が激しいし、充電しても起動しない。私の持っている方はまだバッテリーが健在だから、電源が付くのだ。

 私が早朝家を出た後、すぐに実物を盗んで加工した? あるいはまったく同じものを作ったのか。どちらも現実的ではないと思える。

 そしてこの写真——〈ENUE〉と刻印された印画紙。知人のカメラマンに確認を取ったが、同名メーカーのインスタントカメラ及び印画紙は過去から現在まで存在しない。

 私はスマートフォンをポケットに戻し、コップに口を付ける。そのタイミングでマスターが声を掛けてくれた。

「お久しぶりですね、柳井さん」

 口ひげを伸ばすのは止めたのか、すっきりとした顔立ちは以前より若く見える。随分老けた私とは正反対だ。

「お久しぶりです。今日はこっちで仕事があったもので」

 私が一言付け足したのがよほど珍しかったのだろう。マスターは驚いている。

「そうでしたか。幾年月経とうとも、こうしてお会いできるのは嬉しいことです」

「ボウモアの十二年。覚えてくれてるとは思いませんでした」

「当然ですよ。私にとってこの店は人生。忘れても良いことなど、何一つありません」

 マスターは棚のボトルを拭きながら、ごく自然にそう言った。

「素晴らしい人生ですね」

 左手の壁には有名な絵画のレプリカが掛けられている。確かマーク・ロスコという画家の作品だ。私にはさっぱりわからないが、妻はこの抽象画を気に入っていた。彼女をこの秘密の場所に連れてきた、最初で最後の時の話だ。

「マスター。新宿召死夜事件って覚えてますか」

「ああ……あれは衝撃的な事件でした」

 四年前の夏、新宿伊勢丹前で突如として刃物を持った男が通行人に切りかかった。男はSNSで〈召死夜〉というハンドルネームを使って人類の間引きを訴えていた狂人。死傷者六人の中に、私の妻も含まれていた。

 妻はその少し前まで鳴居にいた。実家で出産し、約一年子育てをして東京で暮らす私の元に戻ってきた。その直後の事件だ。私は休暇を使って娘を預かり、彼女に久しぶりに友人と遊べる時間を作ってやったのだ。

「……」

 自分から話を振っておきながら、私は、それからマスターに返す言葉を思いつかない。

 二人で生きていくのだと決めた。そのときから私には、私たち夫婦に起こったこと全てに責任がある。

 その責任に対し、私に何が出来るだろう?

 召死夜は自ら命を絶った。

 私は、私の妻に対する愛は、まだ行き場なく彷徨っている。

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