二章 太陽の顔が違う気がする(5)
泡。
小さな泡、中くらいの泡、大きな泡。
色んな泡が俺の目の前を絶え間なく上昇していくのを見た。
波。
穏やかな海だった。俺は泳ぎには自信がある。七歳だったあの時も、父さんと母さんの目をいかに盗んで海に入るか、そればかり考えていた。少しでも遠く、深いほうへ泳いでみたかった。
必死になって顔を海面に出す。海の底から何者かに引きずり込まれるように、すぐに体全体が海中に沈む。
海面と海中の境界で、まるで俺をあざ笑うかのように揺らめく波を見た。
「晃太!」
父さんが俺に気づき、海に飛び込む。みるみるうちにその体は大きくなり——俺のことをいつだって守ってくれる、たくましい父さんの体になる。
俺が海面に顔を出す力も失い、意識を失う一瞬前に、俺に手を伸ばした父さんは安堵の表情を浮かべていた。
どうして先に溺れていた俺が生き延びて、父さんが死んでしまったのか。
苦しくて、怖くて——誰にも聞けなかった。
それ以来俺は、海に行かなくなった。
プールにも入らないし、風呂にさえ浸からない。
もちろん、港に行こうなんて考えたこともなかった。
父さんが死んだ後、母さんは務めていた大病院を辞め、酒に溺れ、俺たちは父さんの残した保険金を食い潰して地獄のような日々を消化していく。
そうやって父さんが死んだのは、十年も前の話だ。
さっきからスマホが震え続けている。
「実際のところどこまでいったんだよ」「言わない」「名前くらい良いだろ」「ノーコメント」「ムーアが悲しんでるぞ」「それは去勢されたからだろ」「親父が勝手にしたんだよ。俺は止めた」「可哀想に。それでもムーアは男だ」「お前も男、だったとはな」「どういうことだ」「俺以外とつるまねぇからもしかしたら……」「それ以上言うな」「つれないわねぇ、あ・な・た」
付き合ってられないな。俺は立て続けに送られてくる賢志からのチャットを無視した。
電源を落としてしまいたいところだが、柳井から電話が来るかもしれない。
「着信履歴はなし、だ」
俺は自分の部屋の椅子に座っていた。小学校に上がる前に買ってもらった学習机。ハンバーガーのお子様セットについてきた玩具が、未だに隅に置かれている。
紅はベッドを占拠している。枕の上にタブレットを置き、画面を右に左にスライドしていた。顔写真の隣に細かい文字が並んでいて、履歴書のように思える。
「今日中に返事があるとは思ってないわ。やっぱり、次の手も考えとかないと……」
紅は今、ピンクのボアパーカーを着ている。フードの部分には猫耳付き。母さんが「紅ちゃんに似合うと思うの」と上機嫌で買ってきたのだ。
あまりに彼女のイメージと違うので「センスなさすぎだろ」と突っ込んだのだが、これが着てみると中々しっくりきている。しっくりきすぎて、同じ部屋にいられるとどうも落ち着かない。
「ねぇ波木。あなたテロリストにならない?」
「いきなり物騒な冗談だな」
「ジョークじゃないわ。手っ取り早く住民を避難させる方法よ。お爺ちゃんの協力を得られなかった場合の保険。鳴居市のあらゆる場所に爆弾を設置して、警察と市庁舎にテロ予告を出す。全員避難させざるを得なくないかしら?」
「俺を牢屋にぶちこむつもりか。もっとまともな方法を考えてくれ」
「地球外生命体が二十五日午前八時に襲来します。直ちに避難してください、って? そもそもまともじゃないことが起こるんだから、正攻法じゃ無理よ」
「そりゃそうなんだが、もうちょっとマシなやり方はないのか?」
「協力は惜しまないって約束だったはずだけど」
紅がベッド脇に置いていたバックパックに手を突っ込み、中のものを俺に投げた。
手のひらよりやや大きい、プラスチックの箱だ。
「何だこれ?」
「爆弾」
びっくりして放り投げてしまう。黒い箱はベッドに落ちた。
「驚きすぎよ。本当は時限式の煙幕。これを三つ、人気のない場所に設置する。まずは脅しね。テロ予告に一定のリアリティを出すためよ。少なくとも無視したら危険だとは思うでしょう。それから時間差で本物の爆弾を使って鳴居各地を爆破するってわけ。同じ形の時限式爆弾も用意していて、時間を二十五日の午前九時に設定しておく。アルファの出現前に見つかったら爆弾処理班に解除されて終了。出現後まで見つからなかったり予告テロが相手にされなくても、アルファに怯えてみんな逃げ出すわけだから、爆発したところで人的な被害はなし。一応、逃げ遅れた人がいても大丈夫そうな場所を選ぶ必要はあるけれど」
俺は黒い箱と紅を交互に見る。ただの煙幕。誰も傷つかない。そして、誰かを守れる。
「誰も避難しなければ、どれくらいの被害が出るんだ?」
「待ってね……こうなるわ」
紅はタブレットに鳴居市の地図を表示する。俺の家の近くをズームしていくと、やや北側に赤く塗られたエリアがあった。ほぼ円形をしている。その周囲にも黄色く塗られた場所があり、この家はそこに含まれていた。
「赤く塗られているのがアルファの出現によって下敷きになるエリア。黄色い範囲が出現による副次的な災害、地響きや火災で被害を受けるエリアよ。生粋の鳴居市民であるあなたなら、どれだけ被害が大きいか想像出来るんじゃない? アルファがあの腕を振り回すまでに避難が完了していなければ、死傷者は一万人を超える」
タブレット右側には、避難率とそれによる死者数の推移がわかりやすくグラフ化されていた。避難率が一〇〇パーセントになれば、当然死者はゼロだ。
「——オッケー。やろう」
「さすがは人類を救う女の助手ね」
「小物感がすごいなその言い方……。で、後はパイロットか?」
「そうね。でもこの選定が難しいのよ。パイロットはノーマン大尉がやることになっていたから、本来であればこの世界でスカウトする必要なんてない。協力者候補としてリストアップしてる人たちの中で、パイロットを頼めそうな人はごく僅かなの。その中から一人を選ぶとすれば……彼はどうかなって」
タブレットの画面が自動で切り替わる。AIのエナが紅の意図を察知したのか。
「市外の駐屯地にいる自衛隊員、
自衛隊の制服じゃなければ、中学生でも通用しような童顔だ。
「同じ?」
「私の時代には、米軍と階級の呼称を合わせてるのよ。この時代はまだ三等陸尉——三尉という呼び名になってるけど、階級としては私の少尉と同じ」
「ややこしいな」
「呼称なんてどうでも良いって思うかも知れないけど、これを変えるときはかなりもめたのよ。まぁそれは良いわ。宗太郎は将来アルファとの戦闘で死亡するから、その証拠を見せれば手を貸してくれる公算は高いわね。さらに彼の父親、高坂
「おいおい。今さらっと死亡って言ったか?」
「ええ、言ったわよ。国を守るのが自衛隊の仕事だもの、侵略者が来たら当然戦うでしょう。そして沢山の戦死者が出る。高坂はその中の一人よ」
ニュースでも読み上げるような口調。
戦場に出て、人が死ぬ。
彼女にとっては当たり前のことだから、そうなるのだろう。
「そ、そうか……そりゃあアルファを倒して、助けないとな」
「でしょう。あなたはそのために手を貸してくれている。簡単にできることじゃないわ」
「話を聞く限り、その高坂って自衛隊員のほうが柳井より肉体派な感じがするけどどうなんだ?」
「彼には問題もあるのよね。父親に反抗できず渋々自衛隊に入った経緯がある。入隊してから記録上特に問題は起こっていないけれど——二〇五二年に父親の真太郎を知っている人がいたわ。彼から聞いた話だと、とても潔白とは言えない息子だったみたいね。恐らく父親がもみ消した話もかなりあるでしょう。それが暴行なのか、薬物なのか、万引き程度の可愛い犯罪なのかはわからないけれど」
「そんなやつが二番手の候補なのか」
「私たちが情報を掴めて、かつタイムリープを信じさせられるだけの証拠を持っている相手じゃないと駄目だし、仕方ないのよ。波木がパイロットになってくれるなら全部解決するんだけどね」
「言ってたことと違うぞ。俺には才能がないんだろ」
「才能より重要なこともあります」
タブレットの中のエナが言った。
「エナの言うとおりよ。ARMの操縦ならまだ訓練する時間がある。重要なのは、あなたが私を信じていて、私もあなたを信じているということ。
精神状態による影響も受けるARM操縦において、パートナーとの信頼関係は個々の技量より重視される。お爺ちゃんならもちろん私も信じられるし、彼の人柄から私のことも受け入れてくれると思ってる。でも、もしそれが駄目なら……候補者リストのどの人物よりも、あなたが適任なの」
考えて出した本当の結論がそれ、か。
「買いかぶり過ぎだろ。ただの高校生で太刀打ち出来る相手じゃないさ」
「私のいた世界で——その世界の二〇一九年に、初めてアルファに傷を付けたのが誰だかわかる? 現地の男子学生よ。自衛隊が距離を取った銃撃戦によって無駄に時間を費やしている間、草刈り用の鎌を手にした彼はたった一人でアルファに接近し、鱗の隙間に鎌を突き立てた」
「そんな選ばれし者みたいな勇気、俺にはないって。異界獣と戦うなんて出来ない。第一、信頼関係って言うけどな……偶然君を見つけたのが俺だっただけ。きっかけがあれば、他のやつも俺と同じことをしたよ」
「あなた以外の人が、あのシャッターの裏で倒れていた私に気づいて助けてくれた? 私はそうは思わない。あなたには優しさと、人を救いたいという想いがある」
人を、救いたい——。
頭の中で父さんの最期の姿がフラッシュバックする。俺に手を伸ばし、安心しきった父さんの顔。
そして葬式で見た遺影の、笑顔。
「俺はそんな大それた想いで君を助けたわけじゃない。女の子が倒れてたんだ。ただの下心だよ」
「嘘が下手ね」
後先考えずに突っ走って、嘘が下手で、痛い目見たりして。古くさい正義のヒーローみたいなところがあったでしょう。あなたの父親には。
母さんがそう言ってたな。
「——シミュレーターで首が飛んだよな」
あの時の恐怖がぶり返す。
「ええ。ああなったらパイロットは死ぬ。うまく私が上書き出来ても、メインカメラがついている頭が飛べばコクピットから外の様子が見えなくなるから、結果は一緒。アルファに蹂躙されて終わりね」
「そうなったら母さんが一人になるんだ。そんなことは出来ない」
どうして俺が頑なに拒むのか。
本当のことを話さないのはフェアじゃないのかもしれない。
紅はたくさん話してくれたのに。
でも、俺の喉は、締め付けられてしまう。
父さんのことを口にしようとすると。
「そうね。その通りよ。素敵なお母さんだわ。あなたが優先すべきは四番目の約束」
四番目——危険を感じたら迷わず逃げること。
「巻き込まれただけのあなたは、傷つくべきではない。今の会話は忘れて」
「ああ。そうするよ」
紅がおもむろにパーカーのフードを被る。
「でも偽のテロリストにはなるのよね? この黒い箱を設置する場所を考えたいの。データより現地に詳しい人の意見が欲しいわ」
もちろん、手伝わせて欲しい。
俺みたいな弱虫でも、人を助けられることがあるなら。
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