二章 太陽の顔が違う気がする(4)

二〇一九年八月二十一日深夜。

 旧鳴居港に辿り着くと、私は仰向けに倒れ込んだ。

 真夜中の空。ピークが過ぎたとは言え、まだ台風の余韻は残っている。真っ暗で、飛行機のような人工的な光も皆無だ。

 自然に涙が出ない自分が憎らしかった。意志によって涙することさえできないことが悔しかった。ノーマン大尉は自らの出身国ではなく他国のために日本国籍を取り、ニューナルイを捨て、この二〇十九年の鳴居までやってきた。例え自分と、その周りのものをどれだけ捧げても救いたいものがあるということ——その精神は、賞賛されるべきものだ。

 何より彼は私のもう一人の父のような人で、あの飛行型異界獣の子ガンマとの戦闘時に出会って以来、戦場でもそれ以外の生活面でも、幾度となく助けられてきた。恩師。なのに私は、こうして自分の疲労のために破棄された港に倒れ、任務遂行のみを命題として疲れを取ろうとしているだけ。ノーマン大尉の死に対する感情を露わにすることはない。

 私だって悲しいのだ。

 私だって苦しいのだ。

 でも、それは常に仮面の奥で制御され、どのような形であっても外に漏れることはない。

 今頃彼は、海の底へ沈んでいるだろう。

 私を恨むだろうか。

 そのような考えさえ、任務遂行を阻むということから、私の行動を阻害することはない。

 いつから、私は、ロボットになってしまったんだろう。

 ARMのぎこちない動きは、私によく似ている。


「なぁ紅」

 俺と紅は千佰寺駅前で車を降り、そのまま電車を乗り継いで家に帰った。母さんは仕事中だからいない。

 柳井と別れてから、紅はずっと思案顔で口を閉ざしていた。

「どうせ帰るなら送ってもらえばよかったな」

 沈黙も長く続くと気まずい。

 俺はさっきから話題を思いつく度に話しかけている。

「念のためよ。誰かにバレたらそれはもうセーフハウスとは呼ばないわ」

 テレビを眺めたまま紅が言う。

 柳井——自分の祖父を警戒しなければならないこと。

 それが辛い、のか。

「明日、お爺ちゃんが私のお願いを聞いてくれる保証は一切ない。次の手も打っておかなきゃいけないわね」

「それで良いのか?」

 俺はチャンネルを変える。明るくなる番組——漫才とかがやっているといいんだが、そううまくはいかなかった。

「それしかないでしょ?」

「でも紅はあの人に賭けたいんだろ。信じたい人がいるなら、信じ切ってみても良いと思う」

「信じてみて裏切られたら? 後がないのよ」

「紅はあの人が裏切るなんてちっとも思ってない。そうだろ?」

「……そうだけど」

「なら良いじゃないか。他の何十億って人たちからは恨まれるかもしれないけど、俺は、紅がどうしたいかを尊重してほしいと思ってる。君にはそれだけの権利がある」

「そうかしら……少し、考えてみるわ」

 そう言うと彼女は階段を上がっていった。

 しばらくは一人になりたいだろう。

 俺も今は待ち、だな。

 時間を見るとまだ十六時前だ。

 平野さんはバイト中のはず。シフトを変わってもらったお礼を言いに行くか。

 クーラーの効いた部屋から出て行くのは気が引けるけれど。

 少しでもサウナ状態の外にいる時間を短くしようと、俺は早足でトミザワマートに向かった。

 正面のガラスドアから、客として入ることにする。

 中はノーゲスト。

 店内調理のポテトや唐揚げが少ないのを見る限り、さっきまではそれなりに忙しかったようだ。

「あ、晃太くん。どうしたの?」

 平野さんはレジに入っている。

「明日、シフト変わってもらったので。お礼にと思って」

 俺は持ってきた紙袋を渡す。

「気が利くねー。おお、カタドールのパウンドケーキ!」

 あそこのマスターは見た目に反してどんなスイーツでも絶品に仕上げる。

「今日は誰とシフト一緒でしたっけ?」

「山本さんだよー。今はバックヤードで煙草休憩中」

 あの酔っ払いのお爺さんか。

「良かったら一緒に食べてください」

「ありがと。ところで晃太くん、彼女出来たんだって?」

「どうしてそれを……」

「さっき賢志くんが来て、凄い勢いで喋っていったんだ。ムーアと一緒に町中に言いふらしてるんじゃないかな」

「一応聞きますけど、何て言ってました?」

「他校のモグラ系女子を捕まえて毎日お互いの家でいちゃいちゃ、でも昨日の夜はついに二人で出かけたっきり戻ってこなかったとか。あと、意外にも君はソクバッキーで彼女を夏休み中ずっと独占してるから、彼女の友達がみんな困ってるとか」

「それ、平野さんの妄想も入ってませんか」

「んー。ごちゃごちゃいっぱい言われたからねー。うまく整理したつもりなんだけど」

「彼女が出来たことを除けば全部間違いです」

 そして実は彼女ということも間違いです。

「ま、噂は尾ひれがついてなんぼだしね」

 俺は大きなため息をつく。もう手遅れだが、スマホを開き賢志にすぐにやめるようチャットを送った。

 既読がつくと同時に、親指を立てた絵文字が一つ届く。

 こいつ、やめる気ないな……。

「でも良かったよ、晃太くんが幸せそうで」

「え?」

「だって晃太くん、楽しむことが悪いことだって考えてるでしょ? バイトの交流会だって絶対来ないし」

「そんなことないですよ。交流会は大人数が苦手だから断ってるだけで」

「なら良いんだけどねー」

「平野さんとのバイトだって、楽しいことの一つですし」

「お、余裕のある男は言うことが違うねぇ」

 平野さんの顔が緩む。俺はそれを見て胸をなで下ろした。

 楽しむことは悪いこと、か。

 そうじゃないんです平野さん。

 ただ俺は、あるときから、楽しみ方がよくわからなくなった。

 それだけなんです。

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