一章 未来という言い方(6)

 紅と相談した結果、母さんにはバックパッカーだと説明することにした。つまり、彼女が始め俺についた嘘をそのまま使ったわけだ。「バイトでお金は貯めてたんですけど、もう手持ちが少なくて。節約のために泊めてくれる家を探していたんです」彼女が申し訳なさそうにこう言うと、母さんはうちに泊まっていくことを提案した。表情を作るのは得意みたいだ。トントン拍子で話が進む。

「良いんですか?」

「もちろんよ。二階奥の部屋が空いているから使ってね。ちょっと散らかってるけど、晃太がすぐ綺麗にするわ」

「なんで俺が」

「あんたが男らしくこの子を口説き落とすって言うなら別だけど? ベッドは一つで良いものね」

 今日会ったばかりの女子の前でとんでもないことを言う。

「……わかったよ」

 俺が空き部屋を片付けている間、紅は母さんの質問攻めを喰らっていた。ボロが出るんじゃないかと心配だったけれど、杞憂だったようだ。リビングに戻ったときもまだ話は続いていて、紅はありもしない学校の交友関係を語っている。

「未来から来た人間がいるなんてことになったら、大騒ぎになるでしょう。この時代の人間に見られるために、充分な準備をしてきたわ。生まれてから今日までの人生を、完璧に作り込んである」

 あの言葉は本当だったんだな。

 汗で体がべとついている。俺は早めに風呂に入ると、女子トークに花を咲かせる二人を置いて自分の部屋に籠もった。

 ——二〇五二年から来た、か。

 協力するとは言ったものの、わからないことが多すぎる。紅は未来からどうやってこの時代まで来たのか。怪獣はなぜ鳴居にやってくるのか。どう怪獣を倒すつもりなのか。

 結局俺は肝心なことを何も知らない。

 それで信じるだなんて、俺もつくづく馬鹿だな。

「ずいぶんくつろいでるじゃない」

「そりゃマイホームだからな……っておい」

 紅が部屋のど真ん中に置いたビーズソファに背中を預けていた。

「そうね。そして今日からは私のセーフハウスでもある。こんな椅子はニューナルイにはなかったわ、とても良い座り心地ね。東海岸まで出れば売っているのかしら」

「ネットでポチッと……じゃない、いつの間にいたんだ」

「ついさっきよ。考え事かしら? とても集中していたようね」

「ノックくらいしろよ」

「ニューナルイにそういう習慣はないわ」

 紅は体を起こし、バックパックの中に手を入れる。母さんが勝手に貸したんだろう、俺が中学のときのジャージを着ていた。風呂はもう済ませたようで、まだわずかに髪が湿っている。

「君の部屋は隣に用意してる」

「寝るにはまだ早すぎる時間よ。夏休みの高校生は夜更かしするものだって聞いたけど違った?」

「合ってるよ」

「良かった、資料は思った以上に正確みたいね。私が話したことについて、あなたはまだ幾つか疑問に思う点があるでしょう。少しでもそれを解消できればと考えてる」

 紅がバックパックから出したのは、黒い全身タイツとごついベルトのようなもの。

 まさか未来仕込みの一発ギャグでもやるつもりか。

「疑心暗鬼この上ないって顔ね」

「そりゃあそんな昭和芸人御愛用の道具を出されたらな」

「何を言ってるの? これは〈対異界獣人型機動兵器ARM〉操縦訓練用シミュレーターよ。このベルトがついた機械がヘッドマウントディスプレイHMDで、頭に装着するの。この時代にもあるでしょう、仮想現実VRというものが」

 言われてみると確かに、VR機みたいだ。コードから怪しい金の針が飛び出しているのは気になるが。

「ベニ、そこまでする必要がありますか? 彼を巻き込み過ぎです」

 タブレットからAIの声がする。

「いいじゃない、一知るのも百知るのもリスクの上では同じことよ。それに、彼に思いがけない才能があるかも」

「どちらも同意できませんね、マスター」

「議論はよりよい結論を導くために行われる。なのに私たちったら、いつも平行線。そうは思わない?」

「あなたのせいです。私のことをAIだからと言って蔑んでいるのでは?」

「AIだと思ってるなら、とっくにアンインストールしてるわよ」

 仲が良いのか悪いのか。どちらにせよ——。

「紅は相手が人間だから喧嘩するってわけだ」

「コウタ、それは素晴らしい指摘です。私の人間らしさの一例がまた一つ増えました。AI人権運動に使えるデータです」

「なぁ。エナって名前はもしかして小説から取ってるのか?」

「はい。ベニが好むファンタジー小説の主人公から拝借しています。しかし、私とそのエナでは多くの点で差異があるようです」

「君のモデルは紅だって言ってたもんな」

「しかし結局出来上がったのはエナという、ベニとも小説の主人公とも異なる新しい人格でした」

「良いことじゃないか」

 ごほん、と紅があからさまな咳払いをした。

「雑談はそれくらいで良いでしょ? これからあなたにはこのシミュレーターでアルファを実際に見てもらおうと思ってるの」

 彼女がHMDを俺に手渡す。

「そしてARMでの戦闘も体験してもらう。VR自体はあっても、ここまでの技術はこの時代にはないはず。オーバーテクノロジーであることがわかってもらえれば私の言葉の信憑性がより高まるでしょう? それに、あなたはアルファを見たことがあるっていうけど——アルファの脅威をシミュレーターで体感すれば、私の任務がどれほど重要なものかってのをもっとずっと理解しやすくなるんじゃないかしら。さぁ、早くこれに着替えて」

 といって紅は黒タイツを差し出す。

「機動兵器——それがあの映像に出てたロボットか?」

「そう、人型ロボットに乗って怪獣を倒すの。やってみたくない? ほら、早く」

 俺は紅と芸人ばりのタイツを交互に見る。

「これが必要だとは思えないけどな」

「必要よ。でないとシミュレーターが機能しないわ」

「こんな服着てやるゲーム聞いたことないぞ」

「そりゃあこの時代にないんだもの」

 未来だもの、という言い訳はずるい。

 俺には反論する術がないんだからな。

 けれど怪獣と戦えるゲームと考えれば、当然興味はある。俺は紅に背を向けてタイツに着替えた。少しサイズが大きいかと思ったが、胸にあるボタンを押すと生地が縮み、体にぴたりと密着する。

 これは恥ずかしいな。

 見られたくないのが本音だが、今さら引けない。俺は堂々とした態度で後ろを振り返る。すると、そこには下着姿の紅がいて今まさに同じタイツを着ようとしていた。

 ……まじかよ。

 慌てて体を反転させる。

 未来では羞恥心の感じ方も変わっているのか。

 心臓が強く鼓動しているのがわかる。体が固まって、変に背筋が伸びてしまう。意識しないでおこうとすればするほど、さっき見た下着だけの後ろ姿が脳裏に浮かぶ。

 彼女の腰の辺りには、大きな火傷の跡があった。

 それだけじゃない。母さんが言っていたとおり、ぱっと見ただけでも傷や痣がいくつか見つかった。

 紅は未来の自衛隊員だと言った。

 自衛隊は怪獣と戦っているのだとも。

 その戦いでついた傷、なのか。

 俺と同い年の女の子が。

「ほら、突っ立ってないでこれを頭に付けて」

 紅の声がして、再び振り向く。

 既に彼女も全身タイツ姿になっていた。

 HMDを受け取り、頭に被せる。目の前は真っ暗だ。

「しゃがんでくれる? ベルトを締めてあげる」

 言われた通りにすると、彼女は俺の正面から後ろに手を回し、ごちゃついたベルトを弄った。ぐらついていたHMDが頭にフィットする。最後に首と頭の境目辺りを触られている時、ちくりと刺すような痛みがあった。

「ん? もしかしてさっきの針か?」

 言った後すぐに、手の指にも同じような痛みが走る。声を上げるほどではないけれど、気持ちが悪い。

「そうよ。あなたの体をスキャンするためだから。害はないし、すぐ慣れるわ」

 紅に手を引かれ、ベッドの上に腰掛けた。

「じゃあ起動するわね。私もすぐに行くから、その場で待っていて」

「了解」

 少しずつ瞼を開くように、目の前に光が広がっていく。外から来る声は完全に失われ、無音空間に特有の耳鳴りみたいなものが響く。

 既にゲームは始まっているのだ。

 俺は顔を動かしてみる。話に聞いたVRゲームと同じく、映像は俺の顔と連動して動いた。どうやら背もたれの長い椅子に座らされているようだ。腕を肘掛けに載せ、手にはさっき着せられたタイツと同じ生地の手袋を嵌めている。その手袋は肘掛けの先端についたトンネル状の何かの中に入っていた。血圧を測る機械とそっくりだ。

 手首はアルミのような質感のリングで固定されており、動かすことは出来ない。

 驚いたことに、俺はそのリングの硬さを感じている。椅子のほどよい柔らかさも。ベッドに座っているという感覚は一切消えていた。

 これが未来のVRゲームか。凄いな。

 狭い部屋だ。辺りを観察する。地味色の金属の内装は質素で、ハンドルや計器類は見当たらない。正面ものっぺりとした壁になっているから、外の様子は不明。シミュレーターというからここはロボットの中で、運転席なのだろうけど。

 これでどうやって怪獣と戦うんだ?

「お待たせ」

 後ろから声がする。体は固定され動かせないので、首を無理に背中側へ曲げた。俺の座席より一段高い位置に、もう一つ座席がある。紅はそこに座っていた。

「意外と落ち着いているのね。もっと大げさな反応をすると思ったのに」

「こんな地味な場所に連れられて、わくわくもどきどきもないだろ」

「まるで電気椅子みたい?」

「それは思いつかなかったな。でも、確かにそっちのが近い」

 紅はHMDを付けていない。服装は迷彩柄の、たぶん自衛隊のもの。自分の体を見直すと、同じ服装になっていた。

「実際〈第二世代〉はそう言われていたのよ。〈守護者ガーディアン〉のいない時代はね」

 彼女の手首にもリングもついているが、俺のとは違ってコードが付属しているから腕を自由に動かせるようだ。後部座席には十数個のモニタがついていて、手袋を付けたまま彼女はそれらを操作している。

「まぁでも、そんな昔のことは気にしなくていいわ。私たちがいる場所は、対異界獣人型機動兵器——ARM。その第四世代の、コクピットよ」

 俺の目の前に突然映像が浮かび上がる。人型ロボットが四機、横並びになっていた。どれも見た目は大きくは変わらず、足が腕よりも太い三角形のシルエット。色も地味な褐色や灰色だ。お世辞にも格好良いとは言えない。右にいくほど機体は大きくなっている。一番右の機体の上部にthe 4th generationという文字があった。今俺が乗っているのはこれか。

「頭の上に一本飛び出してる角みたいなのは? アンテナっぽいけど、すぐ折れそうだな」

「まさにそのアンテナよ。二〇五二年の場合は、司令部や他のARMとの通信に使われていたわ。ここじゃARM一機だし、司令部もないから無用だけど」

「じゃあ折れないよう守らなくてもいいんだな」

「頭突きでもするつもり? ああ見えて頑丈だから、案外使えるかもね」

 紅が第四世代の3Dモデルをアップにする。

「コクピットがあるのは胸部の中心やや後部。第四世代——通称〈ACCSRアクスル〉は二人一組で機乗することになってるわ。前の座席に座るのが〈操縦者パイロット〉、後ろの座席に座るのが〈守護者ガーディアン〉。あなた——つまりパイロットはARMを動かし、アルファと戦うのが役割ね」

 映像が切り替わり、黒い物体が映された。

「オリジナル・アルファよ」

「これもかなりイメージと違うな」

 映像で見たのと比べてずっと小さいし、ひ弱そうな腕が二本垂れているだけ。縮尺のせいでそう見えているだけかもしれないが……。

 これだけだとあまり脅威は感じない。

「あなたに見せた映像は、第八十一形態のアルファだから。進化する前はこういう外見だったのよ。どんなものかは後で戦ってみればわかるわ」

「何だか楽しみになってきたな」

「真剣にやらないと、後悔するわよ。じゃあ次は操縦、の前に——あれ?」

 紅が上着のポケットを探っている。

 何か探しているようだ。

「シミュレーターだし、まあいいわ。それじゃあ操縦の仕方を教えるわね。〈結合ユニオン〉するから動かないで」

 自己完結されるとちょっと気になるな。

「待ってくれ、俺が操縦なら紅は何をするんだ?」

「後で説明するわ。エナ、ユニオンを」

「了解しました。パイロットおよびガーディアンは静止してください。ユニオン開始——」

 動くなと言われれると、変に気になるところが出てくる。座席に尻がうまく嵌まっていないようだ。体をもぞもぞと動かして位置を微調整していると、いきなり視界が暗転し——意識を失った。

 そして目が覚めたとき、俺はどこかとても高いところから鳴居市を見渡していた。

 頭がぐらつく。

「だから動くなと言ったでしょう。頭痛はすぐ治まるわ。意識が飛んだと思うけれど、一瞬のことよ。さあ、自分の体を見てみて」

 自分の体?

 俺は右手を顔の前に持ってくる。体が思うように動かないのは、意識が飛んだのと関係しているのだろうか。スローモーションになった自分の感覚をしかし楽しみながら、俺は手に嵌めた黒い手袋を——

「え?」

 違う。

 それはさっき映像で見せられた、地味なロボット——ARMの右手だった。

 やや頭を下げたために、体の他の部分も視界に入る。金属板を打ちっぱなしにした無骨な胸、不細工な二つの野太い脚。足下には建ち並ぶ一軒家がジオラマのように小さく見える。自分の、いやロボットの高度のため俺はまた別の種類の目眩に襲われた。

「あなたは今、ARMそのものよ。普段自分の体を動かすのと同じように、腕や足を動かして操縦することが出来る。難しい操縦方法なんか覚えなくても誰でも簡単に扱える、便利な仕組みでしょう?」

 額に手を当てる。いつも通りの無意識な行動でも、ロボットは認識してその通りに動く。

 わかったこと。

 紅は事が起こってから重要なことを話す。

「手遅れの常習犯だな」

「何か言った?」

「いや何も」

 身長がでかくなるだけで、こんなに怖いものなんだな。でもこのまま動けず終わるというのも悔しい。高さに慣れるにはしばらくかかりそうなので、真正面を向くことにした。

 俺は通天閣の展望台から景色を眺めている。それだけだ。

 恐れる必要はない。

 ——よし。

「どう、少し動いてみない? この街は偽物だから、いくら壊したって良いのよ」

「ああ。やってやるさ」

 俺は左脚を普段通り動かして一歩前に進む。視線が高いせいで、ビルの屋上からわざと飛び降りようとしているような感じがする。つま先に足下の家がぶつかって少し痛い。家々が盛大に崩れる音も、この高度からは軽く聞こえる。一歩踏み出すのが成功してからは、恐怖も消えて楽に進めるようになった。

 饅頭のような形の黒い物体。

 陽光を浴びてその表面は鈍く光っている。

 視界に地球外生命体——アルファが映っている。だけどそこまではまだかなりの距離がある。ちょっと歩いたくらいでは、戦闘にはならないだろう。

「ふうん。度胸もあるのね」

 俺がスローペースながら歩き始めたことに、紅は感心しているようだ。足下の障害物にぶつかるといちいち痛むので、自然と足を高く上げる歩き方に変わる。

「なぁ、ロボットに乗ってるのに痛いんだけど、どうしてなんだ?」

「良い質問ね。それは私の役割にも関わることよ。一旦止まってくれる?」

「オーケー」

 ずん、と足裏がアスファルトにめり込む音。

「パイロットはARMと神経接続することにより、自分の体を動かすのと同じようにARMを操縦することができる。ただその代償として、ARMが受けた物理的ダメージがパイロット自身にも影響を与え、実際に痛みを感じてしまう。そして逆に、パイロットの感情がARMの動きに影響を与え暴走する可能性もある。ARMの操縦は、利便性と引き換えに非常にセンシティヴなものになってしまったの。

 そういったデメリットを排除するために生まれたのが、ガーディアンというもう一人の乗組員よ。

 ガーディアンがやる仕事は主に三つ。

 一つは〈物理的ダメージの上書き〉。アルファの攻撃を受けた際に、ガーディアンは被害箇所を即座に把握、パイロットの感じる痛みと自分の健康な身体情報を入れ替えることでパイロットから痛みを取り去る。例えば戦闘であなたの頭が吹き飛ばされたとき、あなたの脳に対し私の正常な頭をあなたの頭であるかのように認識させるということをするの」

「その例えは怖すぎるぞ」

「戦闘とは怖いものよ。この上書きによってパイロットはアルファからの攻撃を受けてもひるむことなく立ち向かえ、過度な痛みによる死からも逃れられる。実際にはARMが受けている傷だとしても、その痛みが致死量に達したら、人間は感覚だけで死んでしまうの。

 もちろん私たちがパイロットと同じように痛みを感じていれば意味がない。だからガーディアンはパイロットと異なり、ARMと神経接続していない。操縦には一切関与できないわけね。

 次はガーディアンの役割、二つ目ね。パイロットの〈精神状態の上書き〉。パイロットが怒りで我を忘れたり、恐怖で足がすくんだりすると、ARMの操作系にも大きな影響が出てしまうの。意図していないのにARMが自傷行為に及んだり、自爆してしまったりといった事例が確認されているわ。それを防ぐために、ガーディアンは常に冷静に戦闘を外部から俯瞰し、パイロットの精神状態の変化を読み取ったら直ちに自分の精神状態をARMに認識させるの。

 ここで重要なのは、常にパイロットの精神状態を上書きしてはならないということ。精神と肉体はあまりにも密接に繋がっているから、それら二つが分離していては正常な行動を取ることは出来ない。それは人間も、ARMも同じというわけ。基本的には操縦者であるパイロットとARMを一体化させながら、緊急時のみ上書きを実施することで、操縦への影響を最小限に抑えているのよ。

 そして最後。ガーディアンはパイロットとちがってARMと視界を共有しないから、モニターによってより広範な情報を得ることが出来る。それによる〈ナビゲート〉が三つ目の役割よ」

「そっちはやることが多くて大変そうだな」

「そうね。実際ガーディアンの試験は難しくて、私の同期では他に誰一人合格しなかったわ。常に自分の感情を制御し、的確にパイロットの精神状態・身体損傷の箇所を把握し、対処しなければならない。

 上書きの実行は非常にシビアなの。波木、試しにそばにある電柱を引き抜いてくれる?」

「こうか?」

 俺は適当な電柱を掴んだが、力を入れすぎて潰してしまった。同じことを何度か繰り返し、四本目でようやくつまみ上げることに成功する。だが顔の高さまで持ち上げたとき、うっかり落としてしまった。

「あれ?」

 奇妙な感覚——いや、感覚というものがなかった。さっきまでモノをつまんでいた右の指が、そもそも存在しないような。

「これが物理的損傷の上書きによる副作用よ。あなたの脳が私の何も掴んでいない手を認識したせいで、電柱を掴んでいるという感覚が消えてしまった。だからその状態を維持するのが難しくなったの。

 もちろん、戦闘中にこうなったらまともに戦えないわ。そこはガーディアンの力量の見せ所ってわけで、うまくやれば痛みの原因となった部分だけを上書きすることで、あなたの意識による身体活動を阻害しないことも可能よ。それでも違和感は拭えないのだけど、後はパイロット側の技術でカバーすることになる。

 ガーディアンは最小限の干渉により、パイロットとARMを守る必要があるのよ」

「とんでもない仕組みを考えるんだな、未来人は」

「あら、もう信じる気になったの?」

「とっくに信じてるよ」

 紅こそ俺のことを信用していないんじゃないか。

 だから出来るだけ未来のテクノロジーってのを見せてくれてるのだと思える。

 だが彼女の表情からは何を考えているのか読み取れない。

 そうか。

 ガーディアンは感情を抑制しなきゃいけない。

 だから紅は……。

 ガーディアンになる前の紅は、どんなだったんだろう。

「ARMに関する説明は以上ね。後は必要があれば戦闘中に教えるわ。さ、戦いましょう」

「お、おい、ちょっと待て」

 紅はまたも俺の制止を無視した。ARMと接続されている状態ではコクピット内部を見ることは出来ないが、何か事を起こす操作をしたのは間違いない。

 視線の先で微動だにしなかった黒い物体。

 やがて人類を危機的状況に陥れるアルファの、その表面からはじめて青白い光が漏れた。

 鱗が波打っているのだ。

 警戒してその動きをじっと観察していると、地中から黒い触手が飛び出てきた。アルファはそれを思い切り横に振り払い、周囲の建物を破壊する。俺は距離を取っていたおかげで、ぎりぎり触手とは接触せずに済んだ。

「気をつけてね。言っておいたはずだけど、その触手みたいな腕は二本あるから」

「二本? 一本しか見えないぞ」

 まさか透明なのか?

「まさか透明なのか? なんてジョークは止めてよ。黒い腕が二本、だから」

「く……わかってるよ」

「アルファの腕は本体下部から生えているのよ。だから地上を攻撃する時には、地中から出てくる形になる。別に戦略的にそうしているわけじゃないわ」

 言ってるうちにもう一本の腕が出てきて、同じように周辺の建物をなぎ払う。

 アルファを中心とした円形の空き地が出来上がった。

 あまりにも軽々と。

 街は丸裸になる。

 ただの腕が生えた饅頭じゃないってことか……。

 縦の高さはARMと同じくらい。横幅があるせいで威圧感も思ったより強い。

 映像で見た化け物級のサイズと比べれば大したことはないけれど、それでも、ちびってもおかしくないくらい異様な怪獣だ。何よりぬるぬると波打つ体は見ているだけで吐き気がする。

「どっちにしろこれじゃ近づけないだろ。手はあるのか?」

「一度行動した腕は、しばらく停止しているわ。その隙に懐に入るのよ」

「近づいて来るってわかったら動き出すんじゃないか?」

「そうすぐに反応出来るほどの体力はないのよ。それに、オリジナル・アルファには人間の目・口・鼻・耳に該当する器官が存在しない。あいつには触覚だけが備わっているの。だから触れさえしなければ、私たちの正確な位置を特定することは出来ない。周囲で何が起こっているのかも想像するしかできないのよ、あいつは」

「さっきはわざと街を壊してるようにしか見えなかったぞ」

「ただ状況を把握するために動いてみたってところでしょうね」

「そんなことで街が更地になるのかよ……」

 アルファがまた触手を動かす。次は上に思い切り振り上げたかと思うと、すぐに地面に落とした。接した土地が凹み、大きく揺れる。地震さながらそこかしこの家が倒壊し、ちらほらと火の手が上がっているのも見えた。

 こんなのが現実で起こるのか。

 シミュレーターだとわかっていても、胸が苦しい。

「近づくのは良いとして、それからどうやって攻撃するんだ? どっかにバズーカとか隠れてるんだろ? っていうかこの距離から撃ってれば安全に勝てるんじゃないのか」

「火器類は一切搭載していないわ。アルファの表面の鱗が強靱過ぎて、攻撃は全て弾かれるの。あれに対して唯一取れる戦術は、接近して鱗を腕力で引き剥がし、むき出しになった内部構造を〈超振動ダガーMVD〉で切り裂くことよ。但し、鱗はアルファの鎧であり牙でもある。幾つもの鱗を自由に動かして、ARMを掴んだり、装甲を噛み潰したりも出来るわ。注意すること」

「凄いのか凄くないのか、よくわからない怪獣だ」

「宇宙の果てからやってきた生き物よ。人間的視点は通用しない。ダガーは左右の大腿前部に一本ずつ収納されてるから、どちらか抜いてみて」

「何だよ。見た目だけじゃなく戦い方も地味なんだな」

 このロボの設計者は、男のロマンってのを微塵も理解していないみたいだな。俺は文句を言いながらも左の太ももから飛び出た突起に手を掛ける。これがダガーだろう。

 超振動というが、見た目では平凡な刃だ。左右対称で先細り。本当にこんなものであの地球外生命体と戦えるんだろうか。

「とにかく、やってみるか」

 チュートリアルが長すぎた。俺は次にアルファの腕が動き、自分の目の前を通り過ぎたのを確認すると走り始める。普段より対空時間が短く、接地するたび腰に重みを感じる。これも紅が上書きしてくれていて、実はもっと負担が大きいのかもしれない。

「どうだ!」

 特に苦労なくアルファに手が届く位置まで来る。近づいてみると体高はARMのほうが若干上回っていた。アルファの腕の長さは、アルファ自身の横幅とほぼ一致する。

「波打っている体の表面をよく見て。六角形の黒い鱗に切り目が見えるでしょう? うっすらと内部から青白い光が漏れているはずよ」

「ぎりぎり見えるな。このうちの一個を掴んで引き抜けば良いのか?」

 俺は左手を伸ばす。ちょうど波打つ体が上に盛り上がったとき、鱗と鱗の間にわずかな隙間が出来ていた。そこに指を突っ込む。

「やるじゃない。そのまま思い切り引っ張って」

 俺は言われた通り全力で鱗を引く。鱗は中の青白い筋肉のような物体——内部構造とくっ付いており、それは引っ張るとスライムのようによく伸びる。ただどう頑張っても鱗を剥がすことは出来なかった。

「剥がすのは無理よ。そのままダガーで剥き出しになった本体を突き刺して」

 俺は右腕を振り上げ、明滅するアルファの体にダガーを突き刺さそうとした。

「右よ、伏せて!」

 右側から腕が勢いよく襲い掛かってくる。気づいた時には肩に触れる直前で、回避は間に合わない。

「っ痛ぇ!」

 体が宙に投げ出される。受け身も取れず左腕から接地してしまったが、衝撃は感じずに済んだ。

 機体の重さのせいだろう。あまり吹き飛ばなかったため、まだ腕の攻撃範囲内にいる。

「一旦引いて立て直しましょう。動ける?」

「大丈夫だ」

 と言ってもARMの体は生身の体と各部位の長さやバランスが異なる。立ち上がるのに思ったより手間取ってしまった。そしてその間に次の腕が、今度は左手から地面すれすれを這って襲い掛かってくる。

 でも、これなら跳べば避けられる。

 俺はジャンプ——しようとした。しかし思いとは裏腹にARMはその場に立ち尽くし、アルファの腕に足を払われてしまう。

 振り出しに、戻る。

 さっきと同じように、機体が左側面を下にして倒れた。

「故障か? 跳ばなかったぞ!」

「ごめんなさい、言い忘れていたわ。ARMに跳躍能力はないのよ。機体に負担が大きすぎるし、地面に足がめり込んで動けなくなったり、それでなくとも脚部の消耗が激しすぎるから」

 話を聞きながら俺はもう一度体を起こし、退却する。

「絶対に出来ない、というわけでもないんだけどね。背面のロケットエンジンを使えば機体を無理矢理持ち上げ、〈跳ぶ〉だけじゃなく〈飛ぶ〉ことも出来るわ。でも今回の〈鳴居計画〉ではエンジンの燃料を極力節約しなきゃいけない事情もあって。使えて一度だけよ」

「このロボット、出来ないことが多すぎないか?」

「それが現実よ。世界を救うという使命を負っているからと言って、何でもありにはならないわ。装甲だってリサイクル品だし」

「どおりで始めから傷だらけなわけだ」

「二〇五二年の私たちは、あなたたちと違って資源不足に苦しんでいるのよ。これでも上等なものを選んだんだから」

「そりゃありがたいね」

 会話を切り上げ、俺は再びアルファと対峙しようと気合いを入れる。左大腿のダガーはさっき吹き飛ばされた時に落としてしまった。右のダガーを抜く。

 抜こうとした。

 だがそれより早く腕が伸びてきて右足に巻き付く。獣の爪のように鱗を足に引っかけ、アルファはがっちりとARMを捕らえた。

「何で届くんだよ!」

「進化したのよ」

 静かに紅が言った。その言葉に俺は、わずかながら怒りが含まれているように思った。

「あいつの適応能力は異常よ。こちらからの攻撃で、アルファは自分に害を為す何者かが存在することを認識した。そしてその何者かは自分の腕で触れられない範囲に移動出来ることもわかった。腕を伸ばす程度の進化なら、あいつにとっては大したことがない——だからすぐに実行し、敵を捕まえることに成功した」

 俺は何か掴むものがないかと手を伸ばすが、周囲の建物は崩れ、地面に指を立ててもアルファの力の前には何の意味もない。

 アルファは自分の傍まで俺を引っ張ると、そのまま上に持ち上げた。なすすべもなく逆さまになってぶら下がる。

 まるで捕食される虫だ。

 俺は——無数の鱗がまるで俺を品定めするかのように接近し、肌をさすり、関節という関節に食い込むのを見ていた。

 もう駄目だ。紅もそれがわかって、全ての感覚を上書きしているのだろう。全身麻酔にかかったように体の動かし方がわからない。

 気味が悪かった。

 そして恐ろしかった。

 青白く発光するアルファの肉体が、腹を空かせた胃袋のように蠢いている。

 俺を食うって?

 もう一本の腕がふいに目の前に現れ。

 その先端はまばゆい光を発しながら、俺の頭を事もなげに吹き飛ばした。

「ああああああああああああああああああああああ!」

 自分の叫び声が、死んでも尚耳に残っていた。

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