一章 未来という言い方(3)

 ——二〇十九年八月二十二日。台風一過。

 部屋の明かりをつけて雨戸を開ける。太陽の鋭さに目を塞いだ。

 朝だ。嵐のことをすっかり忘れさせるくらいの晴天。でも見下ろすとアスファルトはしっかり濡れていて、所々に水たまりができている。

 夏休み、バイトが休みなら二度寝すべし。俺はもう一度布団に潜った。

 スマホが枕元で震えている。画面を見ると賢志からのチャットだった。「このバンドまじやばいから聞いてくれ!」というメッセージの後に、動画配信サイトのURLがついている。「後にするよ」と心の中で思って瞼を下ろした直後、目覚まし時計が鳴り響く。設定をオフにするのを忘れていたのだ。今日もバイトだと勘違いした母さんが部屋まで起こしに来て、わらび餅の移動販売車のチャルメラが聞こえる。

 今日は早起き推進デーとかそういう日なのだろうか。

「はぁ。わかったよ、起きるよ」

 表紙の折れた文庫本が枕元にある。寝ている間に頭で踏んでいたのだろう、昨日は結局一ページも読まなかった。

 

 わらび餅を買って朝食にする。自分と同じようにパジャマ姿で買いに来ていたお姉さんがいて、少し緊張した。食べながら賢志おすすめの動画を見ると、確かにそのバンドはやばかった。すごいとかかっこいいとかいう意味での「やばい」ではなく、倫理的問題があるという意味での「やばい」だった。すぐ運営に削除されるに違いない。

「図書館、だな」

 まだ頭が半分寝ている。散歩ついでに本を返しに行こう。

 適当な服を着て外に出る。返却する本はこの春商店街で配布されていたエコバッグに詰めた。遠回りになるが街路樹や池のあるルートを選ぶ。公園を通り抜けるとき、ミンミンゼミの鳴き声に囲まれて耳がつんとした。

 蝉は台風をどうやり過ごすのだろう。

 子供たちが水たまりにも構わず走り回っている。

 俺も昔はあんな風にみんなとケイドロや缶蹴りをした。

 父さんと母さんの間に座って、三人で手作りのおにぎりを食べたことだってある。

「昔とか思い出とか、そんなこと言ったらまた賢志に怒られるな」

 まだ十七歳ジューナナのくせにおっさんみたいなこと言ってんじゃねぇよ。

 でもさ、俺たちにも十七年分の思い出があるだろ? そのうち十年くらいは、まぁ昔だなぁって感じするだろ?

 俺には十七年分の今がある。そしてそのうち十年くらいは忘れた。

 ——賢志は胸を張ってそういうことを言える男だ。

 あいつのああいうところは、率直に羨ましい。

 右足が水たまりを踏む。

 自転車で行くほどでもないけれど、歩くと少しかかる。そんな市立図書館への道程は、公園を過ぎるととても静かだ。背の低いアパートや空き店舗が並ぶ。古びた中華料理店は賢志との戦略会議すなわち暇つぶしによく使っていた。最近は店主の体調不良で休みのことが多い。

 前後に人がいないせいで、まるで地球上から人間が一人残らず失踪してしまったかのようだ。

 俺だけの。

 絶滅した世界みたいだ。

「……」

 真夏の熱い風を呑む。

 それでも俺の体はすぐに冷める。

 人間の体の隅々まであるはずの、ある種の着火剤が俺には欠けている。

 自然と止まっていた足を、また動かす。

 自分の足音。

「……」

 消え入りつつある蝉声の合間から、何か別の音を聞いた気がした。

 音から離れた後で不思議に思い、来た道を少しだけ戻ってみる。

「うう……」

 夢にうなされているような声。

 シャッターが下りた建物の中から聞こえる。廃業した車の整備工場だ。

 入るべきか躊躇した。

 でももう一度、確かに苦しそうな女の子の声が聞こえる。

 浮遊感と共に、俺はその声の方に導かれていく。

 蝉声が瞬間、潮騒に変わる。

 泡。

 海の泡……。

 ——違う!

 俺は自分の頬を叩く。

 ぼやけていた整備工場のシャッターがはっきりする。

 きっと誰かいる。

 助けを呼んでるんだ。

 シャッターの下、わずかに開いた隙間に手を差し込み、思いきり上に持ち上げた。

 大量の埃が舞って、くしゃみ。

 陽光を浴びた埃は羽根のようにも映る。

 まばたき。

 中には放置された軽トラが一台あり、その隣に少女が横たわっていた。

 力なく倒れ、日差しに溶けてしまいそうなほど脆く見えた。

「おい、大丈夫か!」

 俺は慌てて駆け寄る。服に触れるとわずかに湿っていた。台風の中を歩いていたのだろうか。声をかけても、体を揺らしても目を覚まさない。テレビドラマの真似をして手首の脈をとってみる。

 ちゃんと動いてる。

「生きてるんだ。何とかしないと」

 とっさにスマホをポケットから出したが、思い直した。

 ここからなら母さんのクリニックに連れて行ったほうが早い。

 俺は少女を抱え、熱暑の中を急いだ。

 自分が汗だくになっているのも気づかないくらいに。

 燃えているのも気づかないくらいに。


 クリニックは商店街の一つ隣の通りにひっそりと佇んでいる。

 外装こそ三年前にリニューアルしたばかりで綺麗だが、どこか陰鬱な雰囲気が周辺に漂う。出来るだけその辺りには近づかないようにという風習が、住民たちに根付いているからだ。

「体育を真面目に受けたくらいじゃ、体力なんてつかないんだな……」

 女の子一人を抱えていれば、歩くだけでも疲れる。俺は休憩を挟みながら息も絶え絶えどうにかクリニックに辿り着いた。誰か手伝いを頼めれば良かったのに、近道を選んだせいで人っ子一人会えなかったのは失敗だ。

 裏に回って中に入る。

 室内は冷房が効いていて、一瞬疲れが吹き飛んだ。

 患者用の寝台に少女を横たえたとき、物音に気づいた母さんが部屋に入ってきた。来院者はいないようだ。

「何よ晃太、冷やかしにでも来……ってどうしたのその子!」

 さすが自称美人名女医。少女の顔色を見てすぐ事態を察する。俺は彼女から離れ、母さんに任せることにした。もう一つある寝台に腰を下ろし、壁に背中を預ける。体から力が抜け、疲労が重しになって動く気力を根こそぎ奪う。

 このまま俺も横になろうか、と思った。

 けれどその前に、彼女が倒れていた整備工場の静止画が頭をよぎる。そういえばあそこには明らかに浮いているものがあった。迷彩柄のバックパックだ。まさか整備会社の社員が置き土産にしたわけじゃないだろう。彼女のものなら、持ってきてあげたほうがよさそうだ。

 よいしょ。

 どりゃっ。

 動け、俺のからだ。

 嫌がる筋肉にむりやり力をこめ、立ち上がる。

「その子のこと、よろしく。俺は荷物を取ってくるから」

 よくよく考えてみると、図書館に返す本もあの場所に置いたままにしていた。

「あとで事情聞かせなさいよ」

「わかった」

 俺が再び整備工場から戻って来た時、女の子はまだ眠ったままだった。迷彩柄のバックパックは本格的な軍用に見え、どんなインフルエンサーでもおしゃれに使いこなせそうにない。夏なのに長袖長ズボンであることを除けば、彼女の服の傾向は普通で、特別ミリタリー趣味のある子とも思えなかった。

 リアリティが薄い。

 寝顔からどこか不思議な——絵本から出てきた旅人というような感じを受ける。

 そして俺は、彼女を知っているような。

「大丈夫。眠っているだけよ」

 傍で看病していた母さんが顔を上げる。

「そっか。これで筋肉痛になっても報われるよ」

 俺はバックパックを寝台の傍に置いた。

 荷物入れの籠に女の子が着ていた服が畳まれている。

「それって……」

「バカ、ちゃんと検診衣着せてるわよ。裸ならあんた、すぐ追い出されてるわ」

 だよね、と言いながらも俺は彼女から目を背ける。

「濡れてたから着替えさせたの。昼休みになったら洗濯するわ。あんたは触らないように」

「はいはい」

「で、どこでこんなカワイコちゃん拾ったわけ?」

 俺はうめき声を聞いてから連れてくるまでの様子を簡単に話した。

「柄にもなくやる気出しちゃって」

 その通りだ。柄にもない。俺はそういうことを

「俺だって年頃の男なんでね」

 誤魔化すように言う。でも、実際、この女の子には惹かれるところがある。

 どうしてあんな場所で眠っていたんだろう。

 家出だろうか。

 それならこんな田舎に来なくてもいいのに。

 もっと繁華街のほうへ行けば、漫画喫茶やゲストハウスみたいな安く寝泊まり出来る場所がある。

 友達がいるのだろうか。泊めてもらうつもりだったとか?

 ならあんな場所で倒れてるわけない。

 目の前にあるバックパック。

 白塗りのクリニック内にあって、それはより異様に見える。

 あの中には一体何が入ってるんだろうか。

「荷物に触れるのも禁止、ね」

 俺の好奇心に気づいてか、母さんが言う。

「普通なら身元のわかるものを探してご家族に連絡すべきだけど。事情がわからない今はやめといたほうがいいと思うわ。命に別状はないし、もしかすると……」

 母さんは女の子の頭を優しく撫でた。

「この子の体、痣や傷がそこら中にあったの。もし私が思っているような事態に彼女が陥っているとするなら、しばらく匿ってあげたほうが良いかも。とにかく、本人に話を聞いてからにしましょ」

「虐待ってこと?」

「はっきり言うとね。どれも最近のものじゃないんだけど、かなりの数よ。大きな火傷痕もあったわ」

「そんなこと……」

 否定したい気持ちを飲み込む。

「さ、私は仕事に戻るわ。と言っても、相変わらず待合室には誰もいないんだけどね。晃太はしばらくこの子を見ててあげてちょうだい」

 母さんは真剣な表情を緩め、受付に戻った。

 俺は今さら自分の汗臭さに気づき。

 まだ濡れているTシャツをばたつかせ、乾かそうとした。

 charles darwin clubという文字が小さくプリントされている、ヘビロテのTシャツ。

 古着屋で見つけたときは運命を感じたものだ。

 まぁ、さすがにその運命はもう、すっかり薄まってしまっているけれど。


 助けた女の子が午前中に目を覚ますことはなかった。母さんが昼食と洗濯のため家に帰っている間も、俺はずっと彼女のそばにいた。

 図書館に返すはずだった本を読み返す。けれどページをめくる度に、寝台の上の彼女に変化がないか目を遣ってしまう。紙の上の文字は意味ありげな模様だが、本の内容とはまったく関係のないシンボルみたいだ。

 そのうち待合室の方から声がしたので、一旦寝台を離れた。よく近所の接骨院と間違えてクリニックに来てしまうお婆ちゃんだった。

「荒巻のお婆ちゃん。ここじゃないよ。一緒に行こう」

 俺は一つ先の角にある接骨院まで案内した。遠くでサイレンの音が響いていたが、あれはパトカーなのか消防車なのか、はたまた救急車なのだろうか。

 クリニックに戻った時、入り口に休憩中の札が下がっていないことに気づいた。商店街の人手はほんの少し回復している。この調子で鳴居浜シーサイドモールから人が戻ってくると良いのだけど。

「おわっ!」

 寝台の女の子が起き上がっている。

 恥ずかしいほどベタな反応をしてしまった。尻餅をつくというおまけ付きだ。

 彼女はすばやく首を振ってクリニック内を観察し。

 やがて俺を見つける。

 繋がる視線。

 ——体が固まる、とはこういうことを言うんだな。

 彼女は俺から目を離さない。怪しまれているのだろう。見知らぬ部屋で目を覚まし、そこに見知らぬ男——しかも同い年くらいの——がやってくる。服はなぜか着替えさせられている。

 誤解を招くには十分な状況じゃないか?

「私の服は?」

 彼女の声はとても聞き慣れたもののように思えた。

 生まれる前から知っていた掛け替えのない音が、俺のもとにやっと帰って来た、という感動があった。

 俺は、君と、どこかで出会い別れていたのだろうか。

「ねぇ、私の服は?」

 もう一度言われ、答えなければ、と慌てる。

 顔からは感情は読み取れない。

 怒り、怯え。あってもおかしくないはずなのに。

「母さんが洗濯してる」

「どうして?」

「濡れて汚れてたからさ。君を着替えさせたのも母さんだ。昨日、台風の中を歩いてた?」

 彼女は質問に答えず、自分のバックパックに視線を向けた。

「荷物を見たの?」

 俺はかぶりを振る。

「勝手に見るのは悪いと思ったから、開けてない」

 そう。と短く言って女の子は寝台から下りる。立ち上がるとき少しふらついたけれど、すぐに持ち直した。

 バックパックの蓋を開け、俺に見えないように中身を確認している。

「少なくとも中のものは盗っていないようね」

 そのままバックパックの隣にあったスツールに腰掛けた。

 手足は細いが、不健康には見えない。何かスポーツをやっているのだろう。

 彼女はぼうっとクリニックの白い壁を眺めていた。

 少し経ってまた口を開く。

「あなたが何者なのか教えて欲しい」

 俺は何者?

 それは、俺自身が聞きたいことだ。

 でも、そういう意味じゃ、ないよな。

「えっと、そうだな。名前は波木晃太。高二。帰宅部でコンビニバイト。母さんは医者で、ここは母さんのクリニック。内科、小児科、どんとこいだ」

 他に言うべきことは。

 そうだ。

「君とはもちろん初めて会った。今日の朝、図書館に行く途中でうめき声を聞いたんだ。とっくに潰れた車の整備工場のシャッターが下りてるのが気になって、開けてみたら君を見つけた。意識がなかったから慌ててここに連れてきたってわけ」

 今度は俺のほうをじっと見る。

 彼女の右手は検診衣をぎゅっと握っていた。

「……そう。眠ってしまっていたのね。助けてくれてありがとう」

 スツールの上で彼女が、少し力を抜いたように思った。

「ごめんなさい。たぶん私のこと、色々と聞きたいのだと思うのだけど。まずは私から確認させて欲しいことがまだいくつかあるの」

「もちろん良いさ」

 俺の緊張も溶けてきて、自然に振る舞えるようになっていた。

「今は何年の何月何日?」

 って、いきなり想像の斜め上をいく質問だな。

「二〇一九年八月二十二日、木曜日。十三時半だな」

「何かすごいニュースが報道されていない? 例えば、そう、UFOが見つかったみたいな」

「日本で?」

「ええ。おかしなこと言ってるのはわかってる。でも、真面目に答えて欲しいの」

「どうかな。今朝のニュースでは見てないけど」

 俺はスマホでネットニュースをチェックする。

 まさか、この子は平野さんと同じ系統の趣味を持っているのだろうか。

「やっぱりないね。UFOも宇宙人も」

「わかった。ここはどこかしら、地理的な意味で」

「鳴居市小郷(こざと)町。ここは波木クリニックで、ざっくり鳴居西商店街の真ん中くらいだな……そもそも鳴居市はわかる?」

「知っているわ。実際に来たのは初めてだけど」

 そんなに遠くから来たのか? という俺の質問は無視された。

「感謝します、波木。訳あってすぐに動きたいから、服を回収させてくれない? あと、近くで軽食を販売している場所を教えてほしい。お金ならあるわ——あなたにも、謝礼を渡さないと」

 彼女がバックパックのポケットに手を入れたとき、背後から母さんの声がした。

「お腹が空いてるならうちに来なさい。どうせ服が乾くまで時間はあるんだし」

 いつの間にいたんだろう。母さんは女の子に微笑んだ。


 自分で誘っておきながら、俺に全てを任せて母さんは仕事に戻ってしまった。「晃太、頑張りなさい! うまく事情を聞き出すのよ」というチャットが入る。

 むちゃくちゃだ。

 彼女はクリニックを出る前に服を着替えていた。デニムパンツに薄手のシャツを羽織っている。長袖なのは傷を隠すためなのだろうか。リビングで熱心にニュースを見ていたかと思えば、自分のタブレットPCを何やら操作する。有名メーカーのものとよく似ているけれど、背面のロゴは見覚えがない。

 テーブルに並べた食事を彼女は瞬く間に平らげた。右腕に巻いたアナログ時計を頻繁に確認している。急いでいるようだったが俺は構わず紅茶を淹れた。相変わらず表情のない顔で、静止した紅茶の表面を眺めている。

 今なら少しは話が出来そうだ。

「時間をやけに気にするんだな」

「『時間は最悪の指針である』」

 つぶやくように彼女は言う。

「誰かの名言?」

「死人の言葉よ。幸福が約束されているとき、そこに時の概念は必要とされない」

「時間がある限り俺たちは不幸ってことか?」

「時間を意識せざるを得ない限り、ね」

「君は不幸?」

「私たちみんなが不幸なのよ。でもいつか必ず解放される。人は、幸福を自らの力で手繰り寄せられるはずだから」

「それも死人の言葉か」

「どうにか生きてるみたい。ここで」

 彼女が紅茶に口を付ける。

 ストレートの無糖だ。

 それから何か気づいたように俺の方を向いた。

「なんて、ちょっとかっこつけすぎたわね。小説の受け売りよ」

 なんていう小説だろう。

 と、俺は思ったけれど。

 そのとき初めて見せた彼女の微笑みに、そのことをすっかり忘れ。

 時が、無限になって、幸福を感じた。

「どうかした?」

 バカみたいな顔で固まっていたかもしれない。俺は誤魔化すように口を動かす。

「あのさ。俺からも聞きたいことがある」

 彼女は黙って頷いた。

「どうしてあんなところで倒れてたんだ?」

 すぅ、と息を吸い込む音が部屋に満ちた。まるでその一瞬、彼女のために部屋中の音がゼロになったみたいに。

 そして彼女は話し始める。

 紅、と彼女は名乗った。俺と同じ高校二年、十七歳。山口県岩国市の生まれで、夏休みを利用して一人旅をしている最中なのだという。鳴居港に興味があって訪れたは良いものの、台風でバスや電車が止まり、ヒッチハイクしようにも車は一台も掴まらず、仕方なく歩いて人手の多そうなところへ向かっていたところで力尽きたらしい。

「台風直撃ってタイミングでよく港に行こうと思ったな」

「そうね……あまり深く考えていなかったわ」

「ニュースでやってたけど、波がすごかった。巻き込まれなくてよかったよ」

 あの台風で、港か。

 考えにくい。でも嘘をつく理由もわからない。

 虐待なら素直に助けを呼ぶ、そういうものじゃないのか。

 山口から逃げてきたのなら、それこそこんなところまで来なくても、いくらでもSOSを発するチャンスはあっただろうし、助けてくれる人もいたんじゃないか。

 それさえ出来ないほど追い詰められているというのなら。

 ストレートに虐待かどうかを聞くのも憚られるしな……。

「鳴居は良いところね。大きな古墳もあるし、これから見て回るつもりよ」

 俺が考えている間、彼女は話を続けた。

「——始業式のことがあるから、そろそろ山口に戻らなきゃいけないし。急いで観光しなきゃいけないって、やっぱり、不幸じゃない?」

「時間を忘れて楽しみたいって気持ちはわかる」

「でしょう?」

「この辺はその古墳くらいしかないから、早めに切り上げた方が良いかもな。岩国市には有名な観光スポットってあるのか?」

「錦帯橋かしら。桜の咲く春も良いけれど、私は夏がおすすめね。花火大会も素敵よ」

「花火か、いいね。地元のしか行かないから、他のも見てみたいと思ってたんだ」

 しばらくお互いの地元について話す。それから紅はまた時計を——今度はリビングの掛け時計を——見て、今日の宿を見つけるために出るという。母さんが話したがってるから、もう少しゆっくりしていけば? 俺は提案してみたけれど、引き留められそうにない。しぶしぶ彼女の洗濯物を干している中庭に案内した。女の子の着替えを自分で取り入れるのは気が引ける。一時間そこそこでは乾くはずもないのに、紅は構わず濡れた服をバックパックに詰めた。

「ありがとう、波木。助かったわ。クリニックに寄ってお母さんにもお礼言っておくわね。一期一会なんて言葉があるけれど、あなたにはもう一度会いに来るわ。必ず」

 最後の言葉には強い決意がにじんでいるようで、そのことが逆にもう二度と会えないのだという印象を強くしていた。

「そんな、今から死にに行くような言い方じゃないか」

 だから俺はそう言って冗談っぽく笑ったのだけれど、彼女はもう廊下で背中を向けている。

「——痛っ!」

 頭を長い針が貫いたような、鋭い痛みに襲われた。どこからか発光した白さが視界を奪う。

 紅が足を止め、振り向いて俺を見ている。

「波木——どうしてそれを?」

 俺は廊下の壁に手を当て、体を支える。

 頭痛はすぐに止まったが、目眩が続く。

 彼女が俺に問いかけている。

 何を?

 俺が言ったことに対して……。

 何を話したのだろうか。

 言いたかったことならあったはずだし、今もある。

 薄暗い廊下が、俺と紅ふたりだけの世界を作り。

 母の悲しげなまなざしを思い出させる。

「体の傷はどうしたんだ?」

 俺の言葉に、彼女は困惑しているようだった。

 なんだ、顔に出ることもあるんだな。

 そう思った頃には体のだるさも消えていた。

「母さんが着替えさせるとき見たって。詮索するのは良くないってのはわかってるんだけど」

「表面上に現れる傷なんて、大したことではないわ」

「痛いってことが、大したことないって?」

「ううん……痛くも何ともないってこと。波木ママは少し大げさみたいね。そしてあなたも想像力たくましい。昔の事故の傷跡が残ってるけど、それだけよ」

「——待ってくれ!」

 出て行こうとドアを開けた紅をまだ引き留める。

 外気が室内に吹き込み、彼女の髪を靡かせた。

 次の言葉を待っている。

「古墳に行くなら案内するよ。バスの乗り継ぎとかややこしいし。なんせ生まれてからずっと鳴居にいるからな、歩く検索サイトみたいなものなんだ。宿もネットより良いとこを紹介できる自信はある」

 彼女を引き留めるだけのものを、俺は持ってない。

 それはもう理解してしまっていた。

 でも、ここで行かせてはいけないと背中を押す先生のような手を感じ。

 行かせたくないという、俺自身の強い気持ちがあった。

 賢志なら、こういうとき強引に腕を引くだろうか。

 父さんならあるいは——。

 でも彼女は思わせぶりな人魚の仕草で。

 外の明かりの中に出ていった。

「ごめんなさい、一人で行きたいの。これはそういう旅だから」

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