一章 未来という言い方(2)

 俺の先祖も辿っていけば、どこかに漁師がいるのかもしれない。

 鳴居市の西側には鳴居湾があり、それは南で太平洋と繋がっている。近代化以前は漁が盛んで大きな市が立ち、この辺りの人は遠かれ近かれ何かしらその市に関わっていたようだ。どうせなら漁師より寿司職人のほうが嬉しい。

 近代化以後、湾岸に築かれたのが鳴居港だ。一時は日本で二番目の取扱貨物量を誇っていたけれど、今は都心へのアクセスが良い別の港にその役割を譲り閉鎖している。港の雰囲気を残しながらも人がいないのが都合良いらしく、テレビドラマの撮影や台風の中継のための需要がわずかに残っていた。

 その台風が最接近するのが今夜。本州に上陸するのは今年初めてだ。俺は夕方、バイトから帰るとすぐ台風対策を手伝わされた。表にあるゴミ箱とドラセナの鉢を玄関に入れ、雨戸を全て閉める。一階の倉庫から防災グッズの詰まったリュックを出し、リビングの机の傍に置く。激しい雨が雨戸を打つ音がうるさい。

「後は浸水しないのを祈るだけね」

 母さんは頬杖をついて週刊誌をぱらぱらとめくっている。読みたい記事があるわけではない、ただの癖だった。

 淹れたての珈琲が湯気を立てている。

 俺だけが砂糖とミルクを使う。仮に父さんが生きていたとしても、砂糖とミルクは俺だけのものだったろう。

 昔、リビングの窓から蛇が入ってきたときのことを思い出す。あれも台風の日だった。母さんが珍しくかん高い声を上げて玄関へ逃げ出した。父さんは勇敢にも倉庫から持ってきたバーベキュー用のトングで蛇をつまみ、窓から外に放り投げた。

 俺はただその場に立っていただけ。

 不思議と恐怖はなかった。でも、それは勇敢というにはほど遠い。

 あてどなくアスファルト上を滑っていく大きな蛇の様子を見て、俺は、台風から逃げて来たんだと思った。

 外にいると危ないから、安全な場所を探していたんだ。

 俺がそのことを言うと、父さんは窓から雨の降る外に飛び出し、蛇をまたトングでつまんだ。今度は放り投げるのではなく、そのまま玄関に回って蛇を家の中に連れ込む。で、どうしたのか? 父さんに考えがあったわけじゃない。ただ、俺の言葉を聞いて、助けなきゃと思っただけだ。結局俺たちは使わなくなったハムスターのケージの中に蛇を入れ、嵐が過ぎるまで蛇を匿った。

 今のところは、鶴の恩返しみたいなことは起こっていない。

「夏休みももうすぐ終わりね。どう、気分は」

 母さんが週刊誌の紙を撫でながら言った。

「名残惜しいよ」

 俺は珈琲をかき混ぜて冷ます。

「夏休みが? 私が高校生のときには、さっさと夏休みなんて終わっちゃえって思ってたけどね」

「さすが母さん、常識に囚われないオンナ。それは退屈だったから、とか?」

「違うわ。好きな人に会えるからよ。うぶな私は夏休みの間、あいつに電話一本入れられなかったからね。自分で言っちゃあなんだけど」

 それは父さんじゃないはずだ。

 俺はスマートフォンに触れて、何の通知もないのを確認し、十九時十分であることを確認した。

 最初はスマホ代だけでも自分で出そうと思って、バイトを探した。それがいつの間にかお小遣いも自分で稼ぐことになり、それでも余るくらいシフトに入るようになった。母さんの診療所は閑古鳥が鳴くほどだけれど、さすがに親子二人が食べていけるくらいの収入はある。やりがいがあるから、やってしまうのだろうか。部活をやらない言い訳にちょうど良い、ということはあるけれど。

 バイト中に平野さんと話した内容がぶり返してくる。

 俺は医者になろうとしない、柄じゃないから。

 かといって何者かになりたいというわけでもない。

「母さんはなろうと思って医者になった?」

 週刊誌から目を離し、母さんはほんの一瞬、横目の俺の表情を窺った。

「そうだね。女医って何かモテそうだなーって思ってさ。うぶなくせにちやほやされたかったんだよ、私は」

「モテそうなイメージはあるね。実際は?」

「んー。大学で父さんに会っちゃったからね。すぐにモテるとかどうでも良くなったよ」

 相変わらず一途なことで。

「そっか。モテたいってだけで医学部に入れるなら、俺だって行きたいけどなぁ」

 こういう嘘の付き方に、慣れてしまっている自分がいた。

「偏差値の話? 勘違いしないで欲しいわね、私だって努力はしたわよ。モテるための努力、つまり受験勉強ってやつをね。ま、あんたには好きなことして欲しいって思ってるから無理強いはしないけど、もし本気で医学部に行きたいって言うなら、全力でサポートしてあげるわよ」

「——考えとくよ」

「考えるまでもなさそうね」

「勉強って聞くと、アレルギー反応が出るみたいだ」

 俺は椅子から立ち、リビングを離れた。

 階段を上がると一番手前の右手が俺の部屋。しかし今はそこを素通りし、左手の部屋の扉を開ける。

 母さんの部屋。以前は父さんと母さんの部屋だった。

 扉を開けるとまずダブルベッドが目に入る。サイドテーブルの上にはスマホの充電器と写真立て。写真は俺がまだ二歳の時のもので、父さんに抱かれた俺の隣で母は優しい表情ををしている。背後に地元の寺院と、溢れんばかりの紅葉。

 父さんが亡くなってしばらく、母さんは父さんに関するものをまったく受け付けない時期があった。今はもう違う。

 大丈夫。母さんはもう、大丈夫なんだ。

 安心して俺は部屋を出る。正面右手には自分の部屋。

 左手には生まれるかもしれなかった弟か妹の部屋。その部屋には父さんの遺品がたくさん眠っている。


 目は冴えていた。

 寝るには早すぎる時間だ。

 シングルベッド。

 空っぽの学習机。

 本棚がひとつ。

 天井にシーリングライト。

 特別なものは何もない。

 ベッドの上で仰向けになると、本を開く前にちゃちな想像をした。夏休み明け初めての授業。賢志が毅然とした態度で宿題をしていないことを申告する。彼は俺を含めて四人、誓約を交わした(と勝手に思っている)クラスメイトが後に続くのを待つ。しかし四人はちゃんと宿題を終わらせていた。一人教室で怒られる賢志。その横顔を心配そうに見ている女子がいる。彼女が一学期からずっと賢志に片思いしていることは本人以外の全員が知っている。さっさと結ばれれば良いのに、とみんなが思っている二人。

 休憩時間に一悶着あるけれど、昼休みになると俺と賢志は一緒に弁当を食べている。週末午後のトレーニングに付き合うことを約束する。こんなのは想像じゃなく予想だと気づく。想像と言うのは、もっと魔法的なものだろうに。

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