テイクオーバーゾーン・タイフーン

フルトリ

テイクオーバーゾーン・タイフーン

 台風と聞くと、必ず目に浮かぶ光景がある。

 そのシーンの直前まで、確か俺は頬杖をついて、窓の外の景色を眺めていたはずだ。

 その景色は、猛威を振るう風だったり、滝のように流れる雨だったり、曇天を切り裂く稲妻ではなかった。その台風は通り過ぎ、陽光はさんさんと降り注いでいて、不純物など何一つないかのような空と、散々にかき回されたままの地面とが、対照的だった。そんな景色だった。

 俺は当時小学生で、その凄惨な台風による休校明けに、サプライズ的な休みを得たが故の気怠さを感じながら、のこのこと登校していた。

 台風なんてものに、大した印象など抱いていなかったと思う。もしかしたら、年に一回くらい平日の休みをくれる存在程度には思っていたかもしれない。どちらにせよその程度だった。

 朝教室に入ると、クラスメイトたちは皆、目に見えてはしゃいでいた。その熱はチャイムが鳴って担任が教室に入って来ても冷めず、チャイムが鳴っている手前その輪に入れなかった俺は、何とはなしに窓の外を眺めていたのだと思う。

 その時、手を叩く音が教室に響いたのだ。

 俺は頬杖をやめて、にわかに静かになった教室を見回して、それからたった今手を打った教壇の担任に目を向けた。

 美人で明るくて、児童に人気のある女性教師だった。窓から差し込む強い日光で、白飛びしているかのような白い肌の中、唇が歪められていたのをはっきりと覚えている。

「台風が来ても喜んじゃ駄目だよ。自分が嬉しくても喜んじゃ駄目」

 その唇が放ったその言葉は、その光景に付随して、俺の頭の片隅にずっと張り付いたままだ。

 未だに。ずっと。




 市内の中心部にある陸上競技場は、敷地面積の関係なのか駐車場が地下にあり、地上にあるメイントラックへ行くにも、一度地下を通る必要がある。その駐車場の片隅には申し訳程度の小さなサブトラックがあり、これは大会ではウォームアップ場として指定されている。あまりにもひっそりと設置されているので、年度の初めの大会などでは、アップ場を探して薄暗い地下をさまよう新入生らしき選手を目にするのも珍しくはない。

 この競技場は、大会が開催されていない日は一般開放されていて、毎日の練習に使っている陸上部も何校かある。俺が通う港高校もそのうちの一つで、俺は一人薄暗い駐車場をメイントラックへと歩いていた。

「佐伯さん、おはようございます」

 後ろから声を掛けられ振り向くと、一つ下の後輩の池田だった。駆け寄ってくるので足を止めて待つ。近寄ってきたところで「おはよう」と右手を挙げると、池田は白い歯を見せて会釈した。

「今日、日高が来るって知ってますか?」

 並んで歩きだすと、まるで誰もが知っている話題のニュースを語るかのように池田は口を開いた。俺は靴紐を気にするようなフリをしながら「知らない」と答えた。

「日高のことは知ってますよね? 宵ヶ丘中の」

「よく知らない。ジュニオリに出た中学生だっけ」

「それです。ジュニアオリンピックで決勝まで進んだあの日高です。今中三で、四月から高校」

「で?」

「ウチに受かったらしいですよ。それで今日から練習に参加するらしいです」

「それは熱心なことだな」

 あまりに興味が無いように見えたのか、池田は苦笑した。

「まあ、佐伯さんほど熱心じゃないかもしれないですけどね」

 返事の代わりに首を傾げて、メイントラックへと繋がる階段を上がる。熱心だと言われる心当たりがないではなかった。毎日の練習は誰よりも真剣に取り組んでいる自負はあるし、毎回全体の集合時間よりも先に来て、個人的に追加したメニューをこなしている。だからと言って熱心なのかどうかというと、そんなにたいそうなものではないとしか思わなかった。熱心だと言われることに恥ずかしさすらあった。

 宵ヶ丘中学の日高。興味はあった。それに本当は知っていた。ジュニアオリンピックという、各県の中学生の代表一人だけが出場できる陸上の全国大会。そこで初めて日高を目にして以来、常に頭の片隅には日高の存在があった。

 今年は偶然隣の県での開催で、気まぐれで現地まで観戦しに行った。日高のレースを観たのも気まぐれ程度の軽い気持ちでしかなかった。電車賃を払って行くからには自分の専門種目である100mは観ておきたかったし、どうせ観るなら自県代表の応援でもしようかな、なんて呑気な考えだった。

 俺はゴール付近の席からスタート地点を眺めていた。そこに立つ中学生たちは皆線が細かったが、100m離れてみても際立って細かったのが日高だった。そのレースは予選だったのだが、日高がそこを突破するとは全く思わなかった。

 ピストルが鳴ってレースが始まった瞬間、やっぱりな、と思った。遠くから見てもはっきりわかるほど、日高は大きく出遅れていた。がっかりすると同時に、ほんのりと優越感のようなものを感じていた。所詮は中学生だな、と。

 しかしそれはものの数秒で覆された。

 数メートルのビハインドはみるみるうちに縮まって、50mを過ぎた頃には先頭に追い付いてしまっていた。そしてそれでは終わらなかった。一人だけ違うエンジンを積んでいるような走りだった。いや、実際に違ったのだろう。日高はトップに抜け出るとそのまま後続との差を広げ続け、涼しい顔でゴールした。

 速かった。近くで見ると更に細く、こんな走りができる選手には到底見えなかった。それでも実際に目の当たりにした直後だと、底知れぬ凄みを纏っているようにも見えた。化け物だな、と思った。とっさにタイムを確認すると、俺のベストよりわずかに遅かった。正直言ってホッとした。自分が高校二年生で、日高が中学三年生だということ棚に上げて、現時点で辛うじてタイムで優っていることに縋り付いていた。どうかウチの高校には来ませんように。そう願った。

 それからしばらくして、日高の志望校が湊高校だという噂を耳にした。その時既に俺のタイムは日高に抜き去られていた。来ないでくれと当時願ったのは、冗談のようなものだった。大した意味はなかった。むしろ日高は高校でも大活躍するはずで、喉から手が出るような選手なのは疑いようがない。でもそれが現実となった今、喜んでいいのかいけないのか、俺にはわからなかった。




 自主練を終えた頃、集合場所がざわざわと騒がしくなっていた。ちょうど集合時間になっていたようだ。部員たちが談笑していて、その輪の中に日高の姿があった。

 驚いた。日高がいたことではなく、その姿を見ただけで心拍数を上げている自分に驚いた。笑う日高の顔は輪をかけて幼かった。その笑みを見ただけで、俺はあの迫りくるような走りを連想してしまっていた。

 顔を背けて、誰にも声をかけずに横を通り過ぎた。身震いがした。三月の空気は汗ばんだ肌を責め立てるような寒さを孕んではいたが、震えの原因はそれではなく肌の内側にあった。

 荷物からタオルを取り出していると、おはようございます、と声をかけられた。振り返ると日高が立っていた。わざわざ挨拶に来るなんて几帳面なやつだなと思った。

「この四月から入学する日高と言います。よろしくお願いします」

 日高は深々と頭を下げた。

「ああ、おはよう」

 一瞬、思考が停止した。あまりにも想像と違う態度だったからだ。なぜか俺は、想像の中で横柄で不敵な人物にしてしまっていたようだった。

「二年の佐伯さんですよね。佐伯一真さん」

「え、何で知ってんの」言った直後に気がついた。ウチの部には日高の中学の先輩もいる。彼から部員の情報を一通り聞いていたのだろう。「大西から聞いた?」

「いやそりゃ大西さんからも聞きましたけど、普通知ってますよ。湊高のリレーメンバーですもん」

「俺は四番手だけどな」

「いえ、そんなこと」

 日高は否定したが、一体何を否定したのだろうか。俺が四番手なのは紛れもない事実なのに。

「湊高のリレーは憧れだったんです。それで受験しました。さっきやってたのって自主練ですよね? メンバーになるにはやっぱり特別な努力が必要なんですね」

「皆、アップ行くみたいだからついていけばいいよ」

 遮るように話すと、日高は一拍置いて頷いた。会釈してぐるりと回れ右したその背中は、高校での部活への期待をただ純粋に膨らませているようで、思わず呼び止めた。

「日高」

「はい」

「大西は俺のことなんて言ってた?」

「えっと、速くて練習熱心だって言ってました。リレメンだって」

「そうか。呼び止めてごめん」

 今度こそ日高は皆のもとへと駆け寄って行った。地面に座り込むと、池田が肩を叩いてきた。振り払うと、にやついた顔と目が合った。

「褒められて照れちゃったんですか? 努力褒められて遮るなんて」

「うるさい。お前も早くアップしろ」

 はーい、と間延びした返事をした背中を見送って、思う。

 大西は本当は何と伝えたのだろうか。リレーメンバー四人中四番手の俺の名前を出して、佐伯にさえ勝てばリレーメンバーになれる、とでも言ったのではないか。

 褒められて照れるだと? そんなことはあり得ない。




「雨ばっかりで嫌になるな。まだ四月なのに」

 そう言って高野はドスンと席に座った。休み時間で騒がしい教室内でも、隣の俺には聞こえるくらいの音で椅子が軋んだ。バスケ部のキャプテンである彼は、身長がクラスで一番高く、多分体重もそれなりだろう。

「バスケ部はまだいいだろ。屋内なんだから」

「ああ、それはあるな」

 そう言って高野は丸坊主の頭をぐるりと撫でた。

「そういや、今年めちゃくちゃ強いらしいじゃん。バスケ部」

「ああ、とんでもない一年が入ったからな。身長もウチで一番高くてな。上手いし、バケモンだよ」

「それは凄いな」

「即レギュラーだからなあ。ただなあ、他の部員がなあ」

 その語る内容と裏腹に、高野は眉間に皺を寄せた。

「特に上級生が、そいつの実力を認めないんだよ」

「ああ、なるほど」

「陸上はそういうのなさそうでいいよな。数字ではっきり出るし」

「確かに、普通に考えたらそうなんだけどさ」

 そう簡単なものでもないのだ。

 鳴り物入りで入部してきた日高だが、その実力に関しては懐疑的な部員も多かった。自分たちが辛い練習を乗り越えてきたという自負や、自分たちの常識から外れた日高の持ちタイムが、彼らが認めるのを妨げたのかもしれない。

 そういった類の感情は実際に勝負してみることで取り除けるものではあるだろうが、毎日のようにともに練習をこなしていても、はっきりと勝敗がわかる形で走ることはそう多くない。あくまで練習で疲労している状態での、何本も走る中の一本に過ぎないという言い訳がきくからだ。加えてウチの陸上部は県内でも有数の大所帯であり、特定の相手と走ることを避けようと思えばある程度は可能だった。実際、日高と走りたがらない上級生は多く、俺もその一人だった。嫌がらないのは日高より明らかに劣っていて、なおかつそれを自覚している者に限られていた。俺からすると大半の選手が明らかに劣っていたが。もちろん俺を含めて。

 それでも日高の実力は一年生の中ではずば抜けていたから、上級生と走らないわけにはいかず、主に二年生と走る機会が多かった。そうして徐々にはっきりと勝敗がわかる勝負を重ね、順調に格付けを進めていた。その快進撃に、日高の実力を認めたがらない連中も、認めないための言い訳を探すのも厳しくなってきているようだった。

 その日の練習で、とうとう日高は二年生全員を負かしてしまった。

 日高が負かした最後の二年生は、俺たち三年生が引退すればエースになると期待されていた選手だった。実力以上の勝負強さを持っていて、ゴール前の僅差の勝負には競り勝つことが多く、二年生の間での信頼は絶大だった。その彼はゴールのすぐ脇で仰向けに倒れていた。その隣で日高は立っていた。何でもないという顔で、水分を補給しながら。

 二年生たちは茫然としているようにも見えた。よくもそんなに驚けるもんだなと思った。本当に日高が負けると思っていたのだろうか。思っていたんだろうな。そう考えるとため息が出た。

「二年、全員負けちゃいましたね」

 後ろから声をかけられて振り返ると池田がニヤニヤと笑っていた。誰も口にしていなかった言葉だった。

「ウチも層が厚くなるんじゃないですか。今年もだし、来年以降も」

 そうだな、と呟くと、ウチに来てくれてラッキーでしたね、と池田は小声で言った。

「台風だな、あいつは」

「それもかなり大型のね」

 池田は違う意味で受け取ったようだった。




 高校最後の県大会は刻一刻と迫っていた。

 県大会は各高校から一種目につき三人だけ出場できる。選考基準は高校によってまちまちだが、湊高校は完全に実力順で、いずれかの種目で上位三名に入っていなければ、仮に三年生であっても出場することはできない。下級生が枠を獲得して、最後の大会に一種目も出られない三年生がいることなんて珍しくもない。来年の三年生にもそういう目を見る選手はいるだろう。来年はほぼ確実に日高が100mの枠を一つ埋めるからだ。しかし今年は日高がだれかの出場枠を奪い取ることはなかった。日高より速い三年生が三人いたからだ。

 日高より速いということは必然的に俺よりも速い。つまり、俺も専門種目である100mに出場することができない。下級生に奪われたわけではないが、高校最後の県大会に出場できないことに変わりなかった。

「佐伯さん、来週の大会出ますよね?」

 練習中に日高に尋ねられた。日高が言った大会というのはもちろん県大会のことではなく、県大会前の最後の大会のことだった。県大会の一月前に開催されるという性質上、最後の調整だったり、部内の選考レースだったりに利用されることが多い。そして県大会に出られない三年生の思い出作りにも。

 日高が入部してから一ヶ月以上、練習に参加し始めてからは二ヶ月ほど経っていた。その間に練習メニューには慣れてしまったのか、最初の頃は毎日のように吐いていたというのに、今となっては走り終えた直後でも走り終えた直後でも若干肩で息をするくらいで、余裕そうに突っ立つようになっていた。俺はというとゴールの脇に倒れて空を仰いでいた。

 見下ろす日高と目が合った。体を起こすと胃の中のものが迫り上がってくるのを感じた。

「出るよ。100と200」

「あとリレーもですよね」

「それはまだわからないだろ」

 お前の方が速いんだから、と口走りかけた。全く口にする気のない言葉だった。そんな言葉が、少し揺らされただけで溢れてしまうほど表層にあった。何度奥底に沈めても、日高に対しての恐れは止まることなく肥大して、水を濁らせるように俺の心を支配していた。

 日高はまるでリレーへの拘りがないような表情だった。湊高校のリレーが憧れだったなどと抜かしたその口で気の抜けた言葉を吐いて、何の気無しに俺の椅子を奪い取ってしまおうとしている。そのことが悔しく、自分の無力さが歯痒かった。

 言葉を飲み込めてよかった、と心底思った。自らの無意識の抵抗に感謝した。それでもその抵抗が、何に由来したものなのかは考えたくもなかった。

「お前が出るかもしれないだろ」

 今度は自分の意思で言った。随分違う内容の言葉だった。

「いや、俺は無いでしょう。まだまだ」

 日高は首を横に振った。血が急速に上ってくるのを感じた。首の血管から音が聞こえてくるようだった。

 日高の表情は、言葉や動作とはまるで正反対だった。自信に満ちていて、俺に言われるまでもなく、四人目のリレーメンバーになるべきなのは自分だと確信しているように見えた。そういう笑みだった。

 自分は歪な表情をしているだろうなと思った。まんまと日高の求める返事をしてしまったことに苛立っていた。悔しくて仕方がなかった。馬鹿正直に「お前の方が速い」と伝えてしまっていたらと思うと身震いがした。

「そういう割には余裕そうだな」

 地面を見ながら呟いた。歪んだ口から出た言葉は歪んでいた。馬鹿にするな、とストレートに怒りをぶつけられたらどれだけ良かっただろうと、口にした後で考えた。それを実現できるだけの力が俺にはなかった。

「え?」

「余裕そうにメニューこなしてるなって言ったんだよ」

 どうやら褒められているわけではないと気づいたらしい日高の表情は、緩やかに強張りつつあった。その様子に溜飲が下がっていくのを感じた。それでも口は止まらなかった。

「人に構ってる暇があるのかよ。黙って自分を追い込んだらどうなんだ」

 醜い。そう思った。もちろん自分がだ。放つ言葉が全て自分に返ってくるようだったし、無意識に負けを認めそうになったさっきの自分と比べても、格段に直視に耐えなかった。地面を見ながらネチネチと後輩に嫌味を言っているこの人物が自分だと信じたくなかった。

「すみませんでした」

 絞り出すような日高の声が降ってきた。どんな表情をしているのか確認する勇気が出なかった。自分の顔を見られたくなかった。

「いや、いい。一本一本を無駄にするなって言いたかっただけだ」

「はい」

 日高は足早に去って行った。心底ほっとした。

 あいつに勝たなきゃいけない。確信した。わかりきっていたことだが、改めてそう思った。この俺の余裕の無さも、今の最悪の気分も、何もかもが俺が遅いせいだ。勝てば全てが解決する。

 最後の県大会で俺が100mに出場することは叶わないだろう。だが、リレーは残されている。来週の大会で俺が日高に勝ってみせれば、顧問も俺を四番手として起用するだろう。例え現時点で日高が四番手だったとしてもだ。

 俺が出場する100mには日高もエントリーしているはずだ。そこで勝ってみせる。十分の一秒でも、百分の一秒でも構わない。はっきりと目に見える形で。




 大会当日はよく晴れ、そして無風だった。

 正直なところ雨だろうがどうだっていいが、風が吹くのだけは嫌だった。追い風が強すぎると正式な記録として採用されず、参考記録となってしまう。いくら良い記録を出しても自己ベストが更新されたことにはならないし、顧問の印象に影響が無いとも言い切れない。とにかく少しでもケチがつく状況は避けたかった。だから、今日の天候は理想だった。

「晴れて良かったっすね」

 競技場のスタンドにある、部の集合場所に向かう途中に池田がいた。自分の種目が午後からで気が抜けているのか、生あくびを噛み殺しつつ、大会当日でも変わらず寝癖のついた頭を掻いていた。

「まず挨拶だろ。寝ぼけてんなよ」

「またまた、お堅いこと言って」

 軽く睨むと、池田は笑って「おはようございます」と仰々しく頭を下げた。

「100は何時からですか?」

「十時。荷物置いたらすぐアップしに行く」

「頑張ってくださいね。忘れ物は無いですか? ユニフォームあります? スパイクは? ゼッケンは?」

「あるよ。不安にさせんな」

「ハンカチはありますか? ハンカチは右ポケットでティッシュは左ですよ」

「俺は幼稚園児じゃない」

 池田はひとしきり笑うと、頷いて言った。

「荷物、俺が置いてきます。頑張ってくださいね」




 日高とは未だに並んで一緒に走ったことはなかった。それはひとえに俺が避けていたからだ。だからはっきりとはわからないが、勝てない勝負ではないと睨んでいた。ベストタイムでは負けているが、その時の自分ではない自信があった。

 これが事実上の選考レースとなるだろうことを思うと、それだけで喉の奥が酸っぱくなるようだった。日高も今こんな心境なのだろうか。違うだろうなと思った。

 日高は中学生の頃から全国トップクラスの選手だったこともあって、大きな舞台は何度も経験している。度胸というか、どんな場面でも自分の実力を発揮するだけのメンタルの強さは持っているだろう。一方、自分はというと、部内の選考レース程度でこのザマだ。仮に実力が同じだったとして、日高と俺のどちらが選ばれるだろうか。仮にほんの少しだけ俺の方が速かったとして、俺が顧問ならどちらを選ぶだろうか。将来性も、安定感も、日高の方に分がある。誰が顧問だったって日高の方を選ぶんじゃないか。

 この考えはウォーミングアップ中の俺の頭を支配し続けた。

 日高は予選の一組目だった。そして俺は最終組だった。日高は危なげなく、いつも通りの走りをみせて予選を通過した。これで俺が決勝に行けば直接対決が叶う。そう思った。心臓が震えていた。全身を震わせるほどだった。不思議と不安は無かった。

 いよいよ最終組の番になり、トラックに入った。スターティングブロックを調整して、100m続く白線を見つめる。この組から決勝に進出するには、11.20前後のタイムが必要だと思われた。これは日高のベストタイムとほぼ同じだった。そして俺は出したことのないタイムだった。それでも自信はあった。それだけの練習は積んできている。

「On your marks」

 スターターの合図に合わせて礼をして、お願いしますと小さく呟く。スターティングブロックを跨いで背筋を伸ばすと、トラックの上で陽炎が揺れていた。邪念は消えていた。ピストルが鳴ったらスタートして、走って、ゴールラインを駆け抜ける。それだけを考えていた。

「Set」

 腰を上げる。息を吸って、止める。と同時にピストルが鳴った。思うより先に体が飛び出した。最高のスタートだと確信した。その時、風が吹いた。




「いや、仕方ないですよ。佐伯さんの組だけあんな向かい風ですもん」

 レース後に一人クールダウンをしていた俺に、池田がわざわざスタンドから出向いてまで言った言葉は、どうやら予選敗退の慰めではないようだった。

「スタートめちゃくちゃ良かったですよ。ウチのリレーの大きな武器ですよ。先生だってそう思ってますよ。だから」

「だから?」

 池田は唇を噛んで黙ってしまった。自分のことを心配している後輩にしていい仕打ちではなかった。それでも今の自分の心には、その後悔が入る隙間すら無かった。

「池田、悪いけどスタンドに戻ったらアイシングしたいから、パック用意しといてくれないか。二つな」

「あ、わかりました」

「悪いな」

 池田は足早に戻っていった。情けないけれど、今は一人になりたかった。

 11.40だった。日高のベストタイムより、0.2秒も遅かった。絶望的な隔たりがそこにあった。




 集合場所に戻ると、顧問が待ち構えていた。

「おはようございます」

「うん、お疲れ。風が悪かったけど、スタートは良かったよ」

「ありがとうございます」

 顧問は手に持ったタイムテーブルを見て、私はもうそろそろ行かなきゃいけないから、と言った。

「先に伝えておくけど、リレー決勝は佐伯、岩戸、西村、小山で行くから。予選は佐伯と西村、後は二年生を二人入れて。メンバーと走順は佐伯が決めて。くれぐれも予選突破できるメンバーにすること」

 お、という池田の声が聞こえた。俺は何も言えずにいた。何故俺がメンバーに入っているのか、としか思えなかった。その問いも頭の中を漂うだけで、解が見つかる気配も無かった。

「何? どうかしたの?」

 喋ろうとすると、ひ、と喉に張り付いたような声が出た。咳払いをして、「日高は」と言った。

「日高? 予選のこと?」

 顧問は、俺が二年生ではなく一年生の日高を使おうとしていると勘違いしたようだった。

「使いたいのはわかるけどね、うーん。そうだね、使ってもいいけど、一走にして。何本も走らせられないから」

「わかりました」

 とにかく会話を終わらせたくて頷いた。

 顧問が去った後も、顧問の言った意味を考えずにはいられなかった。一走なら、バトン練習は二走とだけで済む。これはまだ体のできていない日高の体力を慮ってのことだろう。ましてや日高はこの後決勝を控えている。じゃあその枷が無かったら? 顧問が日高を使うことを躊躇っただろうか。躊躇わなければ、決勝を走っていたのは誰だっただろうか。

「佐伯さん」

 池田がアイシングパックを手渡してきた。

「良かったじゃないですか」

「ありがとう」

 それだけ言って、その場を離れた。また当たってしまいそうだった。

 県大会では、日高は個人種目には出ない。つまりリレーに専念できる。今回のような枷は無い。

 これは顧問からの温情だったのではないか。県大会には出してあげられないから、せめて今大会で思い出を作らせてやろうという意図ではないか。身震いがした。レース前とは違う震えだった。俺は最後のチャンスを逃したのだ。




「日高、お前予選で一走な」

「はい、ありがとうございます」

 即答だった。決勝で走れと言われないことに疑問はないのか。あるだろう。無いはずがない。その胸中が表情から読み取れてしまうのが怖くて、時計を見るフリをした。

「十三時半からだけど、バトン練習どうする? 100mの決勝との兼ね合いもあるだろ。俺が二走だから合わせるよ」

「じゃあ十二時くらいから流すんで、その時に」

「わかった」

 先輩相手にも自分の要求を率直に言えるあたり、日高の陸上選手としての資質は俺よりも数段上だ。そんなことはわかっていたつもりだった。それこそ、日高の走りを初めて見たあの時から。だがそれも本当の理解ではなかったと今になってわかった。日高の実力を認められなかったのは、他でもなく俺自身だったのだ。




 リレーの予選を前にして、各校のメンバーがアップ場に集まっており、特にテイクオーバーゾーン付近は混みあっていた。他校のメンバーをざっとチェックするが、決勝進出の障害になりそうな高校はなさそうだった。

 日高にバトンを手渡して、二十歩でいいよな、と聞いた。日高は、はい、と頷いた。

「混んでるから早めに終わらせよう。他校のメンツ的にも大丈夫そうだし、さらっと確認するくらいで。渡せなさそうだったら早めに声かけて」

「わかりました」

 偶然1レーンが空いたのが見えた。少し迷ったが、使うことにした。通常、内側の1、2レーンは長距離の選手が練習するために空けておくのがマナーではあるが、混雑している以上仕方がない。手早く済ませれば問題もないだろう。

 テイクオーバーゾーンのマーカーから二十歩測ってテーピングで印をつける。日高がこの地点を通過したら自分もスタートするという目印だ。この二十歩という距離は、渡す側と渡される側の選手が同じ速さの時に使われる歩数だ。渡す側が速ければ、もう少し長い距離になる。日高と俺の組み合わせだと、おそらく二十五歩くらいが適切だろう。それでも二十歩と言ってしまったのは、まだ認めることを拒否してしまっているということだろう。

 数十メートル先で日高が手を挙げて合図していた。合図し返してスタートの姿勢をとる。前傾姿勢で腕の下から日高の姿を窺う。日高の走りは、俺が知らない何かから力を得ているかのような加速だった。それはあの時スタンドで見たあの走りよりも数段進化していた。

 テーピングを通過したのと同時にスタートを切った。あとは日高の合図を聞いて手を差し出すだけだ。だが、その合図は一向に聞こえてこなかった。

「待って」

 高くて掠れた声が聞こえた。それは俺がテイクオーバーゾーンを通り過ぎたのと同時だった。本番だと失格だな、と気を抜いた瞬間、目の前に人が飛び出してきた。レーンに入ろうとしている他校の選手だった。レーンに入った後で俺に気がついたらしい、その顔と目が合った。反射的に、その進行方向と逆の、レーンの内側に体を捻った。直前でスピードを緩めようとしていたおかげで、なんとか避けられそうだった。そのままトラックの外に流れ出ようとしたとき、左足が縁石を踏んだ感覚があった。不安定な接地をした左足は滑り、不自然に曲がった。靴の側面が地面に触れた感覚があった。ブチっという嫌な音が脳まで届いた。体が傾いて、そのまま地面に叩きつけられた。速度を緩めていたとはいえ、かなりの衝撃があった。それでも左足の痛みに比べたら有って無いようなものだった。呼吸が止まる痛みだった。汗が一瞬にして引いて、代わりに冷や汗が噴き出した。

「佐伯さん」

 日高が駆け寄って来たようだった。固く閉じた目を開くと、覗き込む日高と目が合った。

 痛みの中で見上げた日高は笑っていた。




 俺は顧問の車で病院へと連れて行かれた。

「捻挫だろうけど、Ⅱ度以上だろうね」

 道中、顧問は助手席の俺に言った。

「ブチって音がしたなら、多少なりとも靭帯に傷はついてるよ。それでも人と接触していない分、そこまで深刻なダメージではないかもしれない」

「はい」

「1レーンを使うべきじゃなかった。これは結果論じゃないよ」

「はい」

 俺は頷くことしかできなかった。完治までどれくらいかかるのか、それで頭はいっぱいだった。故障は何度かしてきたが、靭帯損傷なんて経験は無かった。完治して、ブランクを取り戻すまでにどれぐらいかかる? 完治ではなく、なんとか走れる程度なら、走れない期間は縮まるだろうか。走れない期間を無駄にしないトレーニングはあるだろうか。淡く、吹けば消えてしまうような虫のいい願望が頭をよぎる。

 自分でよくわかっていた。なんとか走れる程度の足を引きずって、ブランクを埋めて、どうにか悪影響を最小限に抑えて。そんなものに意味は無い。淡い願望ではかき消せないくらいには理解していた。俺は日高に勝たなければならないのだから。

 足首に当てたアイシングパックを握りしめる。痛みはもう麻痺していた。絶望だけがそこにあった。

「事故に関しては不注意だったけど、幸い、相手の選手に怪我はなかった」

 顧問は俺の足首を見て、幸いって言うのはおかしいか、と呟いた。

「事故の後の対応は適切だったよ。冷静に対処してくれたおかげでチームはリレーに出られるし、相手の先生にもすぐ連絡できた。立派にチームを守ったよ」

「はい」

 チームを守った、か。俺は走ることでチームに貢献したかったんだ。




 癖というものはなかなか抜けてくれないらしい。大会から一週間が経った最初の土曜日、朝早くに目が覚めた。毎週土曜日は朝早くから練習があることを、体はきっちり覚えているようだった。いくら頭では忘れようとしていても。

 幸い、捻挫はⅡ度の中では軽い方で、全治四週間とのことだった。ちょうど県大の日だ。そんな日に完治することに、何の意味も見出せなかった。部活には一切顔を出す気にはならなかった。病院で貸し出された松葉杖も、治そうと思えない今は使う気にもならなかった。学校に行って、帰って、自室に引きこもる日々の中で、頭を支配するのはあの日の日高の笑みだった。日高は、悶え苦しむ俺を見て、怪我を悟ったのだろう。そして笑った。それがどういう感情から来たものなのか、わからないはずがなかった。その感情に憤る自分も、その感情を否定できない自分も、確かにここにいる。

 諦めよう。そう思った。予定の三週間より早く完治させて、ブランクを取り戻して、日高に勝てるだけの練習をする。越えなければならないハードルが多すぎる。到底実現できないことは火を見るよりも明らかで、痛いほど理解できた。諦めよう。それしかない。

 家にいると息が詰まりそうだ。散歩でもしようと思った。左足首はまだ痛むし可動域も狭く、歩くのもやっとだったが、松葉杖は持たずに家を出る。

 家を出て数十メートルで後悔した。一歩一歩が怪我を悪化させているようだった。かと言って、このまま戻る気にはなれなかった。ちょうど脇にあった公園の入り口の車止めに腰掛ける。何もかもが上手くいかないな、と感じた。

「あれ? 一真じゃない?」

 声のする方を振り返ると、一人の女性が立っていた。会うのは随分と久しぶりだが、すぐにわかった。小学五年生の時の担任教師だ。

「吉川先生」

 名前を呼ぶと、先生は微笑んだ。美人で明るくて、クラスメイトみんなに好かれていたあの頃のままの笑顔だった。それでもどこか違和感があった。背格好が変わるわけもないし、髪形だって同じなのに、どこかが当時と違った。少しだけ考えて、そうか老けたんだ、と気がついた。最後に会ったのだって五年以上前の卒業式だ。

「やっぱり一真だった。大きくなったね。久しぶり」

「お久しぶりです」

 頭を下げると、大人っぽくなったね、とまた笑われた。

「あんなに小っちゃかったのに、もう高校生だもんね。今何年生だっけ?」

「三年です」

「うわー、三年生か。時間が経つのは早いね。部活やってるの?」

「ええ、まあ」

 先生は本当に喜んでいるように見えた。俺だって嬉しかった。波立っていた心が落ち着いていくのがわかった。同時に、奥底から湧き上がる渦のような感情にも気がついていた。それが久しぶりの再会の場に相応しくないことはわかっていた。それでも俺は聞かずにはいられなかった。

「前に、俺が五年の時、台風が来ても喜んじゃ駄目って言いましたよね」

「え、言ったかな。ちょっと」

「言ったんですよ」

 先生は口を閉じてしまった。スーパーにでも買い物に行った帰りなのだろう、右肩にはエコバッグがかかっていて、重そうに揺れている。

「あれって、どういう意味だったんですか」

 先生は、俺の質問の意図をはかりかねているように見えた。口の中でもごもごと舌が動いている。当時にもあった先生の癖だった。

「多分ね、傷ついている人がいるんだよ、って言いたかったんだと思う。自分たちが知らないだけで、台風のせいで傷ついてる人が。それを想像して、思いやって欲しかったんだと思う」

 言い終わって、ごめんねちゃんと覚えてなくて、とばつが悪そうに笑った。

「どうして駄目なんですか? 自分が嬉しいんだから仕方ないじゃないですか。それとも憐れめって言うんですか。そんなのは」

 そんなのはごめんだ。かといって、この一ヶ月で多くの台風にさらされた自分に、周りが、日高が、どんな反応していたら満足だったのかなんてわからなかった。

 もう駄目だ、と思った。右脚と両腕に力を入れて立ち上がる。目を見開いて固まってしまった先生に、すみません、と心から詫びた。

「すみません。会えて嬉しかったんですよ。本当に」

 できるだけ自然になるように、左足にも体重をかけて歩く。自分がそれを装えているか、全く自信が無かった。




 日高が訪ねてきたのは、先生と再会した次の日の夕方だった。

 呼び鈴が鳴ると、母親に出るように言われた。息子が歩くのも大変な故障をしたことを知らないのではないかと思ってしまう。口には出さなかったが顔には出ていたようで、だってあんたせっかく借り松葉杖も使ってないでしょ、と言われた。

 はーい、と返事してドアを開けると、日高がいた。緊張した面持ちで体をこわばらせている。ジーンズにTシャツといった格好で、制服でもジャージでもない姿を見るのは初めてだな、なんてことを思った。

「こんにちは。急にすみません」

「どうした、急に」

 尋ねてから、どうしてこいつは俺の自宅を知っているのだろう、と思った。

「えっと、あの、怪我のことで」

 日高は口ごもった。少しの間喋りだすのを待ったが、口は半開きの状態で不安定に揺らぎ、終いには閉じた。そしてその口はもう開きそうになかった。

 俺は何故こいつのことを待ってやっているのかと疑問に思った。多分待つ理由なんて無かった。それでも、この場で帰れと告げてドアを閉めるべきではないと思った。

 日高は頼りなく見えた。日高自身が自分を支える術を見失っているみたいに見えた。流石に放ってはおけないなと思った。一週間前の、怪我をする前の俺なら、この姿を見てどう思っただろう。一方的なライバル心を失ってやっと、日高のことを後輩としてフラットな目線で見ることができたのかもしれない。

「とりあえず入れよ」

「はい」

 ひょこひょこと歩いて日高を自室まで連れていく。本当は入れたくなかったが、リビングでする話ではなさそうだ。

 部屋に入るとベッドに腰掛けて、日高がドアを閉めるのを確認した後、座るように言った。日高は床に正座した。

「正座とかいいから。足崩せよ」

「はい」

 はいとは言ったものの日高は正座のまま、あの、と言った。

「怪我のこと、本当にすみませんでした。俺のせいで、もうすぐ県大なのに」

「何でお前が謝るんだよ。完全に俺の不注意だったんだ。1レーンを使うべきじゃなかったって先生にも怒られたよ。もしかしたら、俺じゃなくてお前の方を怪我させてたかもしれないんだ」

「違うんです」

「何が」

「バトンが合わなかったせいで、あそこまで走らせてしまったんです。ちゃんと渡せていれば、もっと早くに減速できてたんです」

「バトン練習ってのはそういうもんだろ。合わないのはお互いの責任だし、そもそも歩数を指定したのは俺だろ」

「違うんです佐伯さん」

 日高の大きな声に俺は少したじろいだ。日高は打って変わって蚊の鳴くような声で、違うんです、と繰り返した。

「何が違うんだよ」

「佐伯さんは、届かなかったら早めに言え、って言ってたんです。でも言わなかったんです」

「それは確かにそうだけど、だからと言ってな」

「あの時、二十歩だったじゃないですか」

「そうだったな」

「対等な歩数で、俺は追いつけなかったんです。それを認めたくなくて、待ってって言えなかったんです」

 そうか、と息を吐いた。日高が何故わざわざこんな話をしているのかわからなかった。

「あの時、目が合ったじゃないですか」

 数秒の沈黙の後、日高は切り出した。「あの時」がいつかはすぐにわかった。

「佐伯さんが倒れるのを見て、足が変についたところも見えて、怪我してるだろうなって思ったんです。大変なことになったって思う反面、これでリレー出られる、って思ってしまって、それで」

 それで、笑ってしまったんです、と続くのだろう。

「佐伯さんはあんな向かい風で11.40だったじゃないですか。同じ条件なら、絶対佐伯さんの方が速いじゃないですか。それで、二十歩でも追いつけなくて、合図が遅れて。全部俺のしょうもないプライドのせいなんですよ」

 日高の目には薄っすらと涙が浮かんでいた。しょうもないプライドと日高は言ったが、それがしょうもないものなんかじゃないことは、俺にはわかっていた。そしてそれを口にするのがどれほど難しいのか、どれほどの決意が必要なのか、痛いほど理解できた。俺にはついにできなかったことだったからだ。

 そこには尊敬があった。確かにあった。日高のことを認めたいと考えながらも、低く見積もりたいという願望を抱き、そしてその希望的観測を事実だと思い込もうとしていた一週間前まではありえなかった感情だった。そしてそんな日高が自分のことを認め、恐れ、ライバル視していたことが嬉しかった。俺が抱いていたものが一方通行でなかったことに、それらすべてが救われたような気分になった。そして、そんな風に思うことが、やはり日高を尊敬している証左に違いなかった。それが自覚できてよかった。

「とりあえず正座やめろ。鬱陶しいから」

「はい」

 今度は足を崩し、膝を抱えて座りなおした。その時、ばれないようにか袖で目を拭っていた。それは日高の精一杯の強がりだったのかもしれない。

「県大の一ヶ月後に地方大会があるな」

「はい」

「その一ヶ月後にインターハイだ」

「はい」

「それは俺が走る」

 日高は俯いていた顔を勢いよく上げた。

「はい」

「はい、じゃねえよ。俺は実力で取るって言ってんだ。渡しません、くらい言え」

 日高は大きな口を開けて笑った。

「はい。渡しません」




 家に帰ってすぐ、学校でマネージャーから渡されたビデオカメラをカバンから取り出した。大会の度に、マネージャーは全部員の全レースを録画している。それを借りてきた。自分のレースのところまで飛ばし、再生する。スタート前の佇まいだけで、緊張しているのが見て取れた。何だか他人事のようで面白い。スタート位置から離れたスタンドから撮っている関係で、スタートした後にピストル音が遅れて聞こえてくる。それでも周りとの順位を見る限り、なかなかいいスタートが切れているようだ。序盤の加速を終え、中盤に入ったところで、おお、と思った。画面の中の俺は、なかなか伸びやかな良い走りをしていた。そのまま組で一着の選手と僅差でゴールした。何だ、俺って結構速いじゃないか。

 ビデオの電源を切って、スマートフォンを取り出す。通話ボタンを押して、耳に当てる。かけた先は、小学校だった。

「もしもし、卒業生の佐伯と申します。吉川先生いらっしゃいますか」

 電話はすぐに取り次いでもらえた。もしもし、と先生の声が聞こえてきた。

「こんにちは。佐伯です」

「うん。一真、どうしたの?」

「来月、陸上の地方大会があるんです。今年は地元開催なんで、応援に来てください」

 絶対行くよ、と先生は笑った。よく晴れた青空のような笑い声だった。






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テイクオーバーゾーン・タイフーン フルトリ @furutori

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