診察30【小野島正明】

 正明は起きた瞬間、自分の体調不良を自覚した。

 あ。これは熱があるな。はっきりと分かるくらいに関節も痛くて、体が重い。

 体温計は、どこにあったっけか……。

 重たい体で布団から這い出て起き上がる。ちょっと立ちくらみがした。

 どうにかこうにか体温計を探し出して熱を測る。

『38.3度』。

 診療所には行けないなとふうと息を吐き、天を仰ぐ。患者さんにうつす訳にはいかない。

 真治に事情を伝えると「ゆっくり休んで」と言われた。

 その高熱からインフルエンザを疑ったが、発熱から時間が経っていないので検査をするのはもう少し待ったほうが良いなと正明は思った。枕元に麦茶を入れた水筒を二本用意して、もう一度布団に戻った。

 朝ごはんはとても食べられそうにない。

 口呼吸をして天井を眺めていると、ハナコと散歩に行っていた真治が帰ってきたようで、外から「ハナコは今日も美人さんだね」などと声がする。

 少し気持ちが緩んだ。

 真治は出勤前に「じゃあ、行ってきます」と正明に声をかけた。正明は返事をせずに、布団の中から左手だけを上に上げた。

「ゆっくり休んでね」と先ほどと同じことを言い残し、真治は診療所へと姿を消した。

 一人取り残された静かな室内に、正明は寂しさを覚える。

 いつも診療所の院長室で昼寝をするときは、扉の向こうに誰かの気配を感じているのだ。診療所なのに、なんでこんなににぎやかなんだ、と思うこともある。けれどこうして一人静かな環境になってみると、それも幸せなことなんだなあと実感した。

 頭が働かなくなってきて、顔だけがぽっと熱を持ったような気怠い感覚の中、正明は静かに眠りについた。



瀬戸内晴子せとうちはるこです……」

 開いたばかりの診療所で、正明はひたすらに仕事をこなしていた。

 無医村だったここに診療所を開いてからというもの、目が回るような忙しさで日々が過ぎ去っていく。

 そんな中、目の前に現れた晴子はまるで天使のようだった。白い顔と、大きな目に目が釘付けになった。もちろん錯覚だと分かってはいるが、正明には後光がさしているかのように、眩しく見えた。

 しばし見惚れていたことに気付き、ひとつ咳ばらいをしてから

「はい。どうされましたか」とカルテに目を戻す。

 晴子は苦しそうに咳をしながら

「咳が止まらないんです」と涙目で訴えた。

「そうですか。いつからですか」

「三日ほど前からです」

 きちんと医師としての役割を果たそうと思うのに、晴子のことが気になって内容が頭に入ってこない。こんな経験は初めてだった。

 カルテに言われるがままを書きつけて、それを復唱することで、ようやく医師としての尊厳を保った。

 晴子は生まれつき体が弱く、当時まだ高校生になったばかりだったのにほとんど学校にも行けず、寝たきりのことも多かった。

 同級生の友人である山下楓や原田薫子がちょくちょく訪ねていくものの、基本的には晴子はひっそり縁側の戸を開けた部屋で外に思いを馳せながら寝ていることしか出来なかったと、後になって聞いた。

 当時はまだ医師が正明一人だったので入院患者の受け入れはしていなかったものの、往診は行っていた。診療時間が終わった夕方から夜、正明は自力で診療所に来られない患者さんの家を回った。

 ものすごく忙しかったものの、それはそれだけ自分を必要として、即ち助けを求めている人が多いということだと思い、正明は寝食を忘れて、医師の仕事を全うした。

 そんな中、晴子の家に往診に行くことが正明にとっての癒しだった。

 晴子は常に穏やかで、体調が悪くても正明に「来て下さって、ありがとうございます」と挨拶を欠かさない。

 正明の心の中に、晴子の居場所が出来た。

 だからといって正明は、ひとまわりも歳が違う晴子に恋心を抱いていることなど誰にも言えなかった。

 晴子の診察はドキドキした。けれど素っ気ないフリをした。

 そうして自分の気持ちを偽る事で、その気持ち自体が消えて無くなることを期待した。

 そんなある日、正明宛に晴子から手紙が届いた。

 ラブレターだった。

『小野島 正明様

突然お手紙を送らせていただくご無礼を、どうかお許し下さい。

私は今、寝ても覚めても小野島先生のことばかりを考えています。

女の私からこのような気持ちをお伝えすることに躊躇いはありましたが、私はきっと人より短く散ってしまう生命。

ですので、勇気を振り絞り、この文をしたためております。

もしもお気持ちが通うことがあれば、私は幸せです。

ご迷惑ならこの手紙は破り捨ててくださって構いません。

しかし、もしも私と小野島先生が同じお気持ちでしたら、

◯日、夜九時に自然公園にいらしていただけないでしょうか。

お待ちしております。

瀬戸内晴子』

 正明は迷った。もちろん心は躍った。

 しかしこの誘いに乗っても良いものか。相手は少女だ。気の迷いということもある。正明は忙しくて、とても普通の同級生との恋のようにはいかないし、それ以上にたくさんの障害がある。短い生命と言うならば、もっと晴子を大切にしてやれる男と 一緒になるのが幸せではないかと思った。

 結論を出せないまま、当日になった。

 晴子はその日の昼前に、診療所にやってきた。

 またしても体調を崩したようで、激しく咳き込んで苦しそうだった。お互い目を合わさず診察を終え、晴子は帰っていった。診察室を出る際に晴子から視線を感じたが、正明は気付かぬフリをした。

 時間が迫るにつれて気もそぞろとなり、最後の診察の際には患者さんに「先生だいぶお疲れですね」と心配されてしまった。

 正明は反省した。

 しかし、決意した。

 今日、姿を見てしまったことで、気持ちが抑えられなくなってしまった。

 隣にいて欲しいと強く願った。たとえそれが気の迷いだったとしても、晴子から別れを切り出されるまでの間でも、良い。正明は晴子の優しい笑顔に会いたかった。

 夜の八時半から、指定された公園で待った。 

 晴子は来なかった。



「……寝てる? 起きてる?」

 マスクをした真治が上から顔を覗き込んでいる。

 正明はゆっくり目を開けた。

「ああ……」

「あ。起き上がらなくても良いよ。りんご擦ったから、食べられれば食べてね」

 真治はそう言うと、りんごの入った小皿を正明の枕元に置いた。

「あと、これも」

 そう言って横に置いたのは、五百ミリリットルのスポーツドリンクのペットボトルだった。

「たくさん飲んでたくさん汗をかいてね。まあ、言うまでもないだろうけど。

それじゃ、戻ります」

 真治が去っていくのを見て、また取り残されたような気持ちになる。

 起き上がって、りんごを飲む。

 そういえば、晴子は具合が悪い時はりんごのすりおろしを欲しがったな、と思う。

 そう。晴子の夢を見ていた。

 ペットボトルの蓋を開けて、一気に半分ほど飲むと、トイレに行ってまた横になる。頭にもやがかかったようで、思考が冴えない。鼻の頭のあたりに居座った熱の塊が正明の思考回路の働きを鈍らせる。

 また、うとうとしてきた。

 眠ればまたあの日の晴子に会えるのだろうか。

 正明は目を閉じた。晴子に会いたい。そう思った。



 失意のまま帰宅した正明のもとに、晴子が姿を現したのは翌日だった。母親に連れられて、苦しそうに診療所へと訪れたのだ。

 診察室で二人になった途端、晴子は口を開いた。

「あの、先生……」

 一言話しただけで咳き込む晴子。それでも懸命に話をしようとする。

「はい」

 なるべく冷たく装った。昨日のことなんてなかったかのように。けれど晴子は「ごめんなさい」と謝るのだ。

「私、本当に肝心な時に体を壊してばかりで」

 晴子は泣いていた。

 しかし正明はそんな晴子の涙を見ることもなく、

「仕方ないですよ」と言った。

「気の迷いということもあります」

 晴子は顔を青くして力なく首を横に振った。診察を終えても正明の頭の中は晴子でいっぱいだった。

 晴子の目を見なかったことが、正明の胸にしこりとなって残っている。

 明かに体調が悪かったのは、昨日も今日も見ているからよく分かっている。なのに何故俺は晴子を傷付ける為だけの言葉を放ったんだ。

 そんな自分も許せなくて、けれど昨日の切なさはどうしても拭いきれなくて、正明は唇を噛み締めてその日一日を過ごした。

 三日後の夜、往診を終えてくたびれた正明が診療所に帰ってくると、入り口の前に晴子が座っていた。電気も消えた真っ暗闇の中に座っていた晴子。肌の白さも相まって、正明は一瞬心霊現象かと思って肝を冷やした。

「どうしたんですか? もう遅いですよ」

 正明が話しかけると、晴子はか細い声で答えた。

「小野島先生に、会いに来ました」

「え?」

 げほげほと咳き込む晴子の体調はまだ本調子ではないらしい。

「小野島先生に、会いに来ました」

 力強く発せられたその言葉は、先ほどよりもはっきり聞こえた。

「……それは、どういう?」

 暗闇に晴子が立ち上がり、白いワンピースのスカートがふわりと揺れた。

「説明しないと、分かりませんか?」

 暗闇に目が慣れてきたのか、正明の目に上目遣いの晴子の表情が見えた。

「……」

 正明が返事を返さずにいると

「小野島先生のお気持ちをお伺いに来ました」と畳みかけられる。

「私の気持ちはこの前のお手紙に綴ったとおりです。お約束を守れず、申し訳なく思っております」

「……」

「小野島先生、私からの好意は、迷惑ですか?」

 晴子は力強い目で正明を見つめた。正明はたまらず目を逸らす。

 一度は応えると決意した晴子への気持ちだが、あの公園の夜の切なさを思い出すと一歩が踏み出せない。いずれ捨てられてしまうに決まっているのなら、最初から淡い夢など見ない方が良い。

「晴子さん、きっと、気の迷いです。あなたにはきっと、もっと素敵な人がいる」

 正明は自分の心が悲鳴を上げるのを感じていた。ドクンドクンと、切り傷のように脈打つのが分かる。自分で自分を傷付けた正明は、晴子の目を見ることも出来なかった。

「どうして私の気持ちを、小野島先生が決めつけるんですか」

 静かだが、怒りのこもった口調。

 正明は晴子の顔を見た。晴子は目に涙を溜めていた。

「私のこの気持ちが、気の迷いだと決めても良いのは、私だけです。小野島先生が心の具合まで決めつけないで下さい」

 正明はなにも言い返せない。

「小野島先生、公園に行って頂けたのでしょう?」

 正明は下を向いた。

「やっぱり。行っていないとは一言もおっしゃってませんでしたもんね。ならば、私のことは、嫌いではないのでしょう?」

「だから……」

 正明は力なく言った。

「晴子さんにはもっとふさわしい人がいます。俺は晴子さんにそこまで想ってもらえるような人間ではない。ひとまわりも歳が違うんだ。晴子さんの親だって反対するに決まっている」

 晴子は、それを聞いて笑ったのだ。人が真剣に言っているのに、と少しカチンと来て顔を上げると、晴子は正明の右手をそっと両手で包んだ。

「小野島先生、私のことを心配してくれているだけなのですね。全部私の為の優しい言葉ばかり」

 正明は顔が火照るのを自覚した。暗闇で良かった、と思った。

「でもそれは、小野島先生の言い分です。今度は私の言い分を、聞いて頂けますか?」

「……はい」

 正明は晴子の言葉を待った。

 晴子は深呼吸して、言った。

「私はこれからのどんな試練も、小野島先生の隣にいられるのなら、乗り越えられる気がします。それくらい、あなたが好きです。これは、この気持ちは無かったことにしなければならないものでしょうか?私を強くしてくれる、この大切な想いを、私は無かったことにしたくないのです」


 それからの日々は、正明にとって幸せなものだった。

 もちろん体の弱い晴子と会える時間はごく限られていて、さらに正明も忙しかったのであまり会えなかった。しかし晴子はこっそり家から抜け出して、夜の診療所に現れた。いたずらっ子のような顔をした晴子の顔を見て、正明はますます好きになった。

 そんなある日、晴子が妊娠した。もちろん正明の子だった。

 晴子はその時、十六歳。当然周りは大反対した。

 しかし晴子は頑なだった。

「自分はいつ死ぬかも分からない。好きに生きさせて欲しい」と言い張った。

 正明も弟の貴明や母から連日説得された。いかに道を外れたことをしているか、懇々と説かれた。

 正明も晴子と会う前なら、その言い分にすぐに納得したことだろう。

 しかし正明はもう晴子と離れることが考えられないほど、晴子に惚れていた。

 この、晴子を愛おしいと思う気持ちが、いけないものなのだろうか。晴子と一緒にいたいと思うこの気持ちは、非道だと言うのだろうか。

 晴子は一歩も引かなかった。ならば正明も引く訳にいかなかった。

 何度も晴子の父に頭を下げた。水をかけられた。頭を踏みつけられた。

 それでも晴子と離れることを思えば、耐えられた。

 晴子は結局粘り勝ちした。

 堕胎には期限がある。子供の命を奪うつもりかと親の良心に訴えかけ、もう堕胎できない所まで耐えた。

 しかし晴子は勘当同然に家を追い出された。正明と晴子は一緒に暮らし始めた。

 晴子はどんなに後ろ指をさされてもめげなかった。

「いつ死ぬか分からないのに、他人に指図された人生など歩みたくない」

 そう主張する晴子は正明よりも頑固だった。

 体の弱い晴子の主治医でもある正明は、出来る限り晴子の体を気遣い、晴子の気持ちのケアもしたかった。けれどいつも元気をもらうのは、年上のはずの正明だった。

晴子はいつも笑っていて、「私、今幸せ」と膨らんできたお腹を愛おしそうにさすった。

 子供が生まれたのは、街の産婦人科だった。

 正明は立ち会えなかったが、毎夜訪ねては晴子を励ました。

 生まれた赤ちゃんは、晴子に似ていた。

 正明がそう言うと、晴子は

「いいえ。正明さんに似ているわ」と笑った。

 孫が生まれたこともあり、晴子の家族の態度は軟化した。もともと狭い街で暮らしていくのに、いつまでも顔を合わさずにはいられない。

終戦ではなく停戦。一旦棚上げされたわだかまりは、いつだって燃え盛る準備をするべく燻っていた。

「私達が幸せでさえいれば、周りはきっと分かってくれる」

 晴子は自信満々に言った。その言葉に、正明は勇気づけられた。

 三人の暮らしはとても順調で、晴子は若いのに良き母であったし、正明も家族を背中に背負って働くという喜びを噛みしめながら日々を過ごした。

 しかし、真治が健やかに育つにつれて、晴子は体調を崩す日が増えた。

 無理をしてはいけないよ、と言っても晴子は

「好きでやっているんです」と笑うのだ。正明は年ばかり上で頼りにならない自分を何度も責めた。

 けれど正明にも仕事がある。

 晴子が良き妻で良き母でいてくれることは正直ありがたかったし、甘えもあった。 晴子に優しい言葉をかけながら、自分の無力さから目を逸らし続ける日々だった。

 ある日、晴子は風邪をひいた。風邪など、晴子にとってはいつものこと、と本人は笑っていたのだが、その重たい咳に正明は内心怯えていた。もちろん晴子の体は気遣っているつもりではいたが、四六時中見ている訳にはいかない。

 とうとう晴子は肺炎にかかった。

「大きな病院に入院しよう」と正明は言った。

 けれど

「私はもうあなた以外のお医者様にかかる気はない」と晴子は言った。

「それにもう、私は幸せをたくさんもらったから、十分です」

 自宅の布団で横になり、そう言って微笑む晴子に正明は怒った。

「勝手に終わらせようとするな。俺はもっと晴子と一緒にいたい。真治だって、まだ晴子が必要だ」

 なのに晴子は笑みを崩さない。

「私は、体がなくなってもあなたと一緒にいます。ずっと、あなたの隣に」

 そして、正明の手を取った。

「気の迷いでは、ありませんから」


 正明の懸命の看護も虚しく晴子が息を引き取ったのは、ある夏の日の深夜。

 真治にかけた最期の言葉は

「優しいままの、真治でいてね。あなたの母親になれて、私は幸せよ」。

 正明にかけた最期の言葉は

「あなたと出会えて、たくさんの幸せを知りました。私はやっぱり、あなたの隣が一番幸せでした」。

 正明は晴子を失って、すべてを投げ出したくなった。

 晴子の実家にもずいぶんなじられた。

「医者と一緒になったからといって、救ってもらえるとは限らないな」

 悔しくて、悲しくて、やるせなかった。また一人、自分の大切な人を失った。医者は万能ではない。正明は打ちひしがれた。

 そんな正明を救ってくれたのは真治だった。

「父さん、僕も医者になる」

 真治は正明にそう言った。

「母さんはよく言ってた。『お医者様は素敵な仕事よ。お父さんはたくさんの笑顔を守る仕事をしているの』って。僕が医者になって、母さんの分まで、父さんを笑顔にするよ。父さんは、他の患者さんを診るのに忙しいから」

 真治は力強い目をしていた。晴子に似ている。

 正明は黙って真治を抱きしめた。

 そうか。俺は、晴子を笑顔に出来たのかな。晴子に幸せをあげられたのかな。

 何度考えても答えは出なかったけれど、正明は一人ではない。真治と、一緒に生きていくのだと誓った。晴子の分まで。



「父さん…。父さん」

 真治に揺すられて、正明は目を覚ました。

「……晴子?」

 一瞬のぞきこむ真治の顔が晴子に見えた。

「ちょっと大丈夫? 熱、下がらないのかな」

 真治は心配そうに言った。

「インフルエンザの検査してみようか」

 正明がぼーっとしているうちに手早く検査をされた。

「ああ、インフルエンザではないみたい」という真治の声は遠くに感じた。

 先程までの十歳のときの真治の印象が今も色濃く残っている。

 ああ。そうか、夢だったのかとぼんやり思う。

 飾ってある晴子の写真の方を見る。いつまでも綺麗だ。

 そこで歳を取ることをやめてしまった晴子。

 今も隣にいたら、きっと小皺も増えて、それをからかう日だってあっただろう。

 正明の白髪がいくら増えても、手がいくらしわしわになろうとも、思い出の晴子は艶やかで、静かに美しい。

「父さん、点滴する? どうする?」

 真治は心配そうに正明に尋ねる。

「いや、いい。寝れば治る」

 正明は力のない声で答えた。

 晴子がいてくれればなあとそればかりを思う。きっとそれだけ体が弱っているのだ。

 りんごのすりおろしをもう一度飲んで、正明はまた眠りについた。

 夢の中でも、晴子の笑顔にもう一度会えたら。

 それだけで元気になれる気がするのに。



 また、夢を見た。

 けれど今までの夢とは違い、正明は若返っていない。いつもの自分の姿だ。

 時を経た今の家に晴子が普通に暮らしていて、正明のために朝ご飯の支度をしている。

「はい。今日の目玉焼き、すごく上手に出来た!」

 晴子は食卓に座る正明と真治の前に皿を出す。真治は「わあ。美味しそう」と言って箸を持つ。自分より若い母の姿に、何の違和感もないようだ。

 正明は味噌汁を飲んだ。夢なのに、味がする、と思った。晴子の少し薄い、懐かしい味噌汁の味。

 正明は泣いていた。

 泣きながら目玉焼きを食べた。晴子の好きな半熟の黄身が、とろっと皿に広がった。

「晴子……。晴子……」

 正明は歯を食いしばり、泣いていた。

 いつのまにか先程真治が座っていた正面に晴子が座っていた。

 そして正明の目の涙を人差し指で拭い、微笑んだ。

「正明さん。どうしたの。私はいつも、ここにいるのに」

「だってこれは夢だ。起きたらもう晴子はいないんだろう? 俺は何度晴子のいない朝を迎えればいいんだ」

 晴子は少し怒った顔をした。

「話が出来なくても、あなたの隣に私はいるのに。あなたを泣かせたい訳じゃないのに。忘れてしまったの? 私はあなたと一緒にいられて強くなれたの。正明さんに、その強さを少し分けてあげる」

 そう言ってテーブルから身を乗り出した晴子は、正明の頬に手を添えてキスをした。

 恥ずかしそうに笑う晴子に、正明は泣きながら笑い返した。



 正明が目を覚ますと頬に伝った涙の跡がかさかさした。

 熱の後で少し気怠いが、昨日とは打って変わった頭の冴えに確信して熱を測ると、やはり下がっていた。

 トイレに行き、水分を摂る。起きてきた真治が

「おはよう、大丈夫?」と声をかけてきた。

「お前こそ大丈夫か?」と聞き返したくなるような、絶望的な寝癖がついていた。

 正明は笑って「大丈夫だ。それより早く鏡を見てこい」と言った。

 洗面所から「うわ!」と声がした。それもまた可笑しかった。

 正明は白衣を着て、晴子の遺影の前で

「今日も格好良いか?」と聞いた。自分で少し恥ずかしくなって、笑った。

 正座をして、心の中で語りかけた。

 晴子、ありがとう。俺が体調が悪いせいで、情けなかったから、助けに来てくれたんだろう。さすが、俺の妻だ。生涯たった一人。晴子以上の妻は、俺にはいないよ。俺にはもったいないくらい、出来た妻だ。俺も、いつも晴子といるよ。心の中に、いつもいてくれて、ありがとう。

 さて。正明は目を開けて、診療所へと足を踏み出す。

 真治は一足先に出勤していた。

 今日は正明の出番がないといい。ずっと院長室にいたっていい。医者にかからない方が、元気で健康な生活を送れているってことだもんなと正明は思う。

 院長室の前で立ち止まる。今日も待合室は騒がしい。薫子さんが受付をしている声が聞こえる。

 小野島診療所に来る患者は、今日も正明と真治の力を必要としている。

 たくさんの人を、笑顔に、か。

 院長室のドアを開けた。

 今日も見慣れたその場所で、正明は小野島診療所の診療開始時間を迎えた。そこには父の写真と晴子の写真を飾ってあった。二人とも、笑っていた。

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