診察29【谷崎賢人】

 谷崎真美たにざきまみは、息子の賢人が昨夜遅くから訴えた腹痛が心配でよく眠れなかった。朝も青白い顔でぐったりとしている様子はいつもと明らかに違う。妹の優璃愛は心配で学校に行きたくないとごねた。その背中を押して登校する姿を見送り、急いで賢人と共に診療所を訪れた。

 待合室はすでにいっぱいで、こんなに具合の悪い我が子を待たせるのかと苛立った。待合室で交わされる会話も、能天気な患者の顔も、どうも深刻な症状で訪れているようには思えない。真美の肩にもたれかかる賢人の頭を撫でながら、早く呼ばれてくれと心から願った。

「谷崎さん。谷崎、賢人くん。診察室どうぞ」

 名前が呼ばれたときはやっと来たと思った。ふらふらする賢人を連れて、診察室の中に入る。

「今日は賢人くんですね。……うんうん」

 先ほど真美が記入した問診票を見て、真治は頷いた。

「なるほど。症状はいつからですかね」

「昨日の夜から、急になんです」

「朝ごはんは、食べられました?」

「いえ。食べられてないです。少し食べると吐いてしまって」

 そう言うと真治は賢人にベッドに横になるように指示をして、そのお腹を触って、痛みを確認した。

「はい。では一旦処置室で点滴させて下さい」

 一通り触診を終えると、真治は言った。

「はい」

 真美はこの診療所の処置室に慣れている。優璃愛が喘息で、しょっちゅうここに入院しているからだ。

「賢人、処置室、行くよ。点滴だって」

 真美の声を聞いて、力なく頷く賢人。いつもは元気すぎるほど元気な賢人のその弱り切った姿に、胸が締め付けられるようだった。

 賢人は結局胃腸炎と診断され、入院することが決まった。真美は賢人の着替えを取りに、一度自宅へと戻った。

 夫の雅和まさかずに連絡を取り、賢人の入院を伝えると、予定を早めて帰宅してくれることになったので、手早く家事を済ませて夕食の支度をする。賢人の入院準備を始めようと優璃愛のいつも入院時に使っているバッグを手にし、パジャマなどを詰めているときに優璃愛は学校から帰宅した。

 優璃愛はどたどたと玄関から走って来て、

「お兄ちゃん、大丈夫だった?」と心配そうに真美に尋ねる。真美は首を横に振り、なるべくいつもの口調で優璃愛に話す。

「お兄ちゃん、今日入院になっちゃったよ。だからお母さん、もう一回診療所行ってくるから。お父さん今日帰り早いから、それまで少しだけお留守番しててくれる?」

 優璃愛は激しく首を横に振った。

「いやだいやだ! 優璃愛も行く! お兄ちゃんに会いたい!」

 真美はため息をつき、「だーめ」と言った。

 しかし優璃愛は泣き出し、

「絶対いい子にするから! お兄ちゃんの顔だけ見たい! お願いお願いお願い!」といつになく抵抗をした。真美は仕方なく、

「じゃあ、お兄ちゃんが寝てても絶対静かにしてるんだよ」と約束し、優璃愛を連れていくことにした。仕事終わりの雅和に優璃愛を診療所に迎えに来てくれるように連絡をする。真美は付き添いで、今日は診療所に泊まる予定だった。もう何度も経験しているので、夜の診療所には慣れている。

 優璃愛を連れて診療所を再び訪れた。賢人は起きていて、先ほどよりは元気になっていた。優璃愛が「大丈夫?」と泣きそうな顔で賢人に問うと、賢人はむしろ優璃愛を元気づけるように微笑み、

「大丈夫! 多分すぐに退院できるよ」と言った。

「でないと優璃愛が寂しくて死んじゃうもんな」と言う顔色はまだ青白く、妹に心配をかけまいとするその姿に真美は泣きそうになった。

 優璃愛は賢人のベッドの脇で、賢人に今日の学校の出来事を嬉しそうに話していた。賢人はきちんと相槌を打ち、ときどき笑った。真美は何度か「優璃愛。お兄ちゃん具合悪いんだから」とたしなめたが、賢人が「大丈夫だよ」と言うので優璃愛は話し続けた。無言の間を恐れるように必死に話す優璃愛はやはり寂しいのかもしれないと真美は途中から何も言えなくなった。

 雅和が迎えに来ると、優璃愛は寂しそうに帰っていった。

「お兄ちゃん、頑張ってね」と言い残した優璃愛が帰ると、賢人は途端に眠ってしまった。やはり調子が悪かったのだろう。真美は優璃愛を連れてきたことを少し後悔した。



 賢人が夜中に目を覚ますと、真美は賢人のベッドに突っ伏すように寝ていた。

 自分の腕に刺さった点滴が、ひんやりと存在感を示す。ベッドのシーツをギュッと握った。あたりを見渡すと、昼間の診療所とは違う空気を感じた。

 夜の診療所って、ちょっと怖い、と賢人は思った。

 暗闇の中、ぼんやりとした白い壁。そこに浮かぶ普段だったら心躍らせてくれるお星様やお月様の折り紙も、暗闇で真っ黒に見える。

 カーテンの向こうから感じられる月明かりは、今が真夜中である事を示していた。

 優璃愛って、いつもこんな感じなのかなあ。

 天井を見た。なんにもない、白い天井。冷たい感じがした。

 もう一度、シーツをギュッと握った。怖い。でも。

「……ん?賢人、大丈夫?」

 真美が寝ぼけた声を出して体を起こす。まず賢人を心配してくれたことが、ちょっと嬉しかった。

「お母さん。俺、明日も入院?」

「んー多分、そうかもね……」

 目をこすりながら、少し暗い声で真美は言った。

「じゃあ、お母さんは明日はおうちにいていいよ」

「え?」

 真美は驚いて聞き返した。

「だって優璃愛、お母さんいないと寂しいよ。俺は男だから、平気だし」

 真美はしばらく黙って、それから優しい声で言った。

「でも、今は賢人が具合悪いんだから、優璃愛は分かってくれるよ」

 その優しい言葉に少し揺らいだけれど、賢人は深呼吸してから言った。

「大丈夫。俺は男だし、お兄ちゃんだから」



 翌日、真治は夕方の診療を終え、ハナコの散歩を済ませてから、賢人のベッドの脇へやって来た。

「賢人くん、今日お母さんのお泊まり、断ったんだって?」

「うん……」

 賢人は昨日よりは少し顔色が良くなったものの、普段の元気の塊ぶりはなりを潜めている。返事も弱々しい。

「すごいね。格好良い」

「でしょう?」

 強がって少し笑った賢人に、真治は言った。

「うん。流石だ。その調子で、早く元気になろうね」

 その夜、真治はもう一度やってきて賢人の隣のベッドに腰掛けた。

「どうしたの? 先生」

 賢人が怪訝な顔で尋ねると

「え? 今日は僕がここで寝ようと思って」となんでもないことのように答えた。

「なんでだよ。俺、一人でも大丈夫だよ」

 賢人は心配をかけまいとしてか、早口で真治に訴えた。

 しかし真治は取り合わず、

「いや、昨日はお母さんがそばで見ててくれたからいいけど、今日はいないじゃない。だから僕は医者として患者さんの近くにいるのが仕事なんだよ。いびきはかかないと思うけど、うるさかったら、起こしてね」と言った。

 賢人は「あはは。先生、いびきかくのかよ」と笑った。

「いや、かかないとは思うけど、寝てる時のことって、分からないし」

 反論する真治に、賢人はまた笑った。

 その夜、何度か横で眠る賢人の様子をみた真治は、その健やかな寝顔に安心した。早く元気になあれ、と心の中で呟きながら、自分のシーツにくるまって目を閉じた。

 翌日、賢人は退院出来ることになったのだが、念の為夕方まで点滴をしてからにしましょうということになり、学校帰りの晃太がお見舞いに来た。

「賢人、大丈夫?」

 晃太は点滴を見て顔をしかめたが

「全然元気になったし」と賢人は胸を張って答えた。

「この点滴は帰るまで外しちゃ駄目なんだってさ」

「へー」

 晃太はそんな賢人にちょっと憧れの視線を送った。

 そこに、真治が現れた。

「あ。晃太くん。お見舞い?」

「そう!」

 元気に答える晃太。

「俺、賢人がいなくて学校つまんなかった。早く来てよ」

 偉そうに言う晃太の様子を見て、賢人は笑った。

「分かった」

「俺、賢人の病気が早く治れって紙飛行機も飛ばしたんだよ」

 誇らしげに真治に報告する晃太。

「本当?それは効果あったかもしれないな」

 真治は笑顔で答える。

「賢人、入院つまんなかったでしょ」

「そんな事ないよ。先生の寝言も聞いたし」

 賢人は意地悪な顔で笑った。本当は寝言なんて言ってなかったけど。

「嘘嘘嘘! 寝言言ってた? なんて言ってた?」

 作戦通り焦った様子の真治に、賢人は「内緒」と答えて笑った。

 晃太は「先生寝言言うのかよー!」と言ってきゃははと笑った。


 真美が夕方賢人を迎えに来ると、賢人はもうすっかり元気な様子で、「お腹減った」と真美に訴えた。

 真美は真治から、消化に良いものからゆっくり食べさせて下さいと言われていたので、その食欲にちょっと驚いたと同時に安心した。

「そっか。よかったね。元気になって」

 真美は帰りの車内で足をばたつかせる賢人にほっとした。子供が体調を崩すのは、自分が体調を崩すよりも苦しいものだ。毎回優璃愛と賢人が元気になる度、頼むからしばらく元気でいてねと願う。

「一人で入院、怖くなかった?」

 真美が運転しながら聞くと、

「ぜーんぜん怖くなかった! 俺、男だもん!」と嬉しそうに賢人は答えた。

「そっか。さすがお兄ちゃんだね。優璃愛はね、昨日賢人がいなくて泣いたんだよ」

「そうなの?」

 賢人はぱっと真美の方に顔を向けて聞いた。

「そう。お兄ちゃん、いないのやだーって」

「まったく、しょうがないなあいつ」

 大人ぶった口調で言う賢人は嬉しそうにはにかむ。

「でも晃太も、俺がいないと寂しいって」

「そっか。じゃあ早く学校行かないとね」

「うん」

 鼻息を荒くして頷く賢人の姿に、真美の口元が自然と綻ぶ。 

「優璃愛にも優しくしてあげよーっと」

 上を向いてそう言った賢人の声は優しかった。

「そうだね」

 真美が返すと、賢人はふうとため息をついた。

「優璃愛はさ、自分の体が弱いんだから、俺の心配よりも自分の体大事にしないと駄目だよね」

 賢人のこの強がりを喜ぶべきか、いつもこうさせてしまっていることへの罪悪感を感じるべきか、真美が複雑な思いを浮かべていると賢人は吹っ切れたように明るい声で言った。

「俺も優璃愛にも晃太にも心配かけちゃったから、今度は俺が恩返しする番だな。あいつら、寂しがり屋だから」

 その大人ぶった言い方に、結局真美は「ふふっ」と笑ってしまった。

「賢人は、頼もしいね」

「そうだよ! 俺、強いんだから! もう病気になんて負けないからね!」

 母親である自分すらも勇気づけてくれる賢人の成長に、思わず鼻がつんとする。

 家に着くと、優璃愛が玄関から駆け出してきた。待ちきれずに出てきたようだ。

 うちの息子は、たくさんの人に元気をくれる、優しい人に育ってくれている。胸がいっぱいで泣きそうな自分を誤魔化そうと、真美は大きな声で言った。

「賢人、お帰り」

 賢人は笑顔で「ただいま!」と叫ぶと、優璃愛と一緒になって、元気いっぱいに家の中に駆けていった。

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