診察28【竹中慎也】
「おはよう!慎也!」
開店前の『ケーキのうえはら』の前で掃き掃除をする上原一茂が、出勤前の竹中慎也に声をかけた。
「おはようおじちゃん。今日も元気そうだね」
慎也が返すと、一茂は大きな口を開けて笑った。
「元気だけが取り柄だから!」
慎也はその笑顔につられて思わず笑顔になる。
「じゃあ、おじちゃん、いってくる!」
「おお! 今日も安全第一でな!」
一茂は慎也の体を心配してか、慎也の出勤前に出くわすと、いつも決まってこう言う。
右手を上げて、車に乗り込む。
車を走らせている内に、雪がちらついてきた。ああ、やっぱり降ってきたかと慎也は思う。天気予報では今日の夜までに大雪になる可能性を告げていた。
雪の日の消防署は忙しい。
慎也は深呼吸して白い息を盛大に吐き出し、気合を入れた。
今日も、安全第一だ。
朝から降った雪は昼過ぎには積もりだし、今なおしんしんと降り続く雪のせいで視界もかなり悪かった。そんな中、出動要請に応じて到着した場所は、自然公園の展望台。子供が転落しそうだという通報を受けて駆けつけると、柵を超えてしまった子供が、今にも落ちそうな崖のくぼみにすっぽりと収まっていた。
母親は半狂乱で、少し目を離した隙にあそこにいってしまった、早く助けてくれと叫ぶ。
慎也はロープを体に巻きつけ、柵を超えた。崖の足場になりそうなところを慎重に探す。ロープを伸ばしてもらい、子供の視線の高さまで降りてから、近場に少し足をかける。
足をかけようとした出っ張りは、慎也が足をかけようとしたところでがらっと音を立てて崩れた。岩が転がり落ちる様を見て、高さを思い出したのか子供が泣いた。その唇は紫色で、早く救助しなければと内心で歯噛みする。
慎也は無理に笑顔を作り出し、
「大丈夫。おじちゃんが今助ける」と言った。
子供の体を片手で支えて、持ち上げる。ロープを引っ張るように合図をするが、雪で滑ったのか一度ロープが伸びた。その反動で慎也は崖に体を打ち付けた。
あまりの痛さに顔を歪めると、手の中の子供が再び泣き出しそうだったので、無理矢理笑顔を作り直し、「大丈夫だ」と声をかけた。
子供は慎也の目を見て、涙をこらえて頷いた。
その後、無事に救出出来た子供を診療所に運び、慎也は任務を終えた達成感と開放感から、腕を伸ばして伸びをした。
すると、先ほど打ち付けた右手が、痛みを訴えた。
「んがっ!」
腕を抱えて丸まった慎也を見て、正明が「ちょっと、診せて」と言った。
診察の結果、慎也の右腕は肘から下の骨が折れていた。一か月程度の安静を言い渡された。
上原信代は、慎也の母、美代子にその話を聞いた。
「え! 大丈夫なの?」
「まあ、元気よ。本当に、安静の意味が分かってるのかしら」
スーパーで会った美代子はため息混じりにそう話した。あの顔では、家で安静にはしていないに違いない。幼い頃から隣に暮らしている慎也は信代から見ても息子のようなもので、その気性はよーく知っている。安静にしている慎也など全く想像がつかないのだから、無理もない。
買い物から帰ると早速店番をしていた清美に報告する。
「慎也くん、骨折したんだってよ!」
清美は眠そうだった目をぱっちりと開き、「え!嘘!」と驚いた。
「本当。仕事中に、腕の骨、折っちゃったんだって」
「本当、ドジだね」
清美は笑っているが、心中はきっと穏やかでない。その証拠に、レジに飾ってあった鏡餅からみかんを外して弄ぶ。目はきょろきょろしているし、手元はそわそわしている。
全く、素直じゃないんだからね。うちの娘は。
信代はため息をついた。
慎也は気分転換に散歩をしようと家の外に出たところで清美と出くわした。
「あ」「あ」
お互いに声が揃う。
まずい所を見られてしまったと慎也は舌打ちする。腕を吊って固定しているところなど、清美には見られたくなかったのに。
清美は店の前の立て看板を店内にしまうところだったようで、持ち上げていた看板を一旦下ろし、
「ザ・骨折って見た目だね」と笑った。
「うるせえ」
慎也はそっぽを向いて歩き出した。
清美は看板をしまってから追いかけて来たようで、後ろからばたばたと足音を響かせて走ってきた。
「ちょっと、待ってよ」
息を切らした清美は慎也の肩に手を置いて、声をかけてきた。
「なんでついて来たんだよ」
「いいじゃん別に。どっか行くの?」
「散歩」
「じゃあ一緒に行く」
「なんでだよ」
「いいじゃん別に」
前に進まない会話に苛立ち、慎也はまた舌打ちをする。
「どうしてそんなにイライラしてるの?」
清美は不思議そうに聞いてきた。
「お前にイラついてんだよ」
「うわ。八つ当たりだ」
慎也は図星を突かれて尚更苛立った。
「仕事もろくに出来ねえ俺なんてほっといてくれよ」
体が資本の仕事なのに、後輩の良き手本とならねばならない歳でもあるのに、骨なんか折って。仕事しか出来ない俺なのに。やり場のない怒りはずっと胸に燻っている。
「なんでそんな責任感じてるの? 結果、仕事はうまくいったんでしょ。その腕は、誰かを助けた勲章だと思えばいいじゃない」
清美が慎也を気遣ってくれたことは分かっていた。けれど慎也の口から出たのは、正反対の言葉だった。
「うるせえ。女のお前には、分かんねえんだよ。俺の気持ちなんて」
慎也は部屋の天井を見つめてぼーっとしていた。
あの日の清美の泣きそうな顔が頭から離れない。
慎也の吐いた暴言に対し
「女で悪かったわね! 慎也なんか、大っ嫌い!」と走って帰ってしまった。
言いすぎたとは思ったが、謝るのも変だし、第一どう謝っていいかも分からない。
気付けばあれから一週間も経っていた。
仕事も休みの今、慎也は昼間も夜も外に出ず、なるべく家で過ごしている。清美に万が一会ってしまった時、どういう顔をしたらいいか分からないからだ。
いい歳した大人が、何してんだかなあ、と自分に呆れる。けれど問題は、清美に言われた「大嫌い」に思いの外傷付いている自分だった。「馬鹿」とか「うるさい」は言われ慣れているけれど「大嫌い」と言われたのは初めてだった。
「あーあ」
内心のもやもやをどうにかしたくて大きな声を出す。するとお腹からぐう、と音がした。自室から出て、夕飯のために階下に降りた。カレーの匂いが慎也の鼻をくすぐる。
「今日はカレーだな」
そう言いながら後ろから近付くと、美代子はびくっと体を動かした。
「ああびっくりした。急に後ろに立たないでよ」
美代子の抗議に「ごめんごめん」と慎也は謝った。清美以外の人間には、素直に謝ることが出来るのだ。
「ねえ慎也」
美代子がカレールーを入れた鍋をかき混ぜながら言う。
「清美ちゃん、明日お見合いするんだってよ」
慎也は、自分の中で時間が止まるのを、確かに感じた。
翌朝、目の下にくまをこしらえて、『ケーキのうえはら』の前に立っていた慎也を見た時、一茂は思わず「ひいっ」と声を出した。ただならぬ気配をまとっていたからだ。
「おじちゃん!」
「あ、慎也。おはよう」
かろうじて挨拶を返したが、一茂の腰は引けている。
「清美、今日、見合いするって本当?」
挨拶も返さずに聞いてきた慎也の顔には、必死さが滲み出ていた。
「ああ。まあ、いい歳だしな。友達に声かけられて、うちの母ちゃんがオッケーだしたらしいんだよな。それに」
「それに?」
慎也は一茂に詰め寄る。
「清美も、まあ会ってもいいって言うもんだからさ」
慎也が言葉を失ったのが分かった。
「慎也、よう」
隣に住んで、数十年。もう自分の息子のようによく知る慎也を、一茂は優しく見つめた。
「これから言うことは、俺の独り言だぞ」
「……」
慎也は困惑した顔で一茂を見た。
「うちの馬鹿娘は、器量がいいとは言い切れない。おっちょこちょいで、一言多くて、だけど気は人一倍強い、跳ねっ返りだ。だから嫁の貰い手がなくても仕方がないと俺は思ってる」
慎也は黙って聞いている。
「だけどよ、俺としては娘には幸せになってもらいたいんだなあこれが。いつもはうるさくて仕方ないってのに、喧嘩する相手がいねえみたいでここ一週間ぐらいは塞ぎ込んだまんまだ。大人しい清美を見てると調子が狂うよなあ」
一茂はぽりぽりとあごの下を指で掻いた。
「結婚ってえのは、中々にハードルが高い。だから見合いしたってすぐ嫁に行くとは限らない。ただし」
上を向いて、一茂は言う。
「清美は意地っ張りだ。誰かさんがあんまりはねつけ過ぎると、引き際を見失うだろうなあ。あいつはなんだかんだ言って誰よりも繊細で傷つきやすい奴だから。あとな」
一茂はにやっと笑って言った。
「俺としては、見ず知らずのやつに嫁に持ってかれるくらいなら、よーく知ってる息子みたいな男に嫁に貰って欲しいと思う。清美はその方が絶対に幸せだ」
清美は、自室で出かける準備をしていた。今日は父と兄で店を回すことになっている。母と少し遠出をするので、ついでに買い物もしようと言われていた。
いつもしない化粧を、今日はしてみた。鏡の向こうの自分は、もう若くはないが、愛嬌はあると思っている。笑顔を作ろうとしてみたが、むなしくなってやめた。
その時、ドアがものすごい勢いで開いて、これまたものすごい顔の慎也が部屋の中に入ってきた。
「清美、行くな!」
「は?」
突然の展開に流れが分からず混乱する。そもそも私、慎也と喧嘩してなかったっけ?
「お前、そんなに結婚したいのか?」
「結婚? ま、まあ、出来ればしたいけど」
慎也のあまりの剣幕に、いつもの清美の喧嘩腰の言葉が出てこない。
「結婚すればお前は幸せなのか?」
「え? あ、まあ。結婚は、幸せなんじゃない?」
戸惑いながら答えた清美に対し、慎也は射抜かんばかりの視線を清美から逸らさずに、言った。
「じゃあ、俺と結婚しよう」
「で?」
呑み処『かえで』のカウンターに頬杖をつき、にやにやしながら慎也の顔を覗き込む真治。
「怒られた」
「なんて?」
慎也はため息をついて言った。
「あんた、プロポーズってものをなんだと思ってるの! って」
それまでは困惑気味に聞いていた清美が、慎也のプロポーズの後、急に怒り出したことを思い出す。
「まあ、仕方ないね」
真治はメロンソーダを飲みながら言った。
「どんまい」
慎也はため息をついた。
「じゃあ、がいけなかったらしい」
「まあ、プロポーズに、じゃあ、って言ったら駄目だよね」
真治は苦笑いだ。
「しかも、清美は見合いじゃなかったんだ。清美のとこのおばちゃんと、その友達の息子と、一緒にご飯でも食べましょうってただそれだけのことだったらしいんだ。それをおばちゃんがおおげさに言いふらしてたんだと」
「え? じゃあ……」
「俺はとんだピエロだよ……」
慎也は顔を両手で覆い尽くした。その手にはもうギプスは付いていない。今日の昼の診察で、真治は慎也の回復力の速さに感心しながらギプスを外したのだった。
「まあ、よかったじゃないか。断られた訳じゃないんだろう?」
真治はにこにこして言った。
「そうだけど、一生言われるぞこれは」
「まあ、確かにね」
真治は笑いを噛み殺しながら言った。
「でも、すごく二人らしくていいと思うよ」
慎也は目を閉じて、今朝の清美を思い出した。ひとしきり怒った後、清美は慎也に言ったのだ。
「あんたとなら、幸せになれるかもね」
俯いて、顔を赤くした清美がものすごく可愛かったことは、慎也だけの秘密だ。
慎也は再度手で顔を覆い、にやける口元を真治から隠した。
「みんな、きっと祝福してくれるよ」
そう言った真治の顔は、まるで我がことのように幸せそうだった。
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