新年に
大晦日の小野島診療所は外見上ひっそりと静まり返っていたものの、中では正明と真治が駆け回り、一生懸命掃除をしていた。
二十九日の夕方で仕事納めをした正明と真治は、三十日に診療所の大掃除を終わらせる予定だった。しかし思いのほか三十日の急診希望の患者が多く、ほとんど掃除は捗らなかった。
幸い天気の良い大晦日だったので、朝早くからたくさんの洗濯物を干した。
庭に出るたびハナコがそわそわするので、真治はハナコの頭を撫でて、
「夕方には散歩に行こうな」と言った。
ハナコの尻尾はちょっと下がった。
正明は待合室の掃除に取り掛かり、掃除機をかけているとソファーの下に百円玉が光った。一度掃除機を止め、それを拾う。
再度掃除機をかけ始めた正明は、その後も十円玉や五円玉を拾った。苦笑してそれをポケットに入れた。
日が落ちてきた頃、自宅のインターフォンが鳴った。
正明が出ると薫子さんが、ピンク色のコートに白いマフラーを巻いて立っていた。
「おせち、持ってきましたよ」
「ありがとう。悪いね毎年」と言う。
後ろからきた真治も「ありがとうございます」と言い、頭を下げる。
「いえ、うちのを作るついでですから」と笑顔で言った薫子さんは「良いお年を」と言って帰って行った。
薫子さんを見送ってから、真治は夕方の散歩にハナコと出かけた。
正明はキッチンに立ち、年越し蕎麦用に天ぷらを揚げた。真治は何度教えても料理の腕が上がらないので、正明が小野島家の食卓を担っている。
完成したかき揚げを見て、正明は満足そうに頷いた。
うん。いい出来だ。
帰ってきた真治と、テレビを見ながらだらだらと過ごす。
せわしなく笑いを取ろうとするテレビの画面を見ながら、ああもうすぐ今年が終わるな、と思った。
年越し蕎麦を食べ、除夜の鐘を聞いた正明は真治と新年の挨拶を済ませ、晴子の仏前に線香をあげると上着を着て外に出た。
身を清めるような冷気は、正明を神聖な気分にさせた。
ハナコの犬小屋の前に行き「明けましておめでとう」と挨拶した後、
「あ。お前今年は喪中か」と気付く。
昨年の元旦は、ハナコの犬小屋はここになかったことを思い出す。
首を傾げるハナコに微笑む。
「まあいいか。今年もよろしくな」と言い、リードを握って一緒に歩く。
向かう先は近くの神社だ。
白い息を吐きながら歩いていると、いつもは静まり返る深夜の道は、初詣に向かう人達でそれなりに賑わっていた。近所の見知った顔ぶれと新年の挨拶を交わしながら歩き、目的地に着いた正明はお参りの列に並ぶ。
ハナコは大人しく座っていて、正明が誰かと挨拶をするたびに頭を撫でられては嬉しそうな顔をした。
正明の順番が回ってきたので、お賽銭を投げた。ふと思い出してポケットを探り、先ほど拾った小銭も、一緒に投げた。
それから、手を合わせて願った。
今年の診療所が、そんなに繁盛しませんように。
なるべく多くの人が、元気で来年を迎えられますように。
正明はお参りを終えると、暖かい甘酒をもらって飲んだ。冷えた体に染み渡るような優しい味だった。
ハナコと歩く帰り道では、これからお参りする人達とたくさんすれ違った。新年の希望に満ちた顔を見ると、正明は少し嬉しくなった。
自宅に帰り、一生懸命水を飲むハナコの前にしゃがみ込み、その姿を見守る。
「医者は人様を元気にするのが仕事だけどな」
正明が話しかけるが、ハナコは構わず水を飲む。
「元気になったら中々会えないから、世の中病気の人ばっかりなんじゃないかと思うことがあるよ」
水を飲み終えて満足したのか、おすわりの姿勢でハナコは正明の顔を見る。
「だけど、今日みたいなめでたい日に、去年病気だったり怪我だったりをした元患者さんの元気になった姿を見るとな」
正明はハナコの頭を撫でる。
「俺の仕事も、少しはこのへんの人達の役に立ってんじゃないかって、そう思うよ」
首を傾げたハナコに、正明は少し笑う。
「今年もよろしくな。看板娘さんよ」
わふっと返事をしたハナコを満足げに見ると、正明は暖かい我が家へと入って行った。ハナコもそれを見て、犬小屋へ入って行った。
まだ真っ暗な、空気の澄んだ夜。空にはたくさんの星が輝いている。数時間後の初日の出が輝かしいものであることの予兆を感じさせるには、充分すぎる、いい夜だった。
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