診察27【小野島貴明】

 電話口から聞こえる声は、決して明るいものではなかった。

「はい。そうですか……」

 長峰誠司ながみねせいじは電話の向こうの小野島正明の声を聞きながら、義父の貴明にどうやって伝えればいいのだろうと考えた。

「ええ……。はい……。伝えておきます」

 県会議員の貴明は、正義感に燃える熱血漢だ。働き者で、誠実で、そして頑固いずれ後を継ぐのだからと娘婿の誠司に秘書を任せ、身内とは思えない厳しさで、政治家としての在り方を示している。

 電話を切った後、ため息をつく。

「そんな事言ったって、なあ……」

 ハンドルにもたれかかり、考える。

 貴明の兄、正明からの電話は、健康診断の結果で気になる点があるのですぐに来て欲しいとのことだった。

 しかし誠司の把握している限り貴明のスケジュールはほぼ公務で埋まっている。その熱心さは、義母の奈津子なつこも、誠司の妻の桃香とうかも知っていて、半ば呆れているほどだ。

「お父さんは、働かないと死ぬのよ」という桃香の言葉も、あながち間違ってないと誠司は思っている。それくらい、貴明は仕事のことしか頭にない。孫の入園式も、運動会も、興味がない。お陰でそれに付き添う秘書の誠司も、娘の晴れ姿を何度も見逃した。

 そんな貴明を診療所に連れて行くのは至難の技だし、そもそもその為のスケジュールをあけなければならない。

 誠司は目を閉じてこめかみを親指と中指で揉んだ。頭痛の種は至る所に転がっている。


 案の定、貴明は首を縦には振らなかったのだが、たまたま今日会う予定だった後援会の代表が体調を崩したとのことで、奇跡的に一時間ほど時間が空いた。

 誠司は恐る恐る、尋ねる。

「先生、空いたお時間に診療所に行かれてはどうでしょうか」

 即座に否定されると思っていたのだが、貴明は予想に反して

「そうだな。診療所にやってくれ」と言った。

 誠司はほっとして、車を診療所へと走らせた。

 診療所に着いたはいいものの、ちょうど休診時間で誰もいなかった。誠司が妻の従兄弟である真治に電話をかけると、真治は口をもごもごさせながら現れた。

「おじさん、お久しぶりです! 誠司くんも、久しぶり」

 にこやかな真治に「うん」とだけ返して貴明は診療所に入り、診察室の扉を開ける。

 誠司が目線で貴明の非礼を詫びると、真治は「おじさん、相変わらずだね」と苦笑いをした。そして奥へと姿を消した。

 誠司はどうしたものかと思ったが、診察室の中まで入るのは流石に躊躇われ、誰もいない待合室で待った。

 大して時間のたたないうちに診察室の中から、正明の声が聞こえた。

「少しは考えろ! 自分の体だぞ!」

 穏やかでないその叫び声に誠司が身構えていると、貴明が診察室から出てきて、誠司に何も告げないまま診療所から出て行ってしまった。慌てて後を追う。

 そういえばお会計をしていない、と車に乗ってから思ったが、鼻息を荒くする貴明が「出せ」と言ったので、後ほど連絡しようと思い、シートベルトを締めて発進した。

 また、誠司の仕事が増えた。



 桃香は、帰宅した誠司から話を聞くと、真治に電話をかけた。 

「あ。遅くにごめんね。うん。久しぶりー」

 電話越しの真治の声は緩やかで、あの父と血が繋がっているとは思えない優しいものだった。

「うん。ああ、そうなんだ。それって……」

 誠司は桃香の向かいで夕食を食べ始める。娘はとっくに寝てしまった。冷蔵庫に貼られた『パパ』と書かれた似顔絵を目を細めて眺めてから、誠司はうどんをすする。唐辛子を入れすぎたのか、少しむせていた。

「で、どうだって?」

 電話を切るなり盛大なため息をついた桃香に誠司が尋ねる。顔に疲れが滲んでいる。あの頑固な父と始終一緒にいるのだから、当然と言えた。

「なんか、大腸に出来てるポリープを早く切除した方がいいのと、膵臓に影があるんだって。でもそれは診療所で診るより、大きな病院で見てもらった方がいいから、予約もとるし紹介状も書くっておじさんが言ったんだって」

「うん」

 返事をしながら、誠司はまたこめかみを押さえている。本当に疲れているなあ、と思う。

「だけど余計なお世話だ、そんな暇ないって診察室出てきちゃったんだってさ」

「ああ、それでか」

 誠司は納得がいったようだった。

「自分の体だぞって、おじさん怒ってたよ」

 桃香は貴明の顔を思い浮かべてため息をついた。

「そうでしょ? まったく。人の言うこと全然聞かないんだから。でも、私からもちょっと説得してみようかな。明日、帰り早いの?」

 桃香が言うと誠司はスケジュール帳をめくり、

「ああ、明日は早いかな、七時半には空く予定」と答えた。

「じゃあ、明日、食事にでも行こうか。みんなで。おじさんたちも呼んで」

 誠司が頷いたのを見て、桃香は奈津子に電話をかけた。呼び出し音を聞きながらも誠司の顔色の悪さが気になった。物凄く疲れているのが見て取れた。少しでも何か力になれればと桃香は決意を新たにする。

「あ、お母さん?」

 頑固親父の懐柔を試みるべく、母への電話に意識を傾けた。



 真治は車を運転し、助手席の正明と共に、久々に貴明の家に向かっていた。真治にとってそこは「ばあちゃん家」である。祖父は真治が産まれる前に亡くなっているので、祖母しか知らない。そこまで頻繁に訪れた記憶はないが、それでもそれなりに近くに住む祖母に真治は可愛がってもらったものだ。

 しかしその祖母も数年前に他界し、今は貴明と奈津子がその広い家に二人きりで暮らしている。けれどいつ行ってもきちんと整備されたその庭木や、庭の池に漂う荘厳な雰囲気が、正直真治は苦手だった。息が詰まるような気がして、自然と背筋が伸びるのだ。

 庭に車を停めると、その広い邸宅に「お邪魔しまーす」と上がり込んだ。いつも大体玄関は鍵がかかっておらず、この日もそうだった。

「いらっしゃーい」と笑顔で迎えてくれたのは、桃香とその娘、真白ましろだった。真白は桃香の足に絡みついていたが、真治を見ると嬉しくなったようで駆け寄り、飛びついてきた。真治は真白を受け止めて抱き上げる。

「きゃはは」と真白は甲高い声で笑った。

 真治は横目で正明の様子を伺う。仏頂面をした正明は先ほどからほとんど口を開かない。この兄弟はいつもそうなのだ。自分の弟とほとんど会話をしない父に慣れている真治は、気にせず招かれた客間へと足を進めた。


「ご飯食べに行くくらいなら、うちでやった方が早いんじゃないかと思って」

 奈津子が口に手を当てて笑う。

 真治が誠司の横に腰を下ろすと、その隣に正明も腰を下ろした。

「あら、おじさん、こっちに座れば?」

 桃香が貴明の隣を指差すも、正明は「俺はこっちでいい」と言ったので、

 桃香と目配せをした。

 どうもうちの父親たちは頑固で困る。



 主に真治と奈津子、桃香と、時々誠司が会話をして、食事は進んだ。正明と貴明も、目も合わせず、無言で寿司を食べていた。

 なんという頑固さだろう、と桃香は呆れた。

 真治の膝の上で真白がぐずりだしたので、奈津子が手を引いて奥の寝室に連れて行った。

 ここからが本題だ、と桃香はごくりと喉を鳴らした。手のひらの汗を感じながら、「ねえ、お父さん」と切り出した。

 もう後には引けない。ごくりとのどを鳴らした。

 貴明はグラスを持つ手を止めたがこちらに視線を寄越したりはしない。

 そんな貴明に、桃香は言う。

「ねえ、ちゃんと検査してきてよ。心配だから」

 無言の貴明に、なおも言葉をぶつける。

「ちょっとくらい、自分の体のことで時間とったっていいでしょ、人間なんだし」

 貴明はさもうんざりしたというような口調で

「緊急性は低いんだから、優先順位の高いことからやる。俺は市民の税金で養ってもらってるんだ。まずは目の前の仕事をこなすべきだ」と言った。

 正明がようやく口を開く。

「緊急性が低いったって、ちゃんと検査をしてみないと分からないだろう。病気は早く見つけた方が絶対的にいい。それくらい、誰にだって分かる」

 桃香は口を挟めずに黙った。正明の顔が必死だったからだ。

「俺のこの前の言い方が悪かったなら、訂正するよ。だけど、俺はこれ以上身内の事で後悔したくない。頼むから紹介状を持って、病院に行ってくれ。お願いだ」

貴明がグラスを揺らして、氷の音をからん、とさせたそのとき、真治が誠司に「大丈夫?」と言った。

 桃香がそちらに顔を向けると、いつの間にか誠司は真治にもたれかかっていた。頭を手のひらで覆っている。

「誠司!」

 桃香がテーブルの向こうの誠司へと駆け寄る。

「ちょっと、診療所に連れて行きます! 父さん、足の方持って」

 真治が真剣な表情で言ったと思うと正明が頷き、すぐに二人がかりで誠司を連れて出て行った。

 貴明が手に持っていたグラスを倒した。その中身は、溶けた氷とともにテーブルの上に広がって、ポタリと畳に落ちた。


 貴明が桃香の車の助手席に座って、二人で診療所に向かった。幼い真白を見るため、奈津子は家に残った。

 車を運転する桃香の手は震えていて、呼吸も荒い。貴明は何も言わずとも娘の動揺を端々から感じ取っていた。

 信号待ちの時、ポツリと桃香が言った。

「そういえば、ずっと頭が痛そうだった」

 貴明も思い返す。確かに誠司はいつもこめかみに手を当てていた。

「ねえ、どうしよう。誠司が大きな病気だったら」

 信号が青に変わる。前を見たまま、桃香は話し続ける。

「どうしてもっと早く病院に行けって言ってあげなかったんだろう。どうしてもっと大丈夫、って聞いてあげなかったんだろう。誠司だって、おんなじ人間なのに、疲れてることを、当たり前だと思っちゃってた」

 貴明はなにも言わず、桃香の言葉を聞いた。

「男の人だからって、超人な訳ないのにね。男の人だからって、いくらでも体力ある訳ないのに。しかも誠司は義理の父親のところで働いてるのに、言い出しづらいに決まってるのに、どうして私、もっと気をつけてあげられなかったんだろう……」

 桃香の目から流れる涙が、信号の光を浴びて光った。

 貴明は耳と、胸が痛かった。


「偏頭痛、かなあ」

 診療所の真治は到着した桃香にタオルを差し出しながら言った。

「とりあえず今、検査してるから、ちょっとだけ待っててくれる? 意識はあるし、話も出来るんだけど、頭がものすごく痛いみたいだから」

 桃香は貴明と待合室の椅子に並んで座る。すすり泣く桃香の横で、貴明は相変わらず何も言わない。気休めも励ましも言わない貴明の拳が膝の上で震えているのを見て、桃香はさらに泣けた。

 しばらく経って、真治がペットボトルを持って桃香の前に現れた。

「あんまり泣くと、干からびちゃうよ」

 その手からペットボトルを受け取った桃香は、「誠司は?」と言った。

「うん。だいぶ落ち着いた。今日は入院してもらうけど、明日の様子次第では帰れると思う。話せるよ」

 手招きして病室の方へ向かう真治の後に、桃花も貴明も続いた。

 二人の姿を見るなり、誠司は起き上がろうとした。鋭く貴明が「寝てろ」と言うと、申し訳なさそうにもとの姿勢に戻った。

「申し訳ありません……」

 まず貴明に謝る姿に桃香の心が締め付けられた。

「いや、すまん。俺も悪い」

 それ以上のことを言わない貴明の横から、

「大丈夫?痛い?」と桃香が問いかける。

「痛い……。し、気持ち悪い」

 弱気な顔で誠司が言うと、貴明は立ち上がって

「ゆっくり休め」と病室を出て行った。

 桃香は「無理させちゃって、ごめんね」と謝った。言いながら、また泣けてきた。

「気づけなくって、ごめんね」



 誠司は大きな病院の駐車場の車の中で、待っていた。

「病院くらい、一人で行ける」と言う貴明に「いえ、お供します」とついてきたのだ。

 車内で書類に目を通していた誠司は、こめかみを押さえる。

 若い頃から偏頭痛持ちだったのだが、最近再発してしまったようだ。気を付けないとな、と思い、後部座席の鞄から薬を取り出して、飲む。

 あの日も、目がチカチカして兆候を感じているうちに、ヒートアップしてしまった話し合いの場から離れる事が出来なくなり、そのまま頭痛に耐えられなくなってしまった。

 診療所で嘔吐した誠司に、真治と正明はどこまでも優しく、

「大丈夫?いいよいいよ。こういうのも、医者の仕事だから」と言ってくれた。

 正明と貴明は顔はそっくりなのに、正明の方が明かに優しいよなあと誠司はいつも思う。

 助手席の窓をコンコンと鳴らす音で、貴明が戻ってきたことに気付いた。

「大丈夫か?」と乗り込んできた貴明に「大丈夫です」と返す。

「それより、どうでした?」と誠司が問いかけると

「膵臓は撮り直したら問題がなかったし、ポリープは一泊入院で取ることになった。その日のスケジュールだけ、あけておいてくれ」と返ってきた。

「全く、大したことはなかったな」

 貴明はふん、と呆れたように鼻を鳴らす。

「出しますね」

 車を発進させた誠司に、貴明は問う。

「今日は、本当に頭は痛くないのか?」

「はい。本当です」

「本当だな?」

 再度の問いかけに、誠司は「はい」と答える。

「痛かったら痛いと言ってくれ。この前は本当に肝が冷えた」

「すいませんでした」と誠司は答える。

「いや。身内を心配する気持ちは、誰にだってあるよな。俺は少し傲慢だった」

「そうですか?」

 誠司が尋ねると貴明は

「なんでもない。忘れてくれ」と言ったきり黙ってしまった。

 貴明の不器用な優しい沈黙の中、誠司は運転に集中するべく前を向いた。

 脳裏には桃香の口癖、「素直じゃないからね、うちのお父さんは」が浮かんでいた。

 全く、うちのお義父さんは素直じゃない。けれど、その頼もしい背中と姿勢は相変わらず男の誠司から見ても格好良い。これからもついて行きたい、と思った。

 誠司は横目で貴明を伺った。いつも通りの、頼れる義父の顔だった。

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