診察26【加藤清一】
「俺はもう駄目だ。長い事ない」が口癖の夫、
「やっぱり俺は死ぬんだ……。そんな気がしていたんだ……」と弱々しく呻く夫にマスクをさせ、車に乗せて、
「はい。お父さん。降りて」
「どこだここは? いよいよ俺の葬式か?」
「診療所。早く降りなさい」
ふらつく足取りを見てああ本当に具合が悪いのね、と思いながら待合室に清一を座らせて受付を済ませる。
「問診票をご記入いただいて、お熱を測って頂けますか?」
そう言って渡された体温計を清一に渡し、和子は問診票に記入する。昨日から……、体が痛い、熱がある……。
清一の脇に挟んだ体温計がピピッと鳴った。
『38.3度』
体温計と問診票を受付に持って行き、清一の横に座って診察を待つ。
それにしてもと和子は周りを見回した。患者の数が多くてうんざりした。いつもここは混んでいるのだ。清一は待合室のソファーにもたれかかり、本当に辛そうだ。早く診察してくれればいいのに、と思って少し苛立つ和子に、薫子さんが
「お辛そうですので、よければ横になってお待ちいただいても大丈夫ですよ」と和子に言った。
和子は即座に頷き、夫に肩を貸して処置室まで歩いた。夫の意外な軽さに驚いた。お互い、歳を取ったものだとしみじみ思う。
「検査結果出ました。インフルエンザですね」
真治が陽性反応を示した検査結果を指差して和子に説明した。
清一も聞こえるはずではあるのだが、ベッドでふうふう言っているその耳に、きちんと届いているかは怪しいものだった。
真治は清一をちらりと見て、和子に向き直って尋ねる。
「誰か周りに、インフルエンザの方、いらっしゃいます?」
和子は首を横に振った。
「加藤さーん、ご飯、食べられそうですかー?」
真治の声に清一は「うう」と反応した。
「無理だ。俺はもう死ぬんだろ……。正直に言ってくれ……」
息も絶え絶え、といった様子だ。
「ええっと、入院にしますか?ご飯も食べられないようですし、和子さんに伝染ってもいけないですし、もちろん強制ではないですが、高齢の方の場合は命に関わる事もありますので……」
真治が言い終わると、和子は「はい、入院にして下さい」と即答した。
真治はカルテを持ち、院長室の扉をノックする。全く反応がない。
またかと呆れながら扉を開けると、正明がデスクの椅子に深く座り込み、口を全開にして上向きに寝ている姿が視界に入った。
真治は後ろ手で扉を閉めてから、
「父さん!」と大きな声で呼び、正明のそばによって体を揺すった。
正明は「ふがっ」という声とも音ともつかないような間抜けな音を立てて目を開けた。
「あ、なんだ真治か……」
安心した顔でもう一度眠りにつこうとする正明の肩を慌てて揺らし、
「父さん! 患者さん入院になったから起きて!」と必死に起こす。
その言葉に反応してぱっと目を開けた正明のデスクにカルテを置き、
「加藤清一さん。インフルエンザなんだけど、高齢で高熱だから入院で。御家族もそうして下さいって。一応、処置室から病室のベッドに移ってもらったから。奥さんが午後荷物を持ってもう一回来る事になってます。よろしくお願いしますよ院長」
真治は一方的にまくしたてて院長室の扉の方まで歩く。
そこで振り返って、老眼鏡でカルテを見始めた正明に
「それから、ここを出るときはそのよだれの跡、ちゃんとふいてね」と言い残して院長室から出て行った。
正明は慌てて口元を袖で拭った。
和子が夕方診療所に訪れた時、清一は目を閉じて眠っていた。点滴に繋がれて、白いベッドに横になっている。和子は静かに傍の椅子に腰を下ろし、清一の顔を見た。
口を開けば、ああでもないこうでもないといつもうるさい夫だから、静かな姿を見ると和子は少し不安になる。
深くシワの刻まれた顔。袖口から覗く、カサカサの手と細くなってしまった首。
もしもこのまま目を開けなかったらどうしようと思った所で、清一はゆっくりと目を開けた。
「和子か……」
寝ぼけているような緩やかな喋り方。
「どう? 少しは良くなった?」
和子の問いにも反応は鈍い。
「よく、分からん……」
噛み締めるようにつぶやいた後、和子に尋ねた。
「なあ、俺は本当は重い病気で、もう死ぬんだろう?」
また、いつもの悪い癖が始まったと和子は思った。
「そしたらよう、仏壇の引き出しを開けてみてくれよ」
いつものこととはわかっていながらも、点滴に繋がれた姿で、病室でそんなことを言うのは、いくらなんでも不謹慎すぎると和子は思った。冗談では、済まされない。
「そんなに死にたいなら、ご勝手にどうぞ!」
和子は目に涙を溜めて立ち上がった。病室を出ていく所で、正明とすれ違い、会釈をして、急ぎ足で診療所を出る。
「加藤さん、またなんか余計な事言ったんでしょう」
正明は呆れ顔で清一の元に近づく。
清一はじっとドアの方を見つめたままだった。
和子の苛立ちは家に帰ってきてからも、収まることがなかった。
骨折をしても死を疑い、風邪をひいても死を疑い、インフルエンザでも死を疑う。清一は死にたがっているようにしか思えない。
お調子者の発言として、今まで聞き流してきたけれど、もうそろそろお互いにいつお迎えが来てもおかしくない。そんな歳になってからも言い続ける冗談は、聞いているほうはちっとも面白くない。
どんな心境でそんな事を言うのだろう。何が面白いのだろう。夫の考えている事は全然分からない。怒りと言うよりむなしさと、やるせなさが和子を支配する。長年連れ添った妻に、その言葉を聞いてどうして欲しいと言うのだろう。
涙が乾く頃、ふと清一の言葉を思い出して仏壇の引き出しを開けてみた。そこには、お互いもう指が痩せてしまって普段は外している結婚指輪が二つ並んで入ったケースと、ポチ袋が綺麗に並んでしまわれていた。
和子はそのポチ袋を手にする。七福神やら招き猫やらが書かれたデザインは、お年玉用のものだ。もう結構な年代物のそのポチ袋の中に、二つ折りの紙が入っていた。
その紙を、一つ深呼吸をしてから開く。
『俺より先に、死んではいけない。
俺はお前が死ぬのは耐えられない。
俺の前ではいつも笑顔でいろ。
俺はお前の泣き顔が苦手だ。
俺が死んでも、俺の妻でいてくれ。
俺はお前と一緒にいられて幸せだった』
読み終わって、和子は思った。なんでこの演出で、このポチ袋なのよ。赤地に金の散りばめられたその袋をもう一度しげしげと見た。そしてため息をついた。
なんで死ぬ前にこれ、見せちゃってんのよ。
夫の一世一代のサプライズの失敗に、和子は吹き出してしまった。だけどそうしながらも、止まったはずの涙がまた、流れるのを感じていた。
まったく、うちの旦那は、あたしがいないと駄目なんだから。
正明が朝の診察に病室を訪れると、清一は何故か窓を開けて朝日を浴びていた。キメ顔をして、あごに人差し指と親指を添わせ、椅子に片足をかけている。
「おはようございます。加藤さん、調子はどうですか?」
「先生、俺は今朝日の眩しさに感動してるんだ。一枚写真に収めてくれねえか?」
「生憎今、カメラ持ってないから。でも、それだけ喋れれば大分元気ですね」
清一はふてくされた顔でベッドに戻り、正明から体温計を受け取った。
「先生、教えてくれって。俺は悪い病気なんだろ?」
ピピッと鳴った体温計を確認する。
『37.8度』
正明は少し呆れた口調で清一を諭す。
「加藤さん、熱下がりきってないんで大人しく寝ててもらえますか」
「やっぱり俺は、長くないんだな?」
「いえ。加藤さんは本当にただのインフルエンザです」
正明は清一の指になにかを挟んだり、血圧を測ったりしている。そうしながら、清一をたしなめる。
「またそんなことばかり言ってると、奥さんに怒られますよ」
「あいつは俺がなにを言ったって怒るんだ。だけどね先生、俺、あいつがあっと驚く仕掛けを用意してあんだ」
ベッドから身を乗り出して、嬉しそうに言う清一の言葉を、正明は眉間にしわを寄せて反芻した。
「……驚く仕掛け?」
「あらそれは、仏壇の引き出しのことかしら」
病室の扉から、和子がポチ袋をひらひらさせながら現れた。
「お前、なんでそれを……!」
清一が驚き、言葉を失う。
和子はそれを完全に無視して「おはようございます」と正明に頭を下げると、ベッドの脇の椅子に座った。
「見て先生! こんな渾身の仕掛けを死ぬ前に見られて、恥ずかしいったらないですよねえ」
ポチ袋の中身を遠慮なく正明に見せる和子。
それを止めようと、手をばたつかせる清一。
中身を見て、二人の姿を交互に見比べて、正明は吹き出した。
「あんたあんなめでたい袋になに入れてんのよ! もう少し考えなさいよ!」
「く、苦しい……! 熱が上がってきた気がする……」
「死ぬ前に見たこっちの気持ちも考えなさいよ!」
「なんで黙って見ちゃうんだよ!」
「あんたが言ったんでしょ!」
「死んだら見ろって言ったんだ!」
「あんたは殺しても死なないんだから、一生見られない所だったわよ! こんな面白いもの!」
「くっそー」
ヒートアップする二人に、
「あの、一応待合室に患者さんいるからもう少し静かに……」と正明が注意する。
「お前の座ってる椅子、犬のおしっこかかってんぞ!」
「犬なんかいないでしょうが! 子供みたいな事言うのやめなさい!」
「犬はいるよ。ここの診療所に」
「うちのハナコは、そんな事しません!」
診療時間前の静かな廊下に響き渡る声に、真治は苦笑した。そして受付まで歩き、薫子さんと
「元気になったみたいで、良かったですね」
「本当ですね」と話した。
「加藤さんは本当に、夫婦仲がいい」
真治は呟いて、今日の患者さんを迎えるべく、診察室へ入って行った。
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