診察25【山口愛菜】

「はい。夜、眠れないんです」

 げっそりと青い顔で山口愛菜やまぐちあいなは真治に訴えた。

「ええ、でも……」

 真治は愛菜のお腹のあたりをちらりと見て言った。

「山口さん、妊娠されてますよね」

「ええ……」

 愛菜は頷く。

「そちらの病院では、なんと?」

「……もう少し様子を見ましょう、って言われました」

 そう言って愛菜は真治の顔を上目遣いで見た。その目の下は、確かにくろっぽくくすんでいる。

「そうですか。それなら、僕が軽はずみにどうこうとは言えませんねえ」

 真治は眉毛をハの字にして、愛菜に首を振って見せた。愛菜は真治に縋り付き、必死で訴えた。

「お願いします! 本当に眠れないんですよ! 一晩中眠れない苦しさ、分かりますか? 全然時間も進まなくて、このままずっと夜なんじゃないかって思うんです」

 真治は困った顔のまま、口を開く。

「それでも、僕にはなにも出来ません。次の検診は、しばらく後なんですか?」

「いえ……。明日です」

 愛菜は俯いて下唇を噛み、真治の言葉を聞いた。

「それなら明日、もう一度言ってみた方がいいです。お辛いとは思いますが、今は山口さん一人の体ではありません。お子さんのことと出産を見据えたお話をした方がいいと思います」

 愛菜はため息をつきながら診療所を後にした。

「お帰りなさい。どうだった?」

 義理の母の聖子しょうこが帰宅した愛菜の顔を見るなり、心配そうに尋ねた。夫の実家に同居する愛菜はこの義母に、ずいぶんと優しくしてもらっている。

「明日産婦人科で話すまで待った方がいいって」

 リビングのソファーに腰掛けながら、愛菜は言った。またしてもため息がもれる。

「そう……。愛菜ちゃん、辛いのにねえ……」

 聖子は心底悲しそうに呟いた。

「ココアでも飲む?」

「あ、はい……」

 立ち上がろうとする愛菜を、聖子が制した。

「いいから座ってて! 寒かったでしょう? 暖かいの、入れてくるからね」

 そう言って聖子はキッチンへと姿を消した。愛菜はこの義母の優しさに裏があるのではないかと未だに疑ってしまう。妊娠を機に長男である夫の家に同居を始めてから、ずっとこの調子だ。

「男二人の兄弟だから、娘が欲しかったの」と言って初対面の愛菜の手を躊躇いもなく握った義母のキラキラした目を思い出す。愛菜は自分は決してそんな目は出来ないだろうなと思った。

「はい。ココア」

 義母が持ってきてくれたココアを、温かいリビングで一緒に飲む。テレビではいつかのドラマの再放送が流れていて、テーブルの上にはお茶請けの焼き菓子が籠に盛られて置かれている。愛菜の手の中には暖かいココアが湯気を立てている。テレビ台の横には義母が作った手作りのパッチワークキルトが飾られていて、家族写真も至る所に飾ってある。そこには幸せそうな家族が四人、綺麗に収まっている。

 愛菜の手にはきっと入らないであろうと思っていたものがすべて揃うこの幸せの空間に過ごしながら、愛菜はずっと居心地が悪い。自分が欲しくて欲しくて仕方がなかったありふれた幸せが、愛菜を苦しめる。

 暗闇から足を引きずられるときが、いつかくる。そう思うとこの束の間の幸せは、愛菜を余計苦しめるのだ。



 颯太そうたは妻の愛菜が不眠で悩んでいることを、職場の休憩時間に相談していた。

「そうなんですよ。眠れないらしくて。結構精神的にも不安定なんですよ」

 颯太はガス会社の営業だ。以前の社員が異動になって、新たにこちらの営業所に配属されたのを機に、愛菜を連れて地元に戻ってきた。

「それって、マタニティブルーじゃない?」

 事務の佐藤まゆみが、お弁当を頬張りながら言う。

「ホルモンバランスが崩れて、女性は精神的に不安定になるのよ。まあ、お腹の中に命を抱えてるから、いろんなところに不具合は出るわよね」

「そうですか」

 小学生の娘がいるまゆみが言うと、説得力がある。

「そうそう。妊婦さんはものすごーく眠い時期と、寝たいけど寝られない時期があるの。それもホルモンバランスのせいなんだけどね。本当、辛いわよー。あれは男性も経験すべきよね。山口くんが一週間でも変わってあげられたら、奥さん見違えるほど元気になると思うわぁ」

 ちょっと斜め上を見てふざけて言うまゆみの口調が可笑しくて、颯太は笑った。

「だけどまあ、夫にしてあげられることはね、ちゃんと奥さんを大事にしてあげること。それだけよ。どんなに面倒だって、自分の分身産んでくれるんだから、大変さを少しでも共有してあげないとねー。でないと、離婚されちゃうぞ」

 離婚という物騒な単語に颯太はちょっとどきっとした。

「さて、歯、磨いてこよーっと」

 まゆみが立ち上がったのをぼんやりと見送った。そして、颯太は気合を入れた。

 よし。ケーキを買って帰ろう。頭の中には、愛菜の喜ぶ顔が浮かんでいた。



『私がまともな親になんかなれる訳ないよ』

 深夜一時。宮下麗華みやしたれいかの元に届いた親友、愛菜からのメッセージにはそう書いてあった。

「あいつは本当にもう……」呟きながら、『そんな事ないでしょ。しっかりしなさい』と打ち込んで返す。

 愛菜と麗華は小学校からの親友だ。

 愛菜は母子家庭で、母親に虐待されて育った。麗華も当時、愛菜の洋服の袖から隠しきれない傷をいくつも見た。

 小学五年生のとき、頼まれてもいないのに、麗華は愛菜の母に「愛菜を虐めるのはやめて下さい」と言いに行って、平手打ちされたことがある。愛菜はそのせいで余計怒られて、翌日には顔を腫らして登校してきた。けれど「麗華のその気持ちが嬉しい」と言って泣いた愛菜を見て、愛菜を守るのは自分しかいないと思った。一緒に腫れた頬に痛みを覚えながら、涙を流して笑ったあの日の心の痛みは、今でも忘れることはない。

 夜のお店を営んでいた愛菜の母は、愛菜が中学校に上がった頃ふらっといなくなってしまった。お店には支払いが滞っていたであろうと察せられる貼り紙がいくつも貼られ、中学生の麗華も、説明されなくても事情は察した。

 あの時愛菜は

「私とお母さんの繋がりなんて、こんなものだったんだね」と虚空を見つめて言った。

 後から聞いた話だが、愛菜はそのお母さんにお店のお客さんの性的な相手をさせられることもあったと言う。

 麗華は愛菜の母が大嫌いだ。だけど愛菜は大好きだ。

 だから、愛菜が優しい旦那さんと結婚出来て安心した。後は愛菜の望む通り子供を産んで、普通の人生を、普通に歩んで欲しい。とにかく幸せになって欲しい。そう願っているのに。

『自信ない』と帰ってきた愛菜からのメッセージを見て、麗華はすぐさま電話を掛けた。

「愛菜?すぐ会える? うん。迎えに行くわ。一時間くらいかかるけど、待ってて」



 愛菜はこちらへ向かってくる車のヘッドライトが見えたとき、少し涙が出た。

「お待たせ」

 そう言って笑う麗華の笑顔に安心して、助手席に乗り込んだ。

「で、どうした? 弱気になって」

 麗華はよくライブをしながら、愛菜の相談に乗ってくれる。誰にも聞かれたくない話が多いと、分かっているからだ。

「私やっぱり母親になれないよ。そう考えてたら眠れなくて」

「うん」

 愛菜は麗華の顔を見たら、本音が止まらなくなる。麗華もそれが分かっているから、遮ることなくまずは愛菜の話を聞いてくれる。

「だって私優しくしてあげられないもん。あの血が流れてるんだから、同じことをするに決まってる。今はまだお腹の中にいるから分からないけど、出てきたってすぐに殺せちゃうくらい小さいんだよ。私が少し間違えば死んじゃうくらい」

「うん」

「優しく仕方、分からないもん! 颯太のお義母さんみたいに、優しく出来ないもん! そうなったら颯太にも捨てられちゃう! だって颯太には、そのこと、言ってないもん」

 自分が虐待を受けていたことを、夫に話すのが正解なのか、そうでないのか。愛菜には分からない。だから颯太に黙っている愛菜の意思を、麗華は尊重してくれている。

「颯太の家は普通の家だよ! だからきっと私の過去がバレたら、嫌がられるに決まってる! 施設で暮らしてたってだけでも、親戚に馬鹿にされてるのに……」

「うん」

 結婚式は挙げなかった。愛菜には身寄りがいないからと言って断ったのだが、颯太の親戚一同とは、食事会と言う名目で顔合わせをした。意地悪な顔をしたおばさんが「施設暮らしですって。わざわざそんな嫁さんをもらうなんて、颯太はとんだお人好しだわ」と愛菜に聞こえるように言った記憶が、愛菜の胸をきゅうっと締め付けた。

「ねえもしも、今になってお母さんが出てきたらどうしよう。お金貸してとか、言われたらどうしよう。私の人生全部おしまいだよ。今の人生は、幸せすぎるよ。幸せすぎて、私の人生じゃないみたい。今日だってね、颯太、ケーキ買ってきてくれたんだよ。だけどそれを見て、いらいらして……。こんなもの一つで私の悩みを解決出来る訳ないじゃん、って思って。いらない! って言ったの。颯太、すごい悲しい顔してた。でも、私、自分の感情がわからないの! コントロール出来ないの! 颯太に優しくされると、誰かに優しくされると、すごく苦しいの」

「……」

「私なんて、死んだ方がいいよね?」

 麗華は、それから少し走って展望スポットの駐車場に車を停めた。そして隣で号泣する愛菜の頭をポンポンと撫でた。

「愛菜、ごめん。私は、愛菜の力になってあげられなくて……。私、馬鹿だからさあ。どうしたらいいか、ちゃんと答えてあげられないよ」

 愛菜はタオルに顔を埋めたまま、麗華の言葉を聞いた。涙が止まらない。

「だけど愛菜、私は愛菜に死んで欲しくないよぉ……」

 麗華の目からも大粒の涙が溢れる。

「私は愛菜がちゃんとしたお母さんになれなくても、それでも愛菜に死んで欲しくない。きっと上手くいくなんて気休めは言えない。颯太だって、愛菜の本当の過去、ちゃんと受け止め切れるよなんて無責任なことも、私言えない。だけど、だけど……」

 麗華は一度、ティッシュで鼻をかんで言った。

「私は死ぬまで愛菜の友達でいたい。だから先に死なないで。愛菜が幸せになってくれること、本当に願ってるから」


 ひとしきり泣き終えて、帰ってきたのは朝の五時。

 愛菜は家の前に下ろしてくれた麗華にお礼を言って、麗華の車を見送った。

 そして、家には入らずそのままふらふらと歩いた。どうしても、家に入りたくなかった。麗華の気持ちは嬉しいけど、愛菜の悩みは何も解決していない。

 何も考えずにぼんやりと歩き、家からとにかく遠ざかろうと足を進める。

 しばらく経って、歩き疲れて道路にしゃがみ込んだ。

 こんなことしてても、どうにもならないって、分かってるけど……。

 顔を上げると公園が見えた。ふらりと立ち上がってそちらに向かう。

 確かこの公園には。

 高地にあるこの公園は、展望台と称して下の景色を見渡せるスポットがあった。観光客向けらしいが、観光客など訪れた試しがないので、残念ながら誰も利用していない。

 展望スポットにたどり着き、愛菜は柵に手をかけて、下を見た。

 ……この柵を越えれば。

 傾斜が急なので、その肌に生い茂る木々しか見えない。胸のあたりの柵を掴む手に、ぎゅっと力を込めた。登れない高さではない。超えられない高さではない。

 ……この柵を越えれば。

 楽になれる。

 やっぱり私なんて、いない方が正解なんだ。不幸を嘆いて生きているくせに、幸せだと居心地が悪い。この世界に私の居場所なんてない。

 颯太だって、愛菜がいなくなれば新しい幸せを見つけるに違いない。麗華だって、良い奴だから愛菜以外の友達もいっぱいいる。

 お腹をさすった。

 この子も、私の元に生まれてくるよりは、生まれてこない方が幸せかも。

 そう思い、柵に上ろうと足を掛けた。そのとき。

「山口さん! 何してるんですか!」

 急に聞こえた声にびくっと体が跳ねる。振り返るとそこにはハナコを連れた真治が険しい顔で立っていた。

「あの……、私……」

 言葉が出てこず、愛菜はそう言った。自分の呼吸が荒くなっていることに気付く。

「早くそこから離れて下さい! 危ないですよ!」

 思いの外強い口調で言われたので、愛菜はムッとした。

「いいじゃないですか! 私なんて死んだ方がいいんです! ほっといて下さい!」

 叫びながら、愛菜は涙を流した。

「そんな訳ない! 死んだ方がいいなんてこと、あるはずない!」

 真治は強い口調で言い切った。それから深呼吸を一つして、にっこりと笑顔を作り、

「ちょっと、僕とお話ししましょう」と優しい口調で言った。

「何が辛いんですか? 何が山口さんをそこまで追い詰めたんですか? ゆっくりでいいので、聞かせてください」

 その口調は、とがった愛菜の心に、すっと入ってきた。

 この人になら、言ってもいいかと思った。所詮他人だし、家族には言えないことを言っても、問題はないかもと思った。

「私、過去に虐待を受けていて。母からも、その彼氏やそうでもない男の人からも。暴力も、性的な暴行も、もちろん言葉の暴力も浴びて育ってきました。だからきっと子供にも、そうしてしまう! 生まれてきたこの子に、そんな思いをさせるくらいなら、私が死ねばいいと思うんです。毎晩、そう思うんです……」

 息が苦しくなって、一度愛菜は言葉を切った。

「ねえ先生、私が死んでこの子だけ生まれる手段って、ないんですかね」

 声が震えた。

 そんな愛菜から、真治は目を逸らさない。

「そんな手段、ありません。山口さん、あなたは、きっと優しいお母さんになりますよ」

 穏やかに笑った真治を見て、愛菜は憤った。私の気持ちなどやはり分かってもらえる訳がなかったと、他人に自分の過去の傷を打ち明けたことを悔いた。

「何を根拠にそんな無責任なこと、言うんですか!」

 愛菜の叫びを聞いても、真治はその笑みを崩さなかった。

「だって、生まれてくる前からそんなに心配してるじゃないですか。いい親になりたいのは、誰のためですか? お腹の、その子のためでしょう? その子が幸せになって欲しくて、山口さんは毎晩眠れないほど真剣に悩んでいる。もう充分母親じゃないですか」

「え……?」

「あなたは痛みを知っているじゃないですか。母親からどうされたくないか、知っている。その身をもって知っていますよね。だからこそ、どうされたいかも知っているでしょう。あなたがされたかったこと、して欲しかったことを、その子にしてあげればいいんですよ。血が繋がっていても、あなたとお母さんは別の人間だ。同じようになると、決めつけては駄目です」

 真治の言葉が、じわりと愛菜の心にしみこんでくる。愛菜は言葉を上手く返すことが出来ず、

「あ、ああ……」と呻き、柵を背にして、ずるずると座り込んだ。

「あなたがあなたを認めてあげないことには、前に進めませんよ。あなたとお母さんは同じ人生を歩んでいますか? そうじゃないでしょう?」

 遠くから声が聞こえてきた。

「あいな! あいなー!」

 その声には、聞き覚えがあった。

「ほら、旦那さんじゃないですか? あなたを心配して探してくれる、家族がいます。まだ死ぬのは、早いんじゃないですか?」



心愛ここあちゃーん! ああ! 笑ったわ! 颯太! ちゃんと写真撮った?」

「撮ったよ。心愛、可愛いなあ」

 嬉しそうな聖子に、デレデレの颯太。

 愛菜の分身は、この世に生を受けて、毎日少しずつ大きくなっている。

「あ! 見て! あぶあぶしてる! なんか言ってるわよ!」

「動画! 動画! あれ、どうやって撮るんだっけ?」

 そんな二人を見て、愛菜は微笑んだ。今日は心愛を見に、麗華がやって来る予定になっている。愛菜は早く自慢の我が子を見せびらかしたくて仕方がない。

 病院でも一番可愛かった我が娘は、誰に見せても「可愛い!」と叫ばれる。親馬鹿ではなく、本当に可愛いのだと愛菜は自信を持って言い切れる。

「にゃー、んにゃー」と泣きだした心愛に、

「あ! お腹空いてるみたいよ愛菜ちゃん!」ようやく義母が愛菜を呼んだ。

 愛菜の体から出てきたとは言え、愛菜がいないとまだ生きていけない我が子をそっと抱き上げた。一生懸命おっぱいを飲む姿を見て、愛菜は愛おしいと言う気持ちを知った。

 生まれてきてくれて、ありがとう心愛。

 私はあなたを生涯、心から、愛します。

 お腹がいっぱいになってプイっと顔を背けた我が子の頬をぷにぷにとつついた。暖かくて、柔らかい。

 心愛が愛菜の人差し指を握った。

 この手を、絶対に離さないよ。心愛。心の中でそう言って、愛菜は心愛をぎゅっと抱きしめた。

 心愛は「きゃっきゃっ」とくすぐったそうに笑った。


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