薫子さんの休日
櫻子が実家の庭に車を停め、運転席のドアを開けると、ふんわりと甘い匂いが鼻先をくすぐった。
渋い外観の和風家屋の実家から漂う洋菓子の匂い。桜子はそのシュールさにくすりと笑い、運転席のドアを閉めた。
お姉ちゃん、クッキー焼いてるのかな、と思うと明るい気持ちになり、口元は思わず綻ぶ。いつも通り勝手口の扉を開けて家の中に入ると、焼き菓子の匂いは一層濃度を増して櫻子の食欲を刺激する。
洗面台で手を洗って台所に出ると、エプロンを付けた薫子の姿があった。後ろから覆いかぶさるように抱き付く。
「お姉ちゃん、焼けたら頂戴」
薫子は動じることなく、
「あ。櫻子ちゃん。良いわよー」と首だけを櫻子に向けて微笑んだ。
その手元のボウルには、焦げ茶色のクリームが入っている。
「あれ? クッキーじゃないの?」
櫻子が体を離しながら尋ねると薫子はうふふと笑い、
「今日はクッキーだけじゃないんですぅ」と言った。
「まあ、楽しみに待ってなさい」
得意げに言った薫子に頷き、櫻子は薫子の後ろを抜けて居間へと進む。居間にいる母に軽い挨拶をして荷物を下ろし、奥の部屋の仏壇の前に正座をしてお線香をあげる。
もう一度居間に戻るとコートを丸めてバッグの上に置き、こたつに足を入れた。そうしながらテレビを眺める母に尋ねる。
「お父さんは?」
母は緑茶をすすりながら「散歩」と短く答えた後、
「お父さん、お菓子の匂い嫌いだから」と付け足した。
そういえば、父は甘いものが苦手だった。櫻子が実家を出る前、何度か焼き菓子を作ってみたときも、渋い顔をしたことを思い出す。
「ふうん」
なんとなく、台所の方に視線をやると、薫子の鼻歌が聞こえてきた。きっとおいしいものが出来るに違いないと期待を膨らませた。
櫻子はだらだらと最近の近況などを母と話す。テレビを見ながらだから、タレントを見ながら誰それが浮気したとか不倫したとか、そんな話にちょくちょく飛ぶ。二人ともそれを気にすることなく、緩い時間を過ごした。
途中、「最近お父さんの耳がますます遠くなって、声も大きいもんだからうるさくて仕方ないのよ」とこぼす母に櫻子は苦笑した。そんなの、お母さんだって一緒じゃん。大音量のテレビをちらりと見て、思いは心の内にしまっておくことにした。
「櫻子ちゃーん、ちょっと手伝ってー」
「はいはい」
台所から呼ぶ薫子の声に返事をしながら立ち上がる。
「なにすれば良いの?」
櫻子が手を洗いながら尋ねると、薫子は
「ん?味見と言って悪戯っぽく微笑んだ。その顔を見て、櫻子は察した。
「お母さんの愚痴が止まらなくなる前に助けてくれたんでしょ」
先ほどより小さな声で薫子に尋ねると、
「さあねー」と顔を上に向けた。
「ふふっ」思わず櫻子が笑うと、「うふふふ」と薫子も笑った。悪戯を企む子供時代を思い出した。
「さて、出来た!」
勢いよく宣言した薫子の手元を覗き込むと、ブッシュドノエルが出来上がっていた。その上には、クッキーにアイシングで色付けされたサンタさんとトナカイとクリスマスツリーが飾られていた。
「もうすぐクリスマスだから、練習してみたの」
はにかむ薫子の顔と完成したブッシュドノエルに交互に視線を送り、櫻子は突っ込んだ。
「いやもうこれは売り物! 手作りのレベルを超えてるよ! ちょっと写真撮って良い?」
櫻子がポケットからスマホを取り出してカメラを起動すると、
「あ。じゃあ撮ったの送ってー」とのんきな声で薫子が言った。
「お姉ちゃん、自分で撮れば良いじゃん」
「お姉ちゃん、自分で上手に撮れないもん」
これだけ器用なのに、確かに写真のセンスはないのよね。そう思って櫻子はブッシュドノエルのベストショットを生み出すべく、撮影に集中した。このケーキの完成度の高さを記録に残せるのは私だけだと何故か使命感を感じたのだ。
「櫻子ちゃん、ご飯食べていけば?」と薫子に誘われた。
櫻子の二人の子供達は今日はそれぞれ予定があり、ご飯はいらないと言っていたし、夫からも飲んで帰ると聞いていた。一人だし、本当は何か買って帰ろうと思っていたのだが、たまには実家での夕飯も悪くない。櫻子はお言葉に甘えることにした。
昔からずっと使われている年季の入ったテーブルの上に、和食がずらりと並ぶ。白飯と味噌汁と魚の煮付け。小皿にはきゅうりの糠漬けがちょこんと乗っている。これがさっきの洋菓子と同じ台所で作られたんだもんなあと櫻子は思わず笑ってしまった。
「あ。お父さん、お味噌汁おかわりする?」
薫子がそう尋ねると、父は頷いてお碗を差し出した。薫子はいつもそうして、人のことをちゃんと見ている。
思えばこの居間で、父と薫子はよく喧嘩をしていたなあと櫻子は思い出す櫻子が見てしまったあの修羅場も、この部屋で繰り広げられたものだ。このふすまの隙間から見てしまったあのとき、姉も泣いていたし母も泣いていて、父は怒り狂っていた。のぞいてしまった櫻子のドキドキは、布団に戻ってもしばらくはおさまらなかったものだ。
だけど、おんなじ部屋で、今はこうして当たり前みたいにご飯、食べてるんだもんなあ。櫻子は感慨深いもの思いにふけりながらご飯粒一粒も残さず、完食した。
「ごちそうさまでした」
四人そろって手を合わせ、食器を下げたタイミングで、
「はあい!デザートのケーキでーす!」と薫子が冷蔵庫からブッシュドノエルを持ち出した。テーブルの上にのせられたブッシュドノエルを嬉しそうに切り分ける薫子を、父はしかめっ面で見ている。
「お父さんも食べる?」
薫子がにこやかに尋ねると、「いらん」と父は即答した。
「そんなこと言わないで! ちょっとだけ!」
薫子はかなり薄めに切り分けたブッシュドノエルに、ちょこんとサンタクッキーを添えた皿を父の前に差し出した。
父はフォークを手にしてそれを少しずつ口に運ぶ。
「食べるんじゃん」と櫻子が突っ込むと、
「女が出したもんをきちんと食べてやるのが男の流儀ってもんだ」と不貞腐れた顔で答えた。
「あたしの料理は幾度となく残しましたけどね」
母の文句が聞こえなかったのか、聞こえないふりをしたのかは分からない。
「お父さん、本気で無理だったらいいからね」
薫子の声に返事はせずに、父はサンタクッキーを一口でばりばりと噛み砕く。
昔からずっと変わらない柱時計が、ぼーんぼーんと時間を告げた。
結局父の皿は綺麗になり、「次は煎餅にしろ」と言い残して寝室へ行ってしまった。その言葉に薫子と櫻子は二人で顔を見合わせる。
「クリスマスにお煎餅って、渋すぎない?」
「トナカイの絵、書いてあげれば?」
「赤い鼻は唐辛子で?」
二人でくすくすと笑う。
やっぱりお姉ちゃんがいてくれて、良かったなあとしみじみ思う。なんのかんの言って父も母も幸せそうだ。
櫻子は暖かい気持ちで、薫子のケーキを頬張る。この美味しさはやっぱり格別だな、と思いながら、母に「美味しいね!」と言った。母は頷きながら、クリスマスツリーのクッキーを口いっぱいに頬張っていた。
櫻子はトナカイのクッキーを一口かじった。幸せの味がした。
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