診察23【片瀬大地】

 目を開けると、白い天井が見えた。視線だけを左右にさまよわせると、雪だるまとサンタを模した折り紙が壁に貼ってあった。サンタの帽子の赤色が、大地だいちの思考をゆっくり覚醒させる。

 あれ? 俺……。考えようとして、うまく頭が働かなかった。

 体を起こそうとして、ずきん、と強い頭痛に阻まれた。体がものすごく重い。腕を持ち上げようとして、点滴に繋がれていることに気付き、あ、もしかして、と思った。

 もしかして俺は、倒れたのかもしれない。鼻を刺すようなこの臭いは、病院特有のもののような気がする。

 瞼が重くて目を閉じた。しばらくすると、静かだったその部屋の扉が開き、

「片瀬さん、調子はどうですか?」と声がした。

目を開けて、顔をそちらに向ける。

「ここは診療所で、私は院長の小野島正明です。お話、出来そうですか?」

 ゆっくりと頷く。

「……あ」

 言葉を発しようとして口がカラカラに乾いていることに気付く。正明が、水のペットボトルの蓋を開けて手渡した。軽く頭を下げてそれを受け取り、水を口に含む。

 それから大地は横になったまま、正明に尋ねた。

「あの、僕はどうしてここにいるんでしょうか」

片瀬かたせさん、お仕事中に気を失ってしまったようですよ。随分お忙しかったと、付き添いの同僚の方から聞きました」

 大地はガバッと体を起こし、自分にかかっていたかけ布団を剥がす。

「そうだ!太陽たいようが! い、今何時ですか?」

 一瞬遅れてまたしてもずきん、と強い頭痛に見舞われ、動きを止めた。その大地の肩に正明が両手を置いて、立ち上がらないように強い力で押さえた。

「落ち着いてください。まだ三時前です」

「そうですか……」

 大地はほっとして、ふうと息を吐いた。その様子を見て、正明は大地の肩から手を離した。

「片瀬さん、あまりにも体力的に衰弱してらっしゃるので、今日は入院して頂きます」

「困ります!」

 大地は正明が言い終わる前に言い、またしても痛んだ頭を押さえて、困った顔で事情を説明した。

「うち、父子家庭なんです。妻に先立たれていまして……」

「ええ」

「ですから、息子を一人にする訳にいかないんです。小学校一年生なんですよ」

 大地の話を聞き終えて、正明は諭すような口調で言った。

「ですが、医者として今の状態の片瀬さんを帰す訳にはいきません。ここまで我慢してきてしまう人ですから、尚更です。いいですか? 人間の体には限界というものがあります。今まで片瀬さんが気付かないふりをしてきた兆候が、沢山あったはずです」

 話を聞きながら、大地は下唇を噛む。

「息子さんがいるならなおのこと、あなたは御自身の体をもっと大切にしなければなりません」

 正明の正論に返す言葉もなく、大地は俯いた。白いシーツのベッドが、自分が病人だと言う現実を嫌でも突きつける。


 大地は少し経って、頭痛が収まってから母の絹代きぬよに電話をした。絹代は息子からの久々の電話に最初から戸惑っていて、第一声は

「どうしたの!」だった。

「入院?」

「そうなんだ。だから太陽を見て欲しくて……」

 大地がそこまで言うと、絹代は力強い声で「すぐに行くわ」と電話を切った。その迫力に圧倒され、終話音のなるスマホを耳から離し、しばらく見つめた。ホーム画面に戻ったディスプレイに表示された時間は十五時三十分。絹代の住む大地の実家からは車で一時間ほどの距離だ。夕方には来てくれるだろうと踏んで、今度は大地の小学校に電話をかけた。家ではなく診療所に寄るように伝えて下さいという電話が終わると、体がどっと重くなり、病室のベッドの上で大地は気を失うように眠りについた。


 片瀬太陽は、担任の先生から言われた通り、ランドセルを背負ったまま、学校から直接診療所に寄った。

「パパ、いますか?」

 受付で尋ねると「こっちよ」と優しく病室に案内された。

 病室のベッドの上で眠る父の姿を見て、思わず「パパ!」と大きな声を出した。しかし大地は目を開けない。泣きそうな気持ちになって体を揺すろうとしたそのとき、正明が人差し指を口元に当てて「しー」と言いながら病室に入ってきた。

「パパは今寝るのがお仕事だ。少し寝かせてあげよう」

 太陽は頷いて、自分も口元に人差し指を持っていった。

「しー!」

 太陽がそう言って口を閉じると正明は、

「パパのお話をするからちょっとこっちにきてくれるかい?」と病室の外を指差して言った。

 太陽は大地の顔を見て力強く頷くと、院長室まで一緒に行き、ソファーの上にランドセルを下ろして腰掛けた。出してもらった麦茶を飲み干し、正明がもう一杯を注いだところで

「パパ、病気なの?」と不安げに聞いた。

 正明は少し困った顔をして、

「パパは頑張りすぎ病、だな。ちょっと疲れちゃったみたいだ」と言った。

「それ、すぐ治る?」

 太陽は不安になって聞いた。

「うん。治る。だけど、またかからないように気をつけなきゃいけないね」

「そっか……」

 一生懸命家事をこなす大地の姿を太陽は思い浮かべた。パパはいつも忙しいもんなと思う。

「太陽くんは、パパが好きかい?」

「大好きだよ!」

 太陽は大きな声で即答し、それを見て正明は微笑んだ。

「だってパパはね、カッコいいんだ。俺のために一生懸命お仕事して、俺の好きなオムライスだってすごく上手で、一緒にいっぱい遊んでくれるよ!」

「そっか。いいパパだね」

 正明が満足げに頷くと、大地は元気いっぱいに答えた。

「うん! だから俺は、ママがいなくても平気!」



 片瀬絹代は、診療所に着いて息子の寝顔を確認し、ようやくほっとした。その後院長室へと促され、そこで孫の太陽と久しぶりの再会を果たした。

「あら。太陽くん。ばあばが来たからもう安心だよ」

 絹代が精いっぱい笑顔を作ってそう言うと、太陽は不安げな顔をした。

「ばあば、俺がいい子じゃないからきたの?」

「え?」

 太陽は上目遣いに絹代の顔を見ながら、一生懸命に話をした。

「だってパパは、二人でやっていこうね、人に迷惑かけちゃいけないよっていつも言ってるよ。ばあばは俺が一人じゃなんにも出来ないからここまで来たの?」

 絹代はこんな幼い孫に我慢をさせていたことに気が付かなかった自分を恥じた。

「そんなことないわよ。太陽くんだってパパが心配でここにいるんでしょ。ばあばもパパが心配で来たの」

 ようやく納得した顔の太陽に安心し、正明から改めて説明を聞くと、大地は今日明日は入院を要するとのことだった。外泊の準備をしてきて良かったと絹代は思った。太陽に

「じゃあ、今日はばあばと一緒に帰ろうね」と声をかけると、太陽はきょとんとした。

「ばあばん家? 俺、明日学校だよ」

「違う違う。太陽くん家よ」

 絹代が訂正すると、太陽はもう一度尋ねた。

「パパは?」

「パパは今日帰れないの」

 絹代の返事を聞き、太陽は一瞬にして絶望の表情を浮かべた。

「今日はパパと寝られないの?」

 再度聞き直してきた太陽に、「そうだね」と返事をする。

 太陽は泣きそうな顔になり、

「嫌だ! 俺、パパと一緒にいる!」と叫んだ。

「わがまま言っちゃダメでしょ。パパが具合悪いときぐらい我慢しなさい!」

 絹代は思わず声を荒げた。

「俺はいつも良い子にしてるもん! わがまま言ってないもん!」

 そう言って泣き出した太陽に絹代が困っていると、それまで黙って見守っていた正明が

「よし。じゃあ、太陽くんも病院に泊まるか」と提案した。

 絹代は耳を疑い、正明の顔をまじまじと見つめる。

「いいですか? 今他に入院患者もいないんで」と言う正明の言葉で、どうやら聞き間違いではないようだと絹代は思った。そしてその予想外の展開に、しばし言葉を失った。


 本当に太陽は診療所に泊まることになった。目を覚ました大地に必要なものを尋ねた絹代が一度太陽を連れ帰り、食事と風呂を済ませてから再度診療所を訪れた。

「お母様も、泊まられますか?」と正明が訪ねたが、

「好き好んで病院に泊まる歳でもありませんから」と絹代は苦笑し、

「明日の朝、迎えに来るね」と言い残して誰もいない太陽の家に帰っていった。

 大地のベッドの真横に移動したベッドの上で、太陽は安らかに眠った。夜中に目を覚ました大地は、一度いつもと違う景色に戸惑い、けれど隣にいる太陽に気がついて微笑んだ。

 俺がいないと、駄目なんだよな。きっと、と思う。

 母親を亡くした当初は「ママ、ママ」と毎日泣いていた我が子もいつの間にか泣かなくなり、今は「パパ、パパ」と言ってくれる。

 寝ている太陽の額にかかる前髪をそっと手で避け、その顔を眺める。それだけで大地は口元が緩んだ。

 起き上がって音をたてないようにトイレに向かった。しかし点滴の台を動かす車輪の音に太陽は気が付いてしまったらしい。

「パパ、俺もおしっこ」と目をこすりながらトイレについてきた。

「はいはい」

 夜の暗闇を怖がる太陽と一緒に、病室のベッドの上に戻る。

「パパ、頑張り過ぎてるの?」

ベッドに戻った大地に太陽は言った。

「え?」

「パパが頑張りすぎ病だってお医者さん言ってた」

 眠さを帯びたゆったりとした口調で、太陽は言う。

「そうか」

 大地は苦笑した。確かに、頑張りすぎていたかも知れないなと思う。そして答える。

「そうかもなあ。でも、パパは頑張りたくて頑張ってるんだよ。太陽が大人になるまでは、頑張るからな」

「早く大人になりたい」

 大地の言葉に、太陽はそう答えた。その言葉に、思わず鼻先がつんとなる。

「太陽……。でも、太陽がすぐ大人になったら、パパ寂しいな」

「なんで?」

 自然と口元から、ふっと微笑みが漏れる。

「今の太陽には今しか会えないんだぞ。毎日を大切にしないとな」

「……」

 考えたのか、眠ったのか。暗闇の中、太陽は動かない。

「元気になったら、遊びに行こうな」

 太陽の頭に手を伸ばして撫でてから、大地はそう言って目を瞑った。



 絹代は、退院した大地に正座をさせてお説教をしていた。

「どうにもならない距離でもないのに一人で意地を張って! 入院したって聞いてどれだけ心配したと思ってるの!」

「……すいません」

 大地には謝ることしか出来ない。

「なんでも一人で出来るわけないでしょう! 子育てなんてね、二人でやったって大変なんだから!」

「はい」

 まったくもって返す言葉もない。

「そうやって結局太陽に寂しい思いをさせることになるならね、最初から頼りなさい! 頼ってくれない方が親として寂しいの! あんたにもいずれわかるわよ!」

 その時を想像して、大地はちょっと胸が苦しくなった。

「あんたの頑張りは、みんな認めてる。だから少し肩の力を抜きなさい。あんたが頑張りすぎると、太陽まで弱みを見せられなくなるわよ」

「……はい」

「これからは週に一回はお母さん、様子見に来るからね! あんなに可愛い時期の太陽を、独り占めにするなんてずるいわよ!」

 ちょっと私的な事情の入ってきたお説教に大地は苦笑した。

 退院の際に正明に言われた言葉を大地は思い出す。

「父親はどう頑張ったって母親の代わりにはなれない。だけど太陽くんのパパも代わりはいないんです。子供は母親と正面から向き合って、父親の背中を見て育ちます。だから自分をもっと大切にして下さいね。太陽くんにいつまでもその背中を見せられるように」

 大地は絹代の手によって綺麗になった自宅を見て、誰かに何かをしてもらう事のありがたさを改めて思い知った。自分はいろんな人に支えられて生きているのだ。太陽のパパとしてまだまだ半人前な自分が、一人でなんでもこなそうなんて思い上がりだよな、と微笑むと

「ほら! あんたは昔からそうやって人の話を聞いてないんだから!」と絹代に怒られた。

 亡き妻にも同じ事で怒られたなあと思い出す。大地は「すいませんでした」と絹代に頭を下げた。いつも見守っていてくれるであろう亡き妻にも、きっと心配をかけたろうなと思う。

「以後気をつけます」

 大地は心から頭を下げた。

「あとお父さん、今こっちに向かってるからね」

「え?」

 絹代の言葉に驚いて聞き返した。

「あんたのことが心配で、いてもたってもいられなくなったんだって。大丈夫って言ったんだけどね。多分太陽に会いたいんだわ」

 大地は思わず笑ってしまった。

 どうして自分が子供だということを忘れてしまっていたのだろう。自分にも、頼れる親がいたではないか。

 自分と同じ年になった太陽が素直に頼ってきてくれるように、せいぜいこれから頑張らないとな、と思うと同時に、可愛い孫を独り占めしてしまったことを申し訳なく思った。

 太陽は、皆を照らす光。

 妻のつけた名前通りの現実に大地は顔を綻ばせ、絹代と共に人気者の帰還を心待ちにするのだった。

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