診察22【渡辺千鶴】
「ねえ
母の
最も同居しているとは言っても、外で仕事をしている彩と、一日家で仕事をする千鶴が会話をするタイミングは夕飯時くらいしかない。
彩は聞こえないふりをして、黙々と箸を進める。そんな彩を見て千鶴は聞こえるようにため息をついて、
「あんたの同級生のリカちゃん、もうすぐ二人目生まれるってよ」と言った。
「あんたの孫が見られることはないのかしらね」
大げさに嘆いて千鶴はテレビのチャンネルを変えた。
ああ、見てたのにな。と彩は思う。しかし今日はこれ以上千鶴と会話をしたくない。どうせ何を言ったって分かり合えないと諦めているからだ。
人と話すのが大好きな千鶴とは違い、彩は昔から引っ込み思案で一人を好んだ。大人しくお絵かきをしているときのほうが、誰かとおままごとをするより楽しかったのだ。
そのまま大人になった彩は、人と話すことが苦手で友人も少ないし、彼氏など出来たこともない。けれど彩はそれを不幸だと思っていない。一人でいる方が気が楽なのに、どうしてわざわざ一緒にいなければならない誰かを探さないといけないのか。
彩は嫌味ったらしくお見合い番組を流す母とテレビを残して自室に帰った。
椅子に座ると、自然と深いため息が出た。はああと腹の底から息を吐き切ると、鬱屈した気持ちがため息と一緒に出て行くような気がして、少し気持ちが軽くなった。
母の千鶴には何も言っていないが、彩も誰ともコミュニケーションを取っていない訳ではない。彩は椅子に姿勢を整えて座り直し、パソコンを起動して、ゲームの世界にログインした。
そこにはいつもの仲間達がいた。
『おつー』
『おつ』
『やっと来た』
『待ってたよ』
いつも一緒に壮大な戦いを乗り越える仲間達は、いつでも彩の事を受け入れてくれて、余計な事を詮索しない。ただ一緒の目的を成し遂げる仲間として絆を深めることが出来るし、ログアウトすれば関係はなくなる。
彩にはこれくらいの距離感が心地良い。誰の事も傷付けたくないし、傷付きたくない。かと言って完全に一人で生きていけるほどは強くない。
だから今日も彩はゲームの世界で自分の価値を確認する。
ほら、今の私、ナイスアシスト! 今のは私がいなかったら危なかったね。気付くとどんどん身を乗り出して、ディスプレイに釘付けになっている。
この世界だけはみんな私を必要としてくれる。臆病でどうしようもない自分の居場所など、ここにしかないのだと彩は思う。
ふと時計を見ると、あっという間に時間は過ぎていた。挨拶をしてログアウトをする。明日も仕事だから、そろそろ寝ないといけない。
彩は郵便物の配達の仕事をしている。暑くても寒くても原付バイクで郵便物を届けるのは正直辛いが、あまり話をしなくてもいいのは楽だ。
彩が一日のうちで一番接するのは、言葉を発さない原付バイクと、何も言わない郵便物。それから冷たい郵便受け。誰かと一緒にいて傷つくくらいなら、無機物と触れ合う方がいい。彩はこの仕事が性に合っていた。
明日の仕事のことを考えながら、彩は今日も眠りに就いた。このまま目が覚めなくてもいいのに、と思う。特に明日への希望なんてない。
「そうなのよ。本当、困っちゃうわよねえ」
千鶴は今日も店先でお客さんと世間話をしながらレジを打つ。『渡辺ベーカリー』の接客を一手に担う千鶴は、来店したお客さんと三十分以上喋りっぱなしのこともある。そうしていても平気なくらい店内はガラガラだ。
昔は人を雇ったりした事もあったが、それももう過去の話。現在は夫婦二人で店を回すのが精一杯だ。大して儲かりはしないが、もう辞め時は見失った。
昔は娘の彩にお婿さんと一緒になって継いでもらいたいと思っていたものだが、最近はそれも半ば諦めている。彩はきっと結婚する気がないのだ。結婚だけが幸せではないと、何度も夫の
「こんにちは!」
常連客の川村志津子が孫娘の華鈴を連れてやってきた。
「いらっしゃい! まあ華鈴ちゃん、今日も可愛いわねえ」
千鶴が声をかけると、華鈴は恥ずかしそうに志津子の足の影に隠れた。
「こら華鈴、ちゃんと挨拶しなさい」
そう言う志津子の顔は笑っていて、その可愛らしさに、こちらの頬も緩む。その反面、嫉妬の気持ちも抑えきれない。
志津子は千鶴と同い年だ。片や孫がいて、息子もしっかり独立していて、片や嫁ぐ予定のない娘の面倒を未だみている。どうしてこの世はこんなに不公平なのだろう。
志津子に菓子パンを買ってもらって店内を去る際、華鈴は小さな手をこちらに振ってくれた。その姿が可愛くて、どうして私はああいう人並みの幸せを貰えないのだろう、とため息をついた。
レジ台に頬杖をついて、一人で考え込む。誰もいない店内は、静かで寂しい。
一人だとついつい余計な事を考えてしまう。
新たな客の来訪を期待して、千鶴は店内の入り口を眺めた。ガラス越しに見える人通りの少なさに切なくなっただけだった。
夕方、そろそろ店を閉めようと厨房から店に入った英俊は、レジのカウンターの中でうずくまる妻の千鶴を見つけた。焦って声をかける。
「どうした? 大丈夫か?」
「うう……」
返事をせずに呻く千鶴を見て、パニックになる。
「どこか痛いのか? なあ?」
声が思わず大きくなる秀俊の顔を見上げ、千鶴は苦しそうに答えた。
「お腹、痛い……」
額に脂汗まで浮かべる千鶴を見て、慌てて救急車を呼んだ。救急車を待つ間に家に帰ってきた彩にろくに説明もせず、
「店を閉めといてくれ!」と言い残し、秀俊は千鶴と一緒に救急車に乗った。
苦しむ妻を前に秀俊は動揺を抑える事が出来ず、診療所に着いた時、院長の正明に
「妻を助けてください!」と懇願した。
正明は力強く頷いて、処置室へ入っていった。
秀俊に出来ることはもうない。患者もいない待合室で、秀俊は椅子に腰掛けて祈った。
どうか妻が大した病でありませんように。
千鶴はいつもうるさくて、正直辟易していた部分もあるけれどだからと言っていなくなられては困る。そんな想像をすることも恐ろしいくらい、隣にいるのが当たり前の存在だ。
英俊が両手を合わせて千鶴の無事を願っていると、彩が診療所に姿を現した。
「来たのか」
「うん」
普段から口数は少ないが、それでもいつもより元気がないことが表情で分かる。
「店、閉めてきてくれたか」
「うん」
「車で来たのか」
「うん」
「じゃあ、一緒に帰ろう」
「うん」
「お母さんも、一緒に帰れるといいなあ」
「うん」
それきり会話は終わってしまい、二人は静かに待合室で時計の針の音を聞いた。
「あはははは。そうなのよ。あら、大した事ないんだけどねえ」
病室から聞こえる千鶴の声に、彩は入るのを躊躇った。
盲腸で入院している千鶴のお見舞いに来たのだが、誰かが訪ねてきているようだ。救急車で運ばれたときはさすがに肝が冷えたが、数日経つと千鶴はまた元通りの騒々 しさを取り戻していた。
「そりゃあ、そうよ。彩が結婚するの見届けるまでは、死ねないって」
あははははとまた聞こえた笑い声に、彩は唇を噛み締めた。そのまま来た道を引き返し、病室のドアを開けることなく診療所の外に出た。
診療所の外のベンチに座って空を見上げる。しばらくぼんやりとそうしていると、真治が伸びをしながら彩の横を通りすがった。
「あ」
「あ」
彩が声を出すと同時に真治も声を出す。
「渡辺さん。久しぶり」
爽やかな笑顔の真治に彩は驚いた。真治には嫌われていると思っていたから、こんな笑顔を向けられることは想定外だったのだ。
「うん。久しぶり……」
彩は真治の顔を直視できずに、下を向いて答えた。真治は気にする様子もなく、明るい声で尋ねた。
「お母さんのお見舞い?」
「うん……」
「中、入ればいいのに。お母さん、人気者だよ」
笑って言う真治の顔に嘘はないように思えた。しかし彩には、その笑顔が痛かった。心を抉られるような苦しさが胸を襲う。
「私、出来の悪い娘だから。ほかの人がいるときには、ちょっと……」
そう言って誤魔化した。入りたくないのだからほっといてくれればいいのに、と思った。お願いだから察して欲しい。
彩の気持ちになど全く気付かない真治は、隣に腰掛けて空を見上げた。
「そんなの、勝手な思い込みだよ」
彩にはその優しい口調が嫌味にしか聞こえなかった。
「何も知らないくせに! 分かったような事言わないで!」
とうとう我慢しきれず大きな声で叫んだ彩に、道行く人が不思議な顔をする。真治も驚いた顔をしていた。
「ごめん……」
謝る真治を見たら、彩の黒い気持ちが抑えきれなくなった。
「小野島くんだって、私のこと嫌いでしょ」
彩は言いながら自分の心臓が大きな音を立てるのを聞いていた。
彩の元同級生の真治。その顔を見るとどうしてもその友達の裕樹の顔が思い浮かぶ。彩の同級生でもあった裕樹が本当に辛かったとき、彩の両親は裕樹を切り捨てた。そのことがどうしても、彩の中で苦くて黒い想いとなっていつまでも燻っている。
「だって阿部くんの敵だもんね」
彩は悲しく笑った。裕樹の友達である先輩の竹中慎也に、その当時彩は呼び出されて、責められた。そのときのことを思い出す。
「どうして同級生なのに、そんな簡単に見捨てられるんだ」
今でもその台詞を一字一句、それを言い放った慎也の細かい表情や仕草までも、鮮明に思い出せる。
彩だって、助けたかった。彩は当時、懸命に頑張る裕樹に人知れず恋心を抱いていた。無神経な他の人達とは違う魅力を、裕樹に感じていた。
けれど最後に会った時、裕樹は言ったのだ。
「ごめんね。渡辺さんに迷惑かけちゃって。俺なんか、いない方が良かったのにね」
彩はその寂しい笑顔に、胸を締め付けられた。彩が何も言えない内に裕樹は去っていた。
いない方が良かったのは、私なのにと当時も思った。今でも思っている。なにも出来ない己の無力さが、憎くてたまらない。時間が流れても、彩はあのときなにも出来なかった自分をまだ許すことが出来ない。
「敵って……」
真治が言葉に詰まる。
「私の親のやった事は、私の責任でもあるでしょ?」
その当時、彩は千鶴とも英俊とも話をした。
「お前は、同級生と、血を分けた親と自分の生活、どっちが大事なんだ」
そう言われて何も言えなくなってしまった。当時のことは、今でも夢に見る。彩にとって消せない傷となり、ずっと痛いまま存在を主張する。
彩がそれきり黙っていると、真治は白衣のポケットからスマホを取り出した。そしてある写真を彩に見せる。
そこには、裕樹と真治と慎也が笑って写っていた。
「最近、釣りに行ってきたんだけど。裕樹ね、笑うようになったんだよ」
彩はその写真を喰い入るように見つめた。十年ぶりに見る顔がそこにあった。裕樹に申し訳なくて、顔も合わせられなくて、そうやって怯えて過ごした十年間。
だけど本当は気付いていた。
毎月毎月裕樹の兄、修斗からの刑務所から届く手紙をポストに届け続けたのは、彩なのだ。何度投函しても手は震えた。深呼吸をして、郵便受けに手紙を投函し続けた。
だけどここ数ヶ月、その手紙がなかった。もしかしたら、と思ってはいた。
「裕樹はようやく前を向いて、一歩を踏み出してるんだ。だから渡辺さんも、そんなに悲しい顔をしないで。裕樹のことを思うなら、そのときは笑ってあげて欲しいんだ」
千鶴が退院して、ようやく『渡辺ベーカリー』は通常営業に戻った。無口な英俊はとてもでないが接客は出来ず、千鶴が入院してから今まで、やむを得ず臨時休業していたのだ。
仕事が終わって帰宅したとき、店の看板に明かりがついているのを見て、彩は安心した。なんだかんだ言っても、自分の帰る場所はここしかないもんな、と苦笑した。
相変わらず千鶴からの結婚しないのか攻撃は続いているし、憂鬱な気分になる事も多い。
だけど、あの日思わず号泣してしまった彩に、真治が教えてくれたあること。それは彩の心に元気をくれた。
「最近裕樹はパソコンでゲームするのにハマってるみたい」
ゲームの名前を尋ねると、真治が記憶をたどるような顔をして名前を教えてくれた。それは彩が毎日ログインしている、あのゲームだった。
「最近は僕よりゲームの方がいいみたい」と苦笑いした真治の顔が浮かぶ。
私もあの人と同じ時を生きている、と彩は思った。自分もそろそろ、前を向いて歩き出す時が来たのかもしれない。裕樹はとっくに、前に進んでいたのだ。
とらわれて、こだわっていたのは彩だけだったのだ。彩はぎゅっと目を瞑り、手を胸に当てた。
ゆっくりでいい。私も前に進みたい。
もしかしたらゲームの世界でもう出会っているかもしれない、私の人生にとって大切な人に、合わせる顔はもうない。手紙を届ける事ももう出来ない。けれど幸せになって欲しいと願い続けることは出来る。
彩は視界を滲ませて、パソコンを起動してゲームにログインした。頬を涙がつたう。けれどこの涙は、悲しい涙ではないな、と思い、微笑んだ。
鼻をすすって、窓から空を見上げた。真っ暗な夜空に、たくさんの星が輝いていた。
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