診察18【浅野和真】

「ばあちゃんは来なくていいよ!」

 浅野道枝あさのみちえは孫の和真かずまからそう言われて固まった。

 もうすぐ小学校の運動会。孫の勇姿を今年も見られると楽しみにしていた道枝にとって和真の発言はとてつもなくショックで、しばらく言葉を失った。

「こら! 和真! なんてこと言うの!」

 母の理恵りえが叱ると、和真はぷいっと部屋に戻ってしまった。理恵はため息をついて道枝に頭を下げた。

「反抗期なのかしら……。ごめんなさいお義母かあさん。後でよく話をしておきますから」

 道枝は内心を悟られないように無理に明るい声を出した。

「いいえぇ。良いんですよ。運動会は暑いし、私も体力もないしね。今年はどうしようかと考えていたの」

 言いながら、道枝は先日和真と外ですれ違ったときのことを思い出していた。家に何度か遊びに来たことのある友達の井上涼太と一緒だった。和真は同い年の涼太といつも一緒に遊んでいる。

「こんにちは」

 道枝が頭を下げると涼太も一応頭を下げた。和真は手を振って通り過ぎていったのだが、ゆっくりと歩む道枝の耳に、涼太の声が聞こえた。

「おまえのばあちゃん、歩き方、変!」

 道枝の足は生まれつき左右の長さが違う。だからどうしても歩き方は不格好になってしまうし、早くは歩けない。昔から言われ続けてきたから、道枝はそれを指摘されることは慣れている。

 だけど和真はどうだろう。多感な時期に友達に馬鹿にされることはきっとショックだったし、恥ずかしかったに違いない。きっとあのときのことがあるから、みっともない祖母をみんなに見せたくないに違いない。

 ……年寄りは家に引っ込んでいろってことかしら。悲しい顔で道枝を見る理恵を残し、道枝は自室へ引っ込んだ。


 小学校の校庭で、運動会の練習が行われていた。

 全校生徒を二チームに分けて行われるリレーは人気種目だ。チーム分けは毎年教員の話し合いで決定し、戦力が拮抗するように組まれる。今年は一チーム五人編成で、和真と涼太は別のチームになった。そしてそれぞれがアンカーという責任重大なポジションを任されている。

「和真が相手とか、楽勝だな」

 チームが発表されたとき、涼太は勝ち誇った顔をして言った。和真も、そうかも知れないと思った。いつも涼太には敵わない。テストの点数だって、かけっこだって、歌のうまさだって、和真は涼太に敵わない。いつも胸をはる涼太の隣で和真はなるべく小さく見せようと背中を丸めていた。

 しかし今年に入って、和真は涼太の身長を抜いた。涼太はそれが気に入らないらしく「和真のくせに」と言ってなにかと突っかかってくるようになった。和真はそれが嫌だった。そもそも争いたくないから負けてもいいと思っていたのに、ことあるごとにライバル視されて、和真が負けると以前よりも嫌味を言う。そこへきて、リレーのアンカーなどと、勝敗が明らかになるような勝負に挑まなくてはならないなどと、和真はここ最近、ずっと憂鬱な気持ちだった。

 たった今行われた全員参加のリレーの練習でも、和真は涼太に負けた。チームメイトの冷たい視線が和真に刺さる。和真と涼太までの勝負はほぼ互角だったので、実力差が露骨に出たのだ。

 各クラスに分かれて練習をすることになったのだが、担任の相沢は「とりあえずリレーのために走り込みをしよう」と言った。和真と涼太、それから結奈は、百メートル走をさせられることになった。

 涼太は「何回やっても負けねーよ」と和真の耳元で言った。和真は走る前から負けた気分でスタートラインに立った。

「ピー」と言うホイッスルの音を合図に駆け出した。最初は和真が勝っていた。結奈は運動があまり得意ではないので、初めから差が開く。涼太が後ろから追い上げてくるのが分かった。走る前は負けた気でいたが、いざ走ると負けたくないという気持ちが勝る。後ろから迫る涼太の息遣いを感じながら、和真は必死に走った。もうすぐゴールだという気の緩みからか、ゴール直前で足が引っかかってしまい、和真は前のめりに宙に浮き、地面に体をこすりつけて着地した。ずさーっという音が、振動とともに耳に響く。

「和真、大丈夫か!」と言う相沢の声が聞こえた。起き上がってみると、和真の膝と肘は盛大にすりむいて血が出ていた。

「先生、痛い……」

 ずきんずきんと痛み始めた傷を抑えながら、和真は言った。言いながら、大げさに騒げば運動会に出なくても良くなるかもしれないと思った。怪我をして出られないなら、涼太とリレーで戦わなくても良くなるのではないか。

「痛い! 痛いよ先生!」

 和真は必死に訴えた。相沢は困った顔をした。涼太が視界の端で笑っているように見えた。


「うーん……。そんなに痛い?」

 真治は困っていた。和真は痛みを訴えるが、そこまで大きな傷ではない。消毒した傷口からはもう血は止まっているし、レントゲンで確認しても骨に異常はない。けれど肘も膝も曲げられないくらい痛いと訴える和真の目は真剣で、どうしたものかと頭を抱えていた。

「痛い、気がする……」

 和真の主張が少し弱くなった。真治は内心おや、と思うが

「そっか。困ったねえ」と調子を合わせた。すると和真は真治の顔色を窺うように上目遣いで見た後、小さな声で切り出した。

「先生、あのね……。僕が大怪我だって診断にしてもらいたいんだけど」

「……どうして?」

 無論はいそうですかと引き受ける訳にはいかないが、これが解決の糸口になるかもしれない。真治は和真の次の言葉を待った。

「運動会、出たくないんだ」

「どうして?」

 真治の問いに、うつむいて答える和真。

「僕、足遅いし、リレーのアンカーやりたくない……」

 声はどんどんと小さくなり、明らかに肩を落とした様子の和真を見て、そうか、そういうことかと真治は納得した。そういえばもうすぐ運動会の季節だ。

「でも、折角の運動会なんだから、家族も和真くんの頑張ってる所、見たいんじゃない?」

 真治は優しい口調で和真を諭そうとするものの、和真は首を大きく横に振った。

「僕、運動得意じゃないんだもん。だから絶対涼太に負けちゃう」

「やる前から決めつけちゃ駄目だよ」

 真治はきっと気休めにしかならないだろうなと思いながらも、和真にそう言った。案の定、和真にその言葉は響かなかったようで、興奮した様子で否定した。

「お母さんもお父さんも忙しいのにお店休んで来るんだよ! 格好悪いとこ、見せたくないよ! それに、おばあちゃんだって……」

「おばあちゃん……?」

 真治が聞き返すと、和真は悲しげに言った。

「僕がなんにも出来ないせいで、おばあちゃんまで馬鹿にされるんだ。だから、運動会出たくない。運動会なんかなくなっちゃえば良いのに……」

 それだけ言うと、和真は下を向いて固まった。そんな和真を見て、真治はどうにかしてやりたいと思った。

「よし、じゃあ、こうしよう」



「運動会の朝練がある」と、息子の和真が早く家を出るようになった。理恵は毎朝その背中を店先から見送る。夕方も泥だらけになって帰ってくるので、きっと真剣に頑張っているのだろうなと思った。

 先日それまではおばあちゃん子だった和真が道枝に心無い発言をしたときは反抗期かと警戒したものだが、今のところほかに兆候もなく、もう少し様子を見なければならないと思っていた。そうは思っていても、毎日の仕事に追われてなかなかゆっくり話す機会もない。最近の和真は朝も早く出ていくし、疲れているのか夜もすぐに寝てしまう。頭の中は和真のことでいっぱいでありながらも、理恵は今日も魚にまみれて必死に働く。

『浅野鮮魚店』は、今日もありがたいことに朝から大忙しだ。

「ねえねえ。和真くん、頑張ってるわね」

 常連さんからそう言われたとき、理恵は何を頑張っているのはっきりと分からず曖昧にうなずいた。

「毎日毎日走ってるの、見てるのよ。ちょうどうちの前を通るもんだからさ。あれって運動会が近いからよね? 頑張り屋さんねえ」

 理恵はその言葉を聞いて納得した。和真は小学校で強制的に練習をさせられているものだと思っていたが、そうではないらしい。自主的に学校ではないところを走っているのだろう。理恵は自分の知らないところで和真が頑張っていると思うと、誇らしかった。少し前まで泣いてばかりだった和真が、あの運動の得意でない和真が、誰にも内緒で頑張っているのだと思うと鼻先がつんとした。もしかしたら、道枝に自分の格好悪い姿を見せたくなくてあんなことを言ったのだろうかと考えた。そうならないように今になって必死に頑張っているのかもしれない。

 当日まで知らないふりをしようと決めた。せっかくだから、完遂して欲しい。

 理恵は教えてくれた常連さんにおまけと言って刺身を持たせた。とても気分が良かった。


 休診日である日曜日、賢人と晃太がハナコに会いに診療所へやってくると、珍しく先客がいた。診療所の駐車場で真治に見守られながら走っているのは、和真だった。真治の足元には、ハナコがお行儀よく座っている。

「あ。和真くんだ」

「なにしてんの? 涼太くんは?」

 いつも涼太の後ろにいる和真が一人でいることに違和感を覚えて賢人は聞いた。和真は額から流れる汗を手の甲で拭い、息を少し整えてから答えた。

「涼太は今日はいないよ」

 真治が付け足す。

「練習してるんだ。運動会の」

その言葉に賢人が興奮した。

「マジ? 和真くん、特訓なの? 俺もやるー!」

 賢人と和真は同じチームなのだ。賢人はそう言って準備運動で屈伸を始めた。

「うちには涼太くんがいるから、どうせ負けないしぃ」

 晃太は偉そうに腕を組んで言った。

「さあ、それはどうかな?」

 真治が晃太に向けて、にやっと笑って言った。

「和真くんもなかなか、頑張ってるからね」

 それからは診療所の駐車場は賑やかだった。

「もっと腕振って!」

「前を見て! もっと前! もっと先!」

「和真くん、頑張れ!」

 アドバイスをする真治を見て、いつの間にか賢人も晃太も一緒に応援していた。和真は何度もアドバイスを聞いて走った。その目は真剣だった。

 正明が途中、麦茶を差し入れた。熱心なトレーニングは日が暮れるまで続いた。ハナコはそれをキラキラした目で見守っていた。



 道枝はいそいそと支度をして、学校へ向かった。

 昨晩、「おばあちゃん、ごめんなさい。やっぱり運動会、来て欲しいんだけど……」と和真から招待状をもらったからだ。

 運動会の今日、天気は快晴。道枝は足をひょこん、ひょこん、と動かして、和真の待つ校庭へ向かった。理恵も一緒だ。和真の父、まことは、場所取りのために先に出た。

 道枝が到着したときにはすでに校庭はかなりにぎわっていた。子供が少ない小学校の運動会は、地域の大人も参加する。皆そわそわして、自分の身内の晴れ姿を待っていた。

 そんな中、遠くのほうに和真の姿を見つけた道枝は、それだけで嬉しくなった。

 やっぱり、うちの孫が一番可愛いわ。凛々しく鉢巻きをした姿を見て、立派になったなとしみじみ思う。

 息子夫婦が忙しく、必然的に道枝が面倒を見ることが多かった和真は、思いやりのある、優しい子に育った。だけど最近、男の子らしい意志の強さを見せる時もあって、道枝はこの孫の成長が楽しみで仕方なかった。

 勝っても負けてもいい。頑張ってる姿を、出来るだけ長く見守りたい。道枝は優しい気持ちで、理恵の隣に座って和真を目で追った。


 相沢はとても緊張していた。競技は一通り済んで、最後のリレーを残すのみとなった。自分の受け持ちの三人は、張り切った様子で鉢巻を締め直し、真剣なまなざしで勝負のときを待っている。

 今朝になって和真が相沢の元へやってきて、こっそりと打ち明けた。

「先生、僕、今日のリレーのために特訓したんです。涼太には内緒で。だから今日は絶対に負けません」

 いつもと違う和真の様子に、相沢は驚いた。気が弱い和真は普段、涼太と戦うことを極端に嫌い、主張をせずに済ませようとすることが多い。涼太もそれが分かっているから、和真には強く出る。和真はその関係性に決して満足していた訳ではないと思い知らされた。自分の観察力のなさにはほとほと呆れた。

 先ほども涼太が「負けねーから」といつもの調子で和真に絡んだとき、いつもなら笑ってごまかす和真が「僕だって負けないから」と言った。和真は変わろうとしている。この勝負はきっと和真にとって大切なものなのだ。そう思うと、勝負が始まる前から相沢の心臓はどきどきして、走りもしないのに緊張してしまう。


 リレーが始まった。

 一年生と二年生走者がトラックを半周走る。バトンを繋ぐ。

 三年生、四年生までほぼ互角。追い抜いたり追い抜かれたりしながら、必死に走る。

 バトンが渡る。五年生の結奈と六年生の翼が走る。やや、翼のほうが早い。少し距離が開く。

 翼のバトンが涼太に渡った。少し遅れて結奈のバトンが和真に渡った。

和真が追い上げる。涼太は懸命に逃げる。

 ンカーだけ、走行距離がトラック一周に伸びる。

 まだ追いつける。まだ追い越せる。

 観客も立ち上がって応援している。双方に声援が飛んでいる。走り終わった子供達も、立ち上がってその姿を視線で追っている。

 涼太も、和真も頑張れ!相沢は拳を握りしめた。

 和真は確かに以前より格段に早くなっていた。涼太が少し焦っているのが分かる。

 頑張れ! 頑張れ! 相沢の頭の中には、とにかくそれしか浮かばなかった。


 ゴールテープは、もうすぐそこだ。

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