診察17【久保剛久】

「なんだとこのヤブ医者め!」

 診察室から聞こえた怒声に、薫子さんはやっぱりな、と思った。先ほど診察室に入っていった患者さんの名前は久保剛久くぼたけひさ。診察の担当は院長の正明だ。

 剛久は前回の診察のときもこうだったので、今日もこうなる予感はしていた。

頭から湯気を出しそうなほど怒って診察室から出てきて、乱暴に扉を閉める。衝撃で扉にかかっていた担当医の名前を書いたプレートが揺れる。揺れが収まったときには正明の名前のプレートは傾いていた。後で直そう、と薫子さんは思った。

 待合室でも腕を組んで怒りがおさまらない様子の剛久に、他の患者さんが「まあまあ」と言って宥めている。正明が苛立った様子で受付にカルテを持ってきて、剛久の方を見もせずに院長室へと戻っていった。正明の今日の診察は終了したようだ。プレートを直すのは後でも良いかと思った。

「久保さん。お会計お願いします」

 薫子さんの声で立ち上がった剛久は、受付でお金を払い

「原田さんもあんな唐変木とうへんぼくのところで働くのは大変だな」と言い残して去っていった。

 薫子さんはため息をついた。剛久と正明は昔からの喧嘩仲間だそうで、顔を合わせては喧嘩ばかりしていると患者さんから聞いていた。とは言えいい歳の大人が大きな声を出して喧嘩なんかして。と薫子さんは怒っていた。

 そして剛久が乱暴にお金を置いたせいで床に落ちてしまったぬいぐるみを、丁寧に受付の元の位置に戻した。


 剛久は怒りに任せてずんずんと歩いた。

 朝の明るい陽射しが剛久を射抜く様に差している。

 すぐに汗をかいた。その汗すらも忌々しいと思った。

 先ほど診察室で正明に言われた「酒を断て」という言葉に、剛久は怒っていた。

 剛久は数年前まで警察官だった。署長を務めたこともあり、それなりの功績を持って胸を張って定年まで勤め上げた。剛久の逞しい背中に何人もの警察官が憧れの眼差しを向けた。優秀さを疎まれたことすらあった。今ではそれも含めて、輝かしい思い出だ。

 剛久は古き良き時代の警察官としてよく働き、そしてよく遊んだ。酒の上で築いた関係は数え切れない。

 今でも剛久の家には後輩が訪ねてきては、剛久に助言を求め、ときには「叱ってくれ」とお願いされることもある。それだけ剛久の言葉には経験に裏付けられた説得力があり、引退して尚憧れの厳しい先輩なのである。

 その席で酒が飲めないなどと、そんな恥ずかしいことが言える訳がない。酒が飲めない警察官は偉くなれないと先輩に言われて育ってきた剛久にとって、酒は男の威厳を象徴するものであり、大事なコミュニケーションツールでもある。

 酒の力を借りなければ恥ずかしくて言えないようなお互いの腹を見せ合って、ようやく関係値が築けるのだというのが剛久の信念である。

それを知っているはずの正明が、軽々しく酒を断てなどと口にしたことが信じられない。何度思い出しても腹が立つ。青汁で腹を割って話せとでも言うのか。医者だからって偉そうに。

 自分の体のことは、自分が一番よく分かっている。ただの風邪だと素直に診断すれば良いものを、もっともらしい理由をつけて禁酒させようと企んでいるに違いない。

 剛久の怒りは収まることがない。


 剛久の妻、久美くみは、病院から帰ってきた夫の機嫌がすこぶる悪いのを見て、ああ体のどこかが悪かったんだろうなと思った。

「風邪をひいたらしい」と言った剛久は、久美が早く病院に行くべきだと言っても聞かず、寝てれば治ると言い張った。病院嫌いな性質だから、これ以上言っても無駄だと諦めていたのだが、流石に一週間以上倦怠感が続き、熱も出ている。食欲もない姿を見兼ねて、久美がお願いだから病院に行ってくれと懇願してようやく重い腰を上げたのだ。

 今は怒りのエネルギーが支配しているから動けてはいるものの、きっとそのうちまた布団で大人しくなるに違いない。

現役の頃もそうだった。

 事件となると気が張り詰めてどんなに過酷でも乗り切れるが、解決して休みが取れるとなると剛久は熱を出した。

 気力と根性で生き抜いてきた時代の人。

 久美は剛久のそういう頑固な所に惚れたし、今までもうまくやってきたが、定年を過ぎた今もかたくなに気力で乗り切ろうとする姿に少し不安を覚えてもいた。

 もうどこかしらに不調を訴えていてもおかしくない歳なのに、「俺が病気になどなる訳ない」と健康診断も避けている。子供が病院に行きたくないと駄々をこねているのと一緒だ。

 久美は様子を見て、診察結果を尋ねようと思った。

 どしどしと強足音で怒りを表明し、誰かの顔色など伺おうとしないその二人に溢れた態度だけは、現役の頃と変わらない。

 久美は夫の寂しくなった頭部や、少し小さくなった背中を見て、ため息をついた。



「だから肝臓に負担をかけないように、酒をやめろって俺は言ったんだ。そしたらあの分からずや、俺にヤブ医者だって捨て台詞を残して診察室を出て行っちまったんだよ」

 久美は自分の関節痛の診察のついでに、剛久の症状を聞いてみた。すると正明は顔を赤くして、剛久への怒りを再燃させた。

「肝臓の異常は軽く考えると命に関わる。久美さんからも言ってやってくれない?」

 正明はかつての同級生である久美に拝むような素振りを見せた。剛久も、久美と正明と同じ学校で過ごした同級生である。

「私が言ったからって、耳を貸すような人じゃないから」

 呆れた顔で久美が返すと、正明は

「まあ、なあ。本当にあいつは全く」と言いながら頭を掻いた。

 正明が本当に剛久の体のことを思って怒ってくれているのだと、久美は分かっていた。昔から血気盛んな剛久と正義感の強い正明はこうして何度も揉めてきた。けれど それは素直に好意を受け取れない剛久とプライドの高い正明がお互いのことを思うが故の揉め事であることが多かった。

 いつもは時間が解決すると思って放っておいたが、流石に今回は剛久に腹が立った。全く、いつまで殿様でいるつもりなのだろうか。


 久美が診療所を訪れた三日後、

「ちょっと飲みに行ってくる」と言った剛久に、久美は驚きを通り越して呆れた。

 昼まで横になっていて、流石にここ数日は酒を飲んでいなかった剛久を見て、放っておけばそのうち諦めてもう一度診療所に行くだろうと楽観視していたが、ただ単に誘いがこなかったから飲まなかっただけらしい。

「あまりお酒は良くないんじゃないですか?」

 久美がそう言っても、剛久は出かける支度をやめない。

「付き合いなんだから仕方がないだろう」

 久美の顔も見ずにそう言った。その態度に腹が立つ。

「でも、肝臓が」

 久美が話している途中で、剛久は大きな声を出した。

「あのヤブ医者、お前にまで言ったのか!」

 急に憤った剛久は久美が宥める間もなく、家を出て行ってしまった。

 久美は心配をしている自分が馬鹿らしくなった。

「このヤブ医者!」

 ちょうどハナコの夕方の散歩に行っていた正明が診療所に帰ってきたとき、剛久は駐車場に辿り着いた。

「なんだと! この分からずや!」

 急に怒鳴りつけた剛久に、正明は反射的に怒鳴り返す。

「お前、久美に俺の肝臓がどうこうって言っただろう! あれはお前の誤診じゃないか! なんでそれをチクりやがる! お前は女か!」

 正明はその言い草にカチンときた。頭にかっかと血が昇るのが分かる。

「俺は医者にプライドを持ってやってる! 誤診なんてもってのほかだ! お前の肝臓が持ち主についていけなくて悲鳴をあげてるだけだろうが! どうしてそれが分からないんだ!」

 表の騒ぎを聞きつけた真治がそっと正明の手からハナコのリードを奪い、「ハナコご飯食べようね」と連れ去った。

「俺だって俺のプライドがある! 自分の生き様くらい自分で決めさせろ!」

 そんな真治に気づくこともなく、剛久は怒鳴る。その目は興奮で血走っている。

「お前、馬鹿なのか! 死ぬんだよ! お前が馬鹿みたいなプライドを貫き続けると、お前は死ぬんだ! 自分でも本当はわかってんだろうが! 無駄な意地張ってないでちゃんと現実を受け止めろよ! 久美さんがどれだけお前のことを心配してると思ってるんだ!」

 正明の怒りはおさまらない。

「お前は重要性を分かってない! お前が死んだらな、お前はもうこの世にいないんだぞ! 今当たり前に出来ている事は、お前が生きてるから出来るんだ! 命を粗末にするような事を、プライドだなんだって格好付けて言ってるだけで、お前のはただのガキのワガママだ! 生き様なんて偉そうな事を言うな!」

「なんだと!」

 剛久は正明に殴りかかった。正明も殴り返した。

 真治はそれを建物の陰から見て、

「あの歳になっても殴り合い出来る元気、僕にあるかな」とハナコに話しかけた。

 ハナコは「くぅーん」と首を傾げた。


 騒ぎを聞きつけた警察官がやって来て、正明と剛久の喧嘩は仲裁された。

 駐在所の警察官からの厳重注意を苦虫を噛み潰した顔で聞いた二人は、目を合わせることもなく別れた。

 陰から見守っていた真治も怒られた。

「喧嘩を見守ってはいけません」という注意を、口を尖らせて真治は聞いた。っそして思った。なんで僕まで。


 剛久は顔を腫らしたまま飲みに行き、苛立ちをぶつけるかのように豪快に飲んだ。

 正明に殴られた傷は飲み会の場では勲章に変わり、「さすが久保さん」ともてはやされた。気分が良いので体調も随分良くなった気がした。やはりあれは誤診だったと確信した。そう思って飲む酒は美味かった。

 良い気分で深夜に帰宅すると、家の電気が消えていた。

 いつもは剛久がどんなに遅くても電気が消えていることはなかった。「暗い家に帰るのは嫌でしょう」と新婚の頃から電気だけはついていた。少し緊張して自宅の鍵を開け、電気をつけて家に入る。自分の家なのによそよそしい感じがして、何故か忍び足で歩いてしまう。

 居間の電気を点けると、テーブルの上に二枚の紙が置いてあるのを見つけた。近寄ってみると、一枚は縦書きの便箋。一枚は離婚届だった。

 酔いがさーっと引くのがわかった。

 離婚届を手に取ってみる。妻側の欄には、久美の名が記入され、判が押されていた。

『もう私はあなたにほとほと愛想が尽きました。

あなたは引退しても警察官で、私や自分の体よりも後輩警官や記者の方が大切なのでしょう。

私はあなたのプライドで体を壊した後の面倒まで見たくありません。

あなたの家政婦ではありません。

出ていかせて頂きます。これまで永らくお世話になりました。

さようなら』

 便箋には久美の字でそう記されており、手に取ると下に置かれていたのであろう小さな紙がひらひらと舞った。慌てて手に取って確認すると、千切られた紙切れが数枚だった。見覚えのあるそれらをテーブルの上にならべて復元する。昔、新婚旅行で行った熱海の新幹線の切符だった。

 とにかく非常にまずい。剛久は焦り、どうしたらいいかと思案した。とにかく心当たりに声を掛けようと電話機の元へもつれる足で駆け寄って受話器を取ったところではっと我に返って壁にかかった時計を見る。

 深夜の二時。人に連絡を取るには、あまりに非常識な時間だった。どうしてもっと早く帰らなかったのかと自分を責めて、取り合えず受話器を置いた。

 どうしたらいいのだろう。混乱して、有益な策が思いつかない。剛久は一睡も出来ぬまま、朝を迎えた。


「え? お母さん? 来てないけど?」

 朝の七時ぴったりにかかってきた剛久からの電話に、娘の佳代かよはしれっと答えた。

 実際には久美は横におり、朝のニュースをぼんやりと眺めている。けれど少しくらい意地悪してやってもいいと思ったのだ。

 昨夜急に訪れた久美は、「何も言わずに泊めて」と言った。普段ならば絶対にこんなことはしない人だと知っていたから、佳代は驚いた。もちろん、断ることなど出来なかった。佳代は夫と子供に事情を話し、一緒に食卓を囲んだ。久美はいつも通りのようにも見えるし、いつもより明るいようにも見える。いずれにしても理由を聞かれたくないという強い意志を感じた佳代は、ただ遊びに来ただけの母として久美に接した夫は心配しながらも仕事に行き、子供も何かを言いたげな顔ではあったがそれを飲み込んで部活の朝練に出かけて行った。

  佳代と二人になってから、久美は静かに語りだした。

「お父さんとはもう一緒にいられない。あの人はね、お母さんよりも男のプライドとか、付き合いの方が大事なのよ」

 久美の話を聞くうちに、とうとうお母さんを怒らせたのかと佳代は思った。いつかはこんな日がくると思っていたのだ。むしろ今までわがままな父によく耐えたと久美の頑張りを称えたい気持ちにもなった。

 体調不良を圧して飲みに行くその姿勢も、病気を認められないのか認めたくないのか分からないが、とにかく大人げない。娘として佳代も一緒になって呆れてしまう。

「お父さんは、死にたいのかね?」

 最後まで話を聞いて、口から出た感想はそれだった。死にたいのだろうか。自分の体が不調を訴えているのに、苦しいのは自分のはずなのにそれをいじめるような真似をする剛久の心境が、佳代には理解が出来ない。

 佳代の言葉を聞いて、久美は深いため息をついた。

「私がお父さんのお仕事をずっと支えてきたのはね、やっぱり人のために尽くす尊いお仕事をしていて、その使命を守ろうとするお父さんが格好良かったからなのよ。なのにお父さんたら、いつまで経ってもそのときの栄光が忘れられないの。いつまで経っても気分は警察官で、私の夫にはなってくれないの。私と向き合ってるよりも、事件や後輩とお酒を飲んでる方が楽しいのね。きっと。結局私のことなんてどうでもいいのよ。都合の良い家政婦さんなんでしょうね。体調をくずしたって、私が面倒を見るのが当たり前だと思っているんだわ」

 佳代は久美の言い分に頷く。

「確かに。お父さんはお母さんに甘えてるよね」

 生まれてこの方、剛久が佳代の行事に参加してくれた記憶はない。家族サービスという単語は久保家には無縁だった。仕事柄でも、剛久の性格上の問題でもあり、当然久美が剛久に感謝を伝えられている姿も見たことがない。

「だってお父さんたらね! 引退したらまた熱海に行こうなって約束したの、

絶対忘れてるわ! 引退したらお前の事を絶対に大切にするからって言ってくれた事もあったのに……」

 興奮気味に訴えたあと、久美はうなだれた。そんな久美を見て、佳代は思った。お母さん、お父さんのこと、大好きなんだな。

「それにお父さんが先に死んだら、って思うと、私……」

 目に涙を浮かべた久美が言葉に詰まったタイミングで、インターホンが鳴った。佳代は立ち上がる。こんな早朝に来訪者があるなんて珍しい。きっと父が母を探してここまで来たに違いない。

 全く、熱海くらい連れて行ってあげなさいよ。佳代は父譲りのどすどすした歩き方で、玄関に向かった。



「聞いたぞ。久美さんに土下座で許してもらったんだってな」

 正明は診察室で勝ち誇った顔をした。

「……」

 そっぽをむいて返事をしない剛久に、正明は先ほどより柔らかい口調で言った。

「まあ、良かったじゃないか。許してもらえて。酒もやめてくれてるなら、俺としても文句はないよ」

 剛久は不貞腐れた表情で、吐き捨てるように言った。

「俺の周りはお節介ばかりだ」

 そんな姿を見て、正明は笑った。

「それだけお前が心配なんだよ。それが嫌なら一人で山小屋にでも暮らすんだな」

 剛久はまた押し黙る。

「ま、長生きしてくれよ。もう喧嘩はこりごりだけどな」

 正明は自分の頬をさすった。

 それを見て剛久も自分の頬をさすった。そして思わず苦笑した。

「まさかこの歳で殴り合うとは思わなかった」

 正明も剛久と同じ表情をして答えた。

「俺もだよ」


 剛久は診療所の帰りに本屋に寄り、熱海の観光ガイドの本を買った。あの日は久美に土下座をし、近々熱海に連れていくことを約束させられた。

 熱海で済むなら安いものだと剛久は散々佳代に言われて、それからというもの、久美に対して少し気を遣うようになった。

 剛久が本屋から出たところで、携帯電話が鳴った。いつもの後輩から、飲みに行きませんかという誘いの電話だった。

 剛久はもちろん断る。

「今日? いや、空いてなくはないけど。酒は飲まんぞ」

 電話の向こうで、相手は驚きのあまり言葉を失った。その姿を想像したら愉快で、剛久は付け足した。

「そうだ。青汁なら、付き合ってやってもいいけどな」

 剛久は健康のために、歩いて帰ることにした。悔しいが処方された薬を飲んでからは、少し調子が良いのだ。体に気を付けて、もう少し妻に恩返ししてからでないと、死ぬに死ねない。久々に久美の涙を見て、剛久は反省していた。

 それにしても。

 久美はまだ、俺のことが好きだったんだなあと思う。結局は、剛久に長生きして欲しくて、一緒にどこかに行きたいなどと、自分の妻は案外可愛いことを望んでいたのだと思うと口元がにやける。

 手に持ったガイドブックをぱらぱらとめくり、そうだ。せっかくならあのとき泊まった宿屋にもう一度行こうと思った。久美にあの宿屋の名前を憶えているか聞くべきか、いやそれともアルバムをたどって自分で調べて久美を驚かせるべきか。そんなことを考えていると、自然と足取りは弾む。

 もう少し、長生きしないとなと改めて思う。そしてそう思える幸せをかみしめて、剛久は妻の待つ家へと帰るのだった。

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