診察15【阿部裕樹】前編

 夜の八時。本来の診療時間はとっくに過ぎ、昼間の賑やかさとは打って変わった静かな診療所で、真治は患者と向き合う。今日は月に一度、特別に予約診療で受け付けている患者、阿部裕樹あべゆうきの診察の日なのだ。

「調子はどうだい?」

 優しく問いかける真治に、裕樹は力なく返事をした。

「変わらない、かな」

 真治は「そうか」と言って頷いた。裕樹は真治の患者でもあり、少年時代を共に過ごした同い年の友人でもある。口調は自然と砕けたものになる。

「少しは眠れる?」

 裕樹は真治と目を合わせることなく

「うん……。いや、実は、さ」と歯切れの悪い返事をした後、しばらく黙り込んだ。貧乏ゆすりをして、口元では右手の親指の爪を噛んでいる。真治はそのボロボロの爪を見て少し悲しげな表情を浮かべはしたものの、急かすことなく裕樹の話の続きを待った。

「もうすぐ、帰ってくるみたいなんだ。それで、考えちゃって、眠れなくなって……」

「帰ってくる? 予定より早まったのか?」

 真治は裕樹の告白に驚いて立ち上がった。

 裕樹は爪を口元から離すことなく続けた。

「うん……。少し早まったみたいで……」

「そうか……」

 真治は言葉に詰まり、すとんと椅子に落ちるように腰掛けた。

 裕樹の兄、修斗しゅうとが帰ってくる。それは喜んでいいのか、悲しんでいいのか分からないニュースだ。


 呑み処『かえで』で、真治は竹中慎也と向き合っていた。今日はカウンターでなく、奥のテーブルに二人で座っている。お互いの手元のグラスの中身は烏龍茶で、ノンアルコールであることを示すストローが刺さっていた。

「そうか、いよいよか……」

 慎也は腕を組んで呟いた。それは、難しい問題だった。

 慎也は裕樹と真治とよく一緒に遊んだ仲だ。慎也が真治が少年だった頃は、まだ村にもっと子供がいて、賑やかだった。どちらかと言えば大人しい少年だった真治と裕樹は相性が良く、いつも一緒にいた。

 けれど慎也が誘えば、少しやんちゃな遊びにもケラケラと笑いながら付いてきた。一人っ子の慎也は弟が出来たようで誇らしく、積極的に真治と裕樹を遊びに誘った。いつの間にか二人を放って置けない使命感のようなものまで芽生えた。

 裕樹には、慎也より一つ上、裕樹とは三つ違いの兄がいた。裕樹の兄、修斗は利発で、大人に好かれる優等生だった。慎也とはタイプがまるで違ったのであまり接点はなかったが、同じ学校にいれば嫌でも名前や存在が知れるほどの優秀さに、慎也は少し嫉妬したことを覚えている。

「今更、どうしたらいいんだろうな……」

 そう言って真治はうなだれた。

 慎也はやるせない気持ちで、目の前の冷めた軟骨唐揚げを口に運んだ。味はよく分からなかった。

「うん。本当に、今更だよなあ……」


 裕樹の兄、修斗が逮捕されたのはもう十年も前の話だ。将来を期待され、都会で優良企業に就職したはずの修斗は、家族も知らない内に落ちぶれていて、その頃流行り出した詐欺の首謀者として逮捕されてしまった。

 兄に憧れていた裕樹の落胆ぶりは相当なものだった。慎也はその姿を見て心を痛め、けれどなんと声をかければ良いのか分からずに悩んだ。苦しむ裕樹に、中途半端な言葉はかけられないと思ったからだ。

 だが、裕樹の受難は、むしろそこからが本番だった。小さな町工場だった裕樹の家は廃業を余儀なくされ、後を継ぐ筈だった裕樹も一転無職になった。

 母親は寝込んだ末に病気で亡くなり、父親は塞ぎ込んでしまった。

 裕樹はなんとか仕事を探したが、狭い田舎で事件を知らない者はなく、受け入れてくれるところはなかった。仕方なく、しばらく切り崩した貯金で暮らしていた。

 真治が診療所に帰ってきた頃には、裕樹はもうすっかり過去の面影をなくしていた。事情を知ったところで、真治にも慎也にも出来ることはなく、各々己の無力さに歯噛みした。

 その後裕樹がなんとか探した就職先は、小さなパン屋の手伝いだった。決して待遇がいいとは言えなかったが、「雇ってもらえるだけでありがたい」と裕樹は言った。だから真治も慎也も心から応援し、新たな門出だと祝福した。

 裕樹も張り切って早朝から遅くまで精一杯働いた。それなのに三ヶ月目に突然、裕樹はパン屋の主人から解雇を言い渡された。

「どうしてですか?」と裕樹は聞いた。辞めさせられる心当たりはないと思っての発言だった。

 パン屋の主人は悲しげに

「犯罪者の弟が焼いたパンを食べたくない、って苦情が来て、それ以来、うちの売り上げが落ちているんだ。事情も知っているし、雇ってあげたい。だけど、人を雇える程の売り上げがそもそもなくなってしまった」と答えたそうだ。

 その話を裕樹から聞いた時、慎也の心臓はドクンと大きく跳ねた。まさかそんなことが起こるなんて。

「俺のことをそんな風に言ったのは、いつも『頑張りなさいよ』って言う常連だったあのおばちゃんだったかもしれないし、普通に俺の知り合いの人かもしれない。だけどみんな、表立っては俺を励ますんだ。『負けないで、応援してる』ってね。接客中に直接嫌な顔をされたことはないんだよ。だから、誰も信用出来ない。誰一人、俺に味方なんていないんだ」

 そう言った裕樹の瞳は虚空を見つめていた。

 慎也にとって救うべき村の誰かが、真治にとって救うべき村の誰かが、大切な友人に悪意に満ちた事をする。誰だかは分からない。それが余計に怖かった。


 裕樹の父が亡くなったのは、それから程なくしてだった。

 当時まだ若手だった慎也がたまたま当番だった。深夜の通報で駆けつけたとき、裕樹の父はもうこの世の人ではなくなっていた。

 包丁で、自らの胸を刺していた。

 遺書とみられる紙には『息子の不手際は親の責任』という趣旨のことが書かれており、紙の端が赤く染まったそれを見たとき、慎也は息を飲んだ。

 現実だと思いたくなかった。こんな不幸な結末、誰が望んだと言うのだろう。

 裕樹の就労に心ない発言をした人は、この結末を望んだのだろうか。もしくは、裕樹がこうなることを……?

 慎也は頭を振って、泥沼にはまりそうな思考を強制終了した。

 今の自分は裕樹の友人としてではなく、通報で駆けつけた消防署員としてここにいる。とは言え、裕樹の父に慎也が出来ることはほとんどなかった。

 そういえば、裕樹はどうしているのだと、その姿を探した。

 裕樹は、部屋の隅で体育座りで丸まっていた。体を震わせて虚空を見つめる裕樹は、通報が出来ただけでも奇跡だと思える状態だった。警察官が横に座って懸命に話しかけているが、耳に入っているかは分からない。

 裕樹の家を出るとき、外には野次馬で人だかりが出来ていた。

 この中に裕樹を、そして裕樹の父を追い詰めた人物がいるかもしれないと慎也は思った。

 どうだ。これで満足か? 一人一人に問いたい想いだったが、堪えた。

 この村の人を盲信的に救いたいと思っていた慎也が、その救うべき村の住人を無差別に憎いと思ったのは、初めてだった。



 裕樹の診察をし、慎也と『かえで』で頭を抱えた翌日、真治は仕事が終わってから、裕樹の家を訪ねた。昨日の診察でほとんど裕樹の気持ちを聞き出すことは出来なかった。今日こそは、と思っていた。

 裕樹の家の庭に車を停めた。助手席に置かれた弁当の入った袋を手に取り、車から降りる。

 裕樹は在宅で細々と内職や、パソコンで出来る在宅ワークをこなしてなんとか生計を立てている。ほとんど家から出ることはない。

 真治はインターフォンを鳴らして、じっとカメラの前で待った。

夜の静けさに、虫の声が響いている。家の中からは、なんの音も聞こえてこない。

 ほどなくして、玄関の戸がゆっくりと開いて、裕樹が隙間から顔を出した。真治は弁当の袋を掲げて見せた。中身は二人分の唐揚げ弁当だ。真治が裕樹の家を訪ねるときは、いつも手土産に弁当を買ってくることにしている。買い物にも最低限しか出かけない裕樹の食生活が決して豊かなものではないことを、真治は知っている。

 玄関から入ってすぐ左手の裕樹の部屋で、二人で唐揚げ弁当を食べる。

 他の全ての部屋が空いているのに、裕樹はいつもこの部屋にいる。

 裕樹の父と母の遺品、そして兄の残していった荷物は、そのままの姿でそこに残っている。どんな気持ちで裕樹がそうしているのかが、真治には分からない。片付ける体力がないだけだと裕樹は言う。果たして本当にそれだけなのだろうか。

 もそもそとぬるくなった弁当を食べ終わり、ペットボトルのお茶を飲む。真治はそうしながらも、裕樹の様子を伺っていた。診療所に来たときとあまり変わりはないようだ。

 よし。これなら、と真治は思った。今日訪れたのは、昨日聞ききれなかった裕樹の本音を聞きたいのと同時に、友人として伝えたいことがあってのことだった。

 裕樹が食べ終わって、袋に弁当箱の空容器を入れる姿を見て、真治は切り出した。

「なあ、裕樹。僕は今日、医者としてじゃなくて、裕樹の友達として遊びに来たんだ」

「……うん」

 裕樹の右手の親指が口元に伸びる。裕樹が不安な気持ちになったサインだ。けれど真治は話をやめない。これは絶対に話しておかなければならないことだと自分に言い聞かせ、口を開く。

「お兄さんの、修斗さんの事なんだけど、少し話をしないか」

 裕樹は真治の言葉を聞いて、膝を抱えて体育座りの姿勢になった。相変わらず親指は口元から離れない。

「うん。兄貴、ね」

 少し上の空にも聞こえるような声色で、裕樹は答えた。

「すごく残酷な言い方だけど……」

 真治は慎重に言葉を選ぶ。視線はあちこちに飛んだ。

「お兄さんの面倒、裕樹が見る必要ってあるのか?」

 しばらく待っても裕樹は返事をしない。なるべく柔らかい口調を心がけて、真治は続けた。

「拒否する、ってことは出来ないのか?」

 裕樹はなかなか口を開かない。しかし急かしてはならない。真治は裕樹の返事をじっと待った。

 しばしの沈黙の後、裕樹が口を開いた。

「……それは」

 口が乾いていたのか、声が掠れた。咳払いをして、裕樹は言い直した。

「それは、俺に兄貴と縁を切れってことだよね?」

 真治は頷いた。

「……まあ、そうなる」

 重々しい空気が、二人を支配する。

 裕樹はため息をつくと、立ち上がって別の部屋へと姿を消した。そしてすぐに紙袋を持って戻ってきて、その袋をどさっと真治の前に下ろした。

「見て。中も開けて良いから」

 真治は言われた通りに袋を除く。中には大量の手紙が入っていた。

『阿部裕樹様』と書かれた封筒を手に取り、裏返す。差出人は『阿部修斗』。真治は裕樹の顔を見た。裕樹は小さく頷いた。

 真治は深呼吸をして、封筒の中から手紙を取り出した。二つ折りになっているそれを、開いて読んだ。隅に小さな判子が押されているのが、少し気になった。

『裕樹へ

すっかり暑くなったな。最近は元気にしているか?

あ、返事はしなくていい。

俺はこの手紙をお前が拒否せずに受け取ってくれている事に本当に感謝している。

俺に家族はもうお前しかいないし、他に手紙を送るあてもない。

ただ、お前の事を思ってペンを走らせる事が出来るだけで幸せなんだ。中にはそれも出来ない人が沢山いる。

本当にありがとう、裕樹。

と言っても相変わらずの日常で、報告することも特にない。記録的な猛暑と聞いて、田舎の気候を思い浮かべる位だ。

あの頃の夏って、今より暑かった気がしないか?

気温だけでいえばもちろん今の方が暑いんだろうが、俺はお前と他の友達とセミ取りをした思い出が蘇る。

ジリジリと麦わら帽子を突き刺す日差しは、今より痛かったよな。

俺はこんな感じだけど、裕樹はどうだろう。

元気でやっていてくれ。

俺がこんな事を言うのはおこがましいが、俺はお前の幸せを願っている。

彼女が出来たら教えてほしい。それだけで、俺は満足なんだ。

さて、長くなったが読んでくれてありがとう。

体に気をつけて。

良ければお袋と親父に線香をあげておいて欲しい。それでは。

阿部修斗』


 真治は、手紙をそっと封筒に戻した。それを待っていたらしい裕樹は、真治に問いかけた。

「ねえ。どう思った?」

 真治は裕樹の顔を見た。裕樹の視線は焦点の定まっていなかった先ほどとは違い、強い光を放っていた。その表情に鬼気迫る何かを感じた真治はごくりと喉を鳴らした。

「どう、って……」

 それきり言葉に詰まった真治に、裕樹は重ねて問う。

「兄貴、ずいぶん呑気でしょう」

「うん、まあ……」

 手紙では裕樹の彼女のことに触れていた。裕樹は今、そんなことを考えられる余裕はないのにと、その温度差に真治は少しだけ腹を立てていた。

「毎月送られてくるんだ。月に一通、必ずね。十年たまれば百二十通になるんだ。それだけ、兄貴は俺のことを考えてペンを握ったんだ。俺が手紙を送ることはほとんどないんだけど、兄貴はそれでも毎月毎月手紙を寄越すよ。中身は下らないことかもしれない。でも俺を思って長い間、毎回毎回律儀に手紙をくれたんだ。今まで一度もサボることなくね。俺は、俺を貶める近くの他人よりも、よっぽど兄貴の方が俺のことを考えてくれていると思う」

 真治は黙って話を聞く。

「だけど、こうなったのは兄貴のせいなんだよ。兄貴が何もしなければ、今頃俺は結婚して、幸せな家庭を築いてたかもしれなくて、そもそも父さんの仕事を継いでたはずなんだ。毎日仕事をしに外に出て、大変だよってぼやいて、真治とだって飲みに行ったりしてたんだよきっと。だけどそういう当たり前の生活を、兄貴が全部奪った。それは事実なんだ。もう戻れない」

 裕樹は自分の頭を乱暴に掻きむしった。

「ねえ。どうしたら良いんだろう。俺は、俺の勝手で兄貴を見捨てるなんて出来ないよ。もう家族は兄貴しかいない。兄貴にだって、俺しかいないんだ。それでも俺は兄貴を拒絶するべきなのかな。この手紙を全部、なかったことにしないといけないのかな」

 真治は下唇を噛み、俯いた。

「兄貴がいなければって思ったことも勿論あるよ。数え切れないくらいそう思ってきた。でも兄貴を失ったらって思うと、俺は怖い。だってもう俺には兄貴しかいないから。俺にはもうなんにもないんだよ」

 裕樹はそう言って、頭まで抱えて丸まった。そして体を小刻みに震わせた。

 傷付いた友人が必死に身を守ろうとするその姿に真治は言葉を失い、それ以上、何も言い返すことが出来なかった。

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