診察13【原田薫子】

 どうも熱っぽいな、と原田薫子は思っていた。

「薫子さん、これ、こうで良いですか?」

 診察の終わった診療所の待合室で、真治と診療所内の装飾を変更していた。季節に応じて折り紙を貼り替えるのだが、真治はいつも頼まなくても手伝ってくれる。

「ああ、えーっと、もうちょっと斜めに、あ。逆。そうそう」

 折り紙で作ったどんぐりを待合室の壁に貼り付けていた。

 角度が大事だ、と薫子は思っている。折り紙がうるさすぎず、かつその可愛さを存分に発揮する為には、貼り付ける角度に妥協をしてはならない。ここで少しでも納得がいかないと仕事中もずっと気になってしまい、薫子の精神衛生上良くないのだ。

「薫子さん? 薫子さん!」

 はっと気付くと真治が心配そうに覗き込んでいる。

「大丈夫ですか?」

 少し疲れているのかもしれない。上手く集中出来ず、意識が少し飛んでいた。

「あ、ちょっとぼーっとしちゃって……」

力なく返すと真治は薫子の額に手を当てた。

「あれ? 熱があるんじゃないですか? 熱いですよ!」

 真治は薫子を椅子に座らせると、いつも自分が使っている診察室に入っていった。

 薫子はああ、やっぱり熱があったのかと納得した。受付をしている間はなんともなかったのだが、終わった途端に異変を感じた。どうもだるくて、頭が上手く働かない。

 自分がいつも座っているはずの受付を眺めた。患者さんにはこう見えているのかと、なんだか新鮮な気持ちになった。

 真治が戻ってきて体温計を手渡され、いくつかの問診に答える。喉が腫れていないかなどを確認された後、「風邪ですかね」と診断を下された。

 明日は仕事をお休みすることになった。帰りはよほど心配だったのかハナコの散歩から帰った正明も一緒に薫子の車が発進するまで見送られた。

「早く元気になって下さいね」と言う真治の言葉に続いて、

「そうだそうだ。薫子さんがいないと診療所の華がなくなる」と正明が言った。

 二人の心配そうな顔を見て、早く治さないとな、と思った。


 翌日、薫子は自室の天井を見上げてぼんやりと時を過ごした。

 いつもは診療所で笑顔を振りまいている時間だ。カーテンを閉じていても明るい陽射しが漏れてくる。

 和室に不似合いなピンクのカーテンと、アンティークな装飾の施されたベッド。お線香の匂いがする平屋の和風家屋で、薫子の部屋だけが浮いていた。

 しかし薫子はこの空間でこそ心安らぐ事が出来る。

 年老いた両親と三人で暮らす薫子に、この家から出るという選択肢はない。自分好みに築き上げた自室は、その覚悟の現れでもあった。私の居場所はこの家にあるのだと、大きなベッドが届いて目を白黒させた両親を納得させたのは、今では良い思い出だ。

 ふと、部屋を仕切るふすまからノックが聞こえた。

 返事をする前に顔を覗かせたのは、結婚して別の家に暮らしているはずの妹の櫻子さくらこだった。


「お姉ちゃん、大丈夫?」

 言いながら櫻子は薫子のそばに寄り、ベッドのふちに手をかけて薫子の顔を覗き込んだ。

「昨日から全然食べてないって聞いたよ。ゼリー買ってきたけど、これなら食べられる?」

 櫻子が手に持っていた袋に手を入れ、ガサガサという音を響かせる。

「櫻子ちゃん」

「なに?」

「感染るかもしれないよ」

 櫻子は手を止め、薫子の顔をまじまじと見つめた。

 全く、姉はこんな時まで姉なのだ。真っ赤な顔をして、口で呼吸している癖に、妹の方を心配する。櫻子は内心でため息をつきながら、それを悟らせないために明るい声を出した。

「大丈夫!私は今絶好調だから、風邪なんか伝染らない。それよりもほら、ゼリー食べなよ」

 櫻子がそう言って差し出したのは、メロン味のゼリーだった。

 薫子は緩慢な動作で起き上がり、櫻子からゼリーを受け取った。フィルムを剥がそうと苦戦しているところで櫻子が見かねて手を貸した。

「櫻子ちゃん」

「なに」

「ごめんね」

 ゼリーのフィルムを剥がして手渡すと、薫子は申し訳なさそうな顔をした。

「お姉ちゃん、さあ」

今 度は聞こえるようにため息をついて、櫻子は続ける。

「ちょっとくらい私の事、頼ってくれていいんだよ」

 薫子は今、一人で年老いた両親の面倒を見ている。いくら長女だとはいえ、櫻子の手を借りずに完璧にやってのけようとする姉が、櫻子は心配だった。

 櫻子は結婚をして家を出てはいるが、車でならすぐに来られる距離に住んでいるし、子供も大きくなってほとんど手はかからない。何度も手伝う意思を表明してもいる。金銭面でも生活面でも、櫻子が少しでも援助出来れば、それだけ薫子は楽になるはずだと何度説得しても、薫子は首を縦に振ることはなく、やんわりとした言い方で、それでも明確に拒否の意思を示す。

 そして決まってこう言うのだ。

「私、若い頃、散々迷惑かけたから」


 若かりし日の薫子は、自信に溢れ、妹の櫻子の目から見ても輝いていた。姉のようになりたくて、ファッションやメイクも真似をした。お洒落な姉は憧れの象徴だった。友達からも羨ましがられた。櫻子の自慢だった。

 何度も都会に遊びに行くうちに、薫子はいつしか音楽にのめり込むようになった。ファッションの系統も派手になり、家に帰ってくることが減った。そうなってからは、周囲の評価はガラッと変わった。「櫻子のお姉ちゃんは、ちょっと危ない人」とヒソヒソと囁かれるようになり、この田舎では姉の個性が受け入れられないのだと櫻子は心を痛めた。

 たまに帰ってくると、古風な考えの両親と衝突していた。櫻子は幼い頃から可愛がってくれた優しい姉と、一般常識を唱える両親の間でどちらの味方をすることも出来ず、ただおろおろと見ているだけの無力な自分に嫌気がさした。

 ただ、今までだったら従順に両親の考えを立てていた姉の変貌ぶりに動揺していた。時々帰ってきて田舎の平穏な日々を破壊し、波風を立てて去っていく姉に、櫻子は次第に負の感情を向けるようになっていた。

 お姉ちゃんさえ帰ってこなければ、こんな思いをしなくて済むのに。

櫻子の思いを知ってか知らずか、丁度そのタイミングで、薫子は実家を出た。悲しげに「私はきっとここにいるべきではないの」と言った薫子の顔を、櫻子は忘れることが出来ない。

 薫子が実家を離れていたときのことは、櫻子はあまり知らない。

しかし一度だけ、深夜に帰ってきて両親に頭を下げる薫子を、ふすまの隙間越しに見てしまった事がある。

「お願いします! もう当てがないんです!」

「いい加減そんな男と別れろと言っているだろう! うちに金はない! お前、その男にいくら払えば気が済むんだ!」

 泣きながら土下座をする姉と、怒り狂う父、それを見てすすり泣く母はさながらドラマの一場面のようで、見てはいけないものを見てしまった、と息を殺して自室に帰った。翌朝には薫子ははいなくなっていた。

 それ以降は薫子の話をなんとなく切り出しづらくなり、両親からも話を振られることはなかった。しかし両親の会話の端々から、薫子がロクな男と付き合っておらず、あまり幸せな生活を送っていないことはなんとなく察した。

 しばらく経って、櫻子が今の夫と結婚を考え始めた頃。それまで音信不通だった薫子は唐突に家に帰ってきた。その姿はやつれていて、ひと目で何かあったと分かるほど疲れ果てていた。

「櫻子ちゃん、もう、お姉ちゃん、疲れちゃった。駄目なお姉ちゃんで、本当にごめんなさい」

 薫子は櫻子の顔を見るなり縋り付いて泣いた。櫻子は人生で初めての経験に戸惑った。けれどなりふり構わず声をあげて泣くほど弱った姉に何かをしてあげたくて、背中にそっと手を回した。

 気付くと一緒に泣いていた。姉の悲しみが自分の手を通して伝わってくるかのようで、後から後から涙が溢れた。

 それ以来、薫子はずっと実家にいる。

 櫻子に言うことはなかったけれど、母に聞いた話によると、薫子は子供を失ったらしい。大事に大事に十ヶ月守り抜いた我が子が、この世で産声を上げることはなかった。いわゆる死産、というものだったそうだ。

もう性別もわかっていて、名前も決めていて、けれどその名前を呼んで返事をするはずの我が子を失い、元々父親になる覚悟も出来ていなかった相手の男もそれを受け入れられず、薫子は家族の元に帰ってきたのだ。

 櫻子は、薫子が自分の人生の祝い事に喜ぶ度、小さな罪悪感を抱えてきた。

皆に祝われる結婚式を挙げた時。子供が生まれた時。その子供の成長と共に訪れる数々の祝い事。

 薫子の身にも訪れるはずだったその幸せを、目の前で自分だけが果たしていくたび、櫻子は薫子の様子をさりげなく、けれど注意深く観察した。

 薫子は決して自分の悲しみを表に出すことはなかった。常に明るく、笑っていた。

 そして何より両親に献身的に接した。きっと罪滅ぼしだったのだろうと櫻子は思う。初めは嫌味ばかりを言っていた両親も、そのうち薫子なしでは生活出来ないほどに薫子を頼った。本来の、櫻子が憧れていた理想の姉の姿に戻ったのだと思えた。

 そうやって優等生に過ごしている傍らで、薫子の部屋はどんどんピンク色に変化した。櫻子が何かを言う前に、母に止められた。

「薫子の子供は娘だったのよ」。櫻子は薫子の心の傷を垣間見たような気がして、部屋やファッションの変化については何も言うまいと心に誓った。



 薫子のいない診療所では、受付を正明がやっていた。

「はいじゃあ問診票書いて」

「いつもの薬だけでいいんだよ? 問診票、必要?」

「ああ、じゃあいらないか。えーっと、カルテカルテ……」

「院長先生、大丈夫? 手伝いましょうか?」

 あまりの手際の悪さに、見かねた患者が手を貸そうとするが、正明は鼻の穴を広げて胸を張って言う。

「大丈夫だよ。俺の診療所だぞ。患者さんに手伝ってもらう訳にはいかないよ」

「でも……」

「大丈夫だよ院長先生!俺ら急がないから、ゆっくりやってくれ!」

 患者さんから心配されて励まされる度、正明は内心、かなり焦っていた。

いかに薫子さんが円滑に診療所を回してくれているのか、忘れたつもりはなかったが、改めて思い知った。

「原田さん、早く元気になるといいねえ」と話し合う患者さんの意見に、正明は心から同意した。

 その日の待合室は、診察を終えた患者さんがすぐ帰るので、記録的なほど、空いていたそうで。



「お姉ちゃん昔さ」

「うん?」

 薫子はゼリーを食べながらゆっくりと櫻子に顔を向けた。

「具合悪かった時、プリン食べて戻しちゃってさ。『プリンのせいだ!』って言ってしばらくプリン、食べなかった時期あったよね」

「あったあった」

「お母さんがプリン買ってきても、『櫻子、食べな』って」

「本当にプリンのせいだと思ったのよ」

 薫子は恥ずかしそうに笑っている。

「だから今日はゼリーにしてみました。お母さん、私に焦って電話してきて、『薫子が具合悪いって仕事休むなんてよっぽどよ!』って」

「あはは。ごめんねえ」

「いいんだよ。お姉ちゃんにたまには貸しを作らせてよ」

「えー怖いなあ」

 口の端を挙げてゼリーをゆっくり口に含む薫子を見て、櫻子は言う。

「ねえお姉ちゃん」

「うん?」

「いつも、お疲れ様」

 ごめんね、って言うと謙遜するし、ありがとう、って言うと遠慮する姉にかけられる言葉は、結局いつもこれしかない。

「うふふ。櫻子ちゃん、ありがとう」

 薫子の笑顔を見ると、櫻子は安心する。

「早く元気になってね。患者さん、寂しがってるよきっと」

「そうかなあ」

 穏やかに笑う薫子の肩にはたくさんのものが載っている。一人でなんでも背負う姉の荷物を代わりに背負うことは出来ないけど、少し支えてあげるくらいなら、いいでしょ、お姉ちゃん。

 櫻子はこれからも薫子に寄り添って生きたいと願った。

「そうだよ。みんな、お姉ちゃん大好きなんだから。さすが、私の自慢のお姉ちゃんだよ」



 休診日を挟んで二日ぶりに出勤した診療所は、いつも通り薫子を迎えてくれた。が、薫子が着替えて受付の準備をしようとすると、いつもと配列の違うペンや用紙の荒れ方に、一生懸命に頑張ってくれたであろう正明と真治の奮闘の跡を見つけた。

 ああ、迷惑かけちゃったなあ、と思いながらいつもの配置に戻していると、真治が薫子の元へとやってきた。

「薫子さん! 大丈夫ですか?」

 その心配そうな表情を少しでも和らげようと、薫子は笑みを浮かべて返事をする。

「ええ。お陰様で。ご迷惑をお掛けしてすみませんでした」

 あからさまにほっとした顔の真治は、

「あまり無理しないで下さいね」と診察室へ入っていった。

 続いて正明が、

「薫子さん! 良かった! 元気になって」と笑みを浮かべて現れた。

 その白衣の裾に泥汚れを見つけた薫子はひとまず「ありがとうございます」と礼を言い、

「院長先生、白衣が汚れてますよ。ハナコと遊ぶ時は、ちゃんと白衣を脱がないと駄目ですよ」と嗜めた。


「あ」

 正明は白衣の汚れに気づき、着替える為に院長室へと走っていった。その後ろ姿を見て、薫子は笑いを堪えきれずに吹き出した。

 まったく、私がいないと駄目なんだから、とやさしい気持ちになったとき、受付に置かれたデジタル時計のアラームが「ピピピピピ」と鳴った。

 静かな待合室に響くその音は、もうすぐ診察時間が始まることを告げる合図だ。薫子はアラームを止め、診療所の入口の鍵とシャッターを開けるために立ち上がった。

 シャッターを開けると、外で待っていた患者達は薫子の顔を見て「もう大丈夫なんだね」「あんまり無理しないでね」と笑顔を見せた。その顔を見て、薫子も思わず笑顔になった。

 なるべく多くの患者さんを笑顔に出来ますようにと誓い、薫子は今日も受付に座って、笑顔を振りまく。

 診療所の待合室は今日も、多くの患者で賑わっている。

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