真治の休日前夜

 真治は診療所の定休日に従って週休二日制で働いている。

 時として休日診療や往診に応じる場合もあるし、入院患者がいる場合は正明と相談しての調整が必要になるが、概ね水曜日と日曜日は定休日として自由に過ごしている。

 月に一度、火曜日か土曜日の夜に真治は友人である竹中慎也たけなかしんやと飲みに行く。真治より二歳年上の慎也は近所に住んでいて、小学校にも一緒に通った幼なじみでもあり、今では地元の消防署員として働いている。


「それで?」

「だから、私は田舎の診療所の院長夫人なんかで終わるつもりないからって」

 診療所の近くの『飲み処 かえで』は慎也と真治の行きつけだ。

 薫子さんと同世代くらいと思われる貫禄のあるかえでママが営むこじんまりとした店だが、娯楽の少ないこの村の男達の溜まり場としていつも賑わっている。

 真治と慎也は騒がしい店内のカウンターに並んで座り、ちびりちびりと酒を嗜みながら、思い出話をしていた。

「そりゃあ、ひでえな」

「そう。見事にフラれた訳だよ」

 真治は帰郷して診療所に戻って来るまでは彼女がいた。その彼女との別れの際の話をしているのだった。

「まあ、ついて来い、とまでは言わないけど、他に言いようがあるわなあ」

「そう! そうなんだよ! そんな言い方ってないだろ?」

 日頃付き合い程度でしか酒を飲まない真治は、すぐに酔っ払ってしまう。飲み始めたばかりだと言うのに顔は赤く染まっていて、その目元にはうっすら涙が滲んでいる。

「でも、正直に言ってくれてよかったじゃないか。あなたに魅力を感じないの、とか言われるよりは」

「それも、言ーわーれーたーのー!」

 真治は投げやりな口調で返事をしながら、カウンターに突っ伏した。

「うわ。追い討ち」

「そもそも、付き合ってても面白くないし、って」

 真治はカウンターに突っ伏したまま、顔を慎也の方に向け、腕の間から悲しげに語った。

 カウンターの向こうのかえでママが

「そんな、真治くんの魅力も分かんないような馬鹿女、別れて正解よ」とフォローを入れる。

 慎也もうんうん、と頷く。

 しかし何故か真治が必死に反論する。

「馬鹿じゃないんですママ! だって向こうも医者だったんだから……」

「医者同士か、俺には想像も出来ない世界だ……」

 慎也の呟きが聞こえたかは定かでないが、真治は続ける。

「気は強かったけど、それは向上心があるからで、自分の意思を持った芯の強い人だったんですけどね……」

「よく振られた女をそこまで庇うな。まだ未練があるんじゃないのか?」

 慎也は呆れたように言う。

 かえでママが

「そんな過去の女、忘れちゃいなさい! ないの? 浮いた話は?」と話題を逸らす。

 真治はすっかり氷が溶けて薄くなった緑茶ハイを飲み、

「ないから困ってるんじゃないですかー」と唸ってまたカウンターに突っ伏した。そして呟く。

「僕だって、彼女は欲しいんですよ」

 かえでママが「そういえば」と切り出す。

「あの子にも失恋しちゃったもんねえ。横井さんちの」

 慎也が思い出した、と言う顔で話を引き継ぐ。

「ああ、唯香ちゃんな。彼氏が迎えに来て都会に帰っちゃってなあ」

 言い終えてから、「元気出せよ」と真治の肩を叩いた。

「違う! 別に失恋してない! 患者さんの付き添いにいちいち恋してられないれす!」

 酔った真治の声は大きい。顔が赤いのは酔ったからなのか、話題のせいなのか。

「本当は可愛いと思ってたんじゃないのー?」

 かえでママが少し意地悪な口調で冷やかす。

「あの子は確かに可愛かったよな。可愛いってか、美人だな」

 慎也も話に乗り、少し意地悪な顔をして続ける。

「言っちゃえよ。本音は、可愛いと思ってたんだろ?」

 真治は頬を膨らませて、不貞腐れた顔で答えた。

「……ちょっとだけね」


「可哀想に」と大袈裟に驚くかえでママ。

「あたしで良ければ慰めてあげるわよ」

 営業スマイルを浮かべてウインクをするかえでママから真治は目を逸らす。

「そんな、本当にちょっと、ちょっとらけです」

 必死に弁解するものの、呂律が回っていない。

「でも今はあれだろ?先生が可愛いんじゃなかった?」 

 慎也が思い出した顔で話す声に被せて真治が「うわー!」と叫んだ。よほど動揺したのか、手が当たってグラスも倒した。

「あらあら」

 カウンターから出てきたかえでママが、ほとんど氷しか入っていなかったグラスを起こし、慣れた手つきで片付けていく。

 少し真治の膝が濡れたが、本人は気にしていないようだった。

「ちょっと、慎也! 内緒って言っただろ!」

 必死に慎也を咎める真治を見て、慎也は

「あれ、そうだっけ?」としらばっくれた。その顔は笑っている。

「あらあ。あたし、知らなかった!どんな人なの?」

 カウンター向こうに戻ったかえでママは興味津々で話の続きを促した。

「診察受けに来たんだけど、すぐ治っちゃって、嬉しいけど複雑って言ってたよな。真治」

 真治はかえでママが出してくれた卵焼きを頬張りながら「うるはい」と言った。

「そんでね、ママ、こいつ、学校の健康診断で見たんだって。仕事中の先生を。それを嬉しそうに俺に報告してきてさあ」

 得意げに語る慎也に真治は焦った顔で縋り付く。

「ちょっと! 本当にやめて下さい! 慎也さん! 慎也様!」

 カウンターに頬杖を突きながらかえでママが「へえ」と興味深そうに頷く。

「で、慎也くんは見たことあるの? その先生」

「あるよ。結構可愛いよ。目がでかくて。まあ、気が強そうではあるかな」

 真治は尚も語り続ける慎也に不貞腐れた視線を送り、目の前の皿に盛られた鳥の唐揚げを頬いっぱいに口に詰め込んだ。


「まあ、あたしはさ」

かえでママが言う。

「真治くんが選んだ人なら応援するわよ」

 真治が「だから!違う!違うんれす!」と否定すればするほど、かえでママの笑みは深くなり、慎也の顔も笑顔になる。

 かえでママは心の中で

「晴子、あんたの代わりに、真治くんが幸せになるとこ、見届けるからね」と呟いた。


「うう…」

 真治の休日は頭痛と吐き気という最悪のコンディションで始まった。

 昨日、結構飲んだんだっけ、と思い返そうとするも、帰ってきた記憶がない。遡ってみても大部分の記憶が欠落しているようだ。

 真治は痛む頭を抱えながら、慎也に

『昨日の記憶がない。もしかして送ってくれた?』とメッセージを送った。

 慎也からはすぐに

『そうだよ。俺が送ったよ。お前、途中で寝ちゃったから』と返信が返ってきた。

 なんてこった。全然覚えていない。焦った真治は

『ごめん! 本当にすいませんでした!』と平謝りのメッセージを再度送信する。

 すると慎也から

『いいよいいよ。昨日は面白い話、聞かせてもらったし』と返ってきた。

 面白い、話?

 全然記憶にない。どうしよう。迂闊なことを口走っていたら。

 真治は焦る。

 わざわざ慎也が面白い話なんて単語を使ってきたのだ。真治にとって恥ずかしい事に決まっている。

 焦って慎也に電話をかける。

 どうかどうか。広まって困る話を、言いふらされていませんように。

 その真治の願いを知っていて、わざと焦らすかのように、慎也はなかなか電話に出ず、真治の耳と頭に電話の発信音が響き渡るのだった。


 プルルルルルル。プルルルルル。

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