診察10【坂口香織】
うーん。胃が痛い。
流石に病院に行くべきかとため息をついた。自分の胃がここ数日静かに、けれど確実に痛みを訴えてくる原因は恐らくストレスであろうことは、行く前から察しがついた。
香織は三ヶ月前に仕事を辞めた。
就職するときに決めた目標額まで貯金が到達し、これでようやく自分の夢を追いかけられると意気込んで、給料日の翌日に退職願を提出した。写真家になりたいという夢を、ようやく追いかけることが出来ると思った。
香織が撮りたい写真は自然の美しさや四季の移ろいなど、日本独自の力強い根源の部分だった。自分の地元や職場の近くでは撮れないその雄大な景色を切り取って写真に収めたいと願う香織の言葉を真剣に受け止めて声をかけてくれたのは友人の
「うちで持ってる空き家があるから、よければ住んでみれば?」という、引っ越しを考えていた香織には断る理由など何一つない提案に「お願いします!」と飛びついて、唯香の実家のある長閑な田舎へ引っ越した。
「住んでくれた方が家も喜ぶわ」と言ってくれたのは唯香の母で、唯香の叔父夫婦が仕事の都合で引っ越してしまった為に空き家になってしまっていて、管理をするのも大変だから、いっそ誰かに貸そうかと思案していたところだったと言う。
「貸すって言ったって、借り手もなかったと思うけどね。こんな田舎じゃ」
そう言って笑い飛ばす笑顔は唯香に良く似ていた。更に唯香の母は娘と同じく面倒見が良く、水道もガスも電気も香織が越してくる前にはきちんと使えるようにしてくれていて、残してある家具も家電もそのまま使って良いと言って動作確認もしてくれていた。香織はその優しさに涙して何度も頭を下げ、
「泣いてる場合じゃないでしょ! 頑張りなさいね」と言ってくれた唯香の母の言葉に改めて絶対に成功してやると奮起して、新たな生活をスタートさせた。
自分の新しい人生が始まると期待に胸躍らせて、輝かしい未来を夢見てひたすら写真を撮り続ける日々。知らない地、知らない人、知らない動物に、知らない植物。空の色も雲の形も星の瞬きも、香織が見たことのない表情をしていた。
どれを撮っても、素敵な写真に思えた。これなら、きっと入選するに違いないとコンテストに片っ端から応募して、結果を待った。脳裏には、輝かしい賞を受賞した自分を思い浮かべた。浮かれ心地の毎日だった。
しかし世間はそう甘くないということを、コンテストの結果発表の日を迎える度に思い知らされた。何度確認しても、自分の名前と写真は載っていない結果発表を見ては落ち込み、新たな写真を撮ろうと思っても、また落選したらというネガティブな思考が頭をよぎる。それでもと撮影した写真は引っ越してきたばかりのときとは異なり、少し色褪せて見えた。
こんなに綺麗な自然が目の前にあって、こんなに飾り気のない人たちの営みが目の前にあって、シャッターチャンスばかりのこの暮らしの中で、どうして自分の切り取る一瞬は、こうもありふれたものになってしまうんだろうか。
夢に見ていた写真家への道の第一歩で、早くも躓いてしまった。そう思うが故の、胃の痛みだった。
いつものように首からカメラを下げて、家を出た。診療所へ向かう道の途中でも、片隅で健気に咲く小さな花や、偉そうに鳴いて存在を主張する鳥を写真に収めてはみるけれど、どれもしっくりこない。
「あ! かおりちゃん!」
立ち止まって写真を確認していると、ランドセルを背負った登校中の谷崎兄妹に声をかけられた。
「ねえ俺と優璃愛撮って!」
返事もしないうちに勝手にポーズをとる二人を見て、香織は苦笑いしながらレンズを向けてシャッターを押す。
仲の良い兄妹は、シャッターの音を聞いて楽しそうな笑い声を残して去った。この狭い街でカメラを持ってうろうろする香織はすっかり有名人だ。
「胃炎ですねえ」
診察室でカルテを書きながら真治が言った。香織はやっぱりな、と思いながら真治の言葉の続きを待った。
「刺激物はしばらく摂らずに、胃を休めてあげて下さい。大したことないと思って油断すると進行してしまいますから、きちんと養生して下さい」
「はい……」
「薬を出しますので、飲み切っても様子が変わらないようでしたら、もう一度いらしてください。お大事にして下さいね」
「ありがとうございました」
頭を下げて診察室を出ると、待合室の老人達からやけにキラキラした視線を注がれて、思わずたじろいだ。
「香織ちゃん! どうだった? 先生、イケメンだったでしょ?」
老婦人に急に言われて戸惑った香織は「ああ、はあ、まあ……」とまとまりのない返事をした。落ち込んでいたので、担当医の顔などろくに見もしなかった。
「どう? 優しいし、医者よ!」
「え?」
かなり前のめりな待合室の空気に、香織は押されっぱなしだ。病院の待合室でこんなに話しかけられた事は、過去に一度もない。
すると突如、ガラッと診察室のドアが開き、顔を赤くした真治が仁王立ちで叫ぶ。
「皆さん本当にお気持ちはありがたいですけど、若い女性に見境なく僕を売り込むのはやめて下さい! 患者さん、こられなくなっちゃいますよ……」
言い終えた後の情けない顔を見て、香織は思わず吹き出した。
「だって若先生、失恋したって聞いたから、心配してるのよ!」
先程の老婦人こと川村志津子が真治に反論する。
「大丈夫ですよ! 彼女くらい自分で見つけますから! 本当にすいません」
香織の方を向いて謝る真治は、本当に申し訳ない顔をしていた。返事をしそびれているうちに真治は志津子の方を向き、不貞腐れた声で
「次! 川村さん、診察室どうぞ!」と言い捨てるとぷいっと診察室へ帰って行ってしまった。
嬉しそうに診察室へ入っていく志津子は、両目で香織にウインクした。その悪びれない表情がおかしくて、香織はまた笑った。
友人の香織から『胃炎になっちゃったよー』と言うメールを受信した唯香はいてもたってもいられなくなり、有給休暇を利用して、三日ほど帰省することに決めた。
一緒に暮らし始めた彼氏の陽介にその旨を報告すると、「どうせ俺がとめても帰るだろ。今度は迎えに行かないからな」と意地悪な笑みを浮かべたので、
「ちゃんと帰ってくるよ。安心して」と返した。陽介は安心した顔で頷いた。
久々の実家は相変わらずで、両親も祖母も元気そうだった。挨拶もそこそこに、香織の家へと急ぐ。唯香はこの真面目な友人が心配で仕方がないのだ。
「香織! 大丈夫?」
玄関を開けて唯香を迎え入れた香織の顔色はいつもより白くて、以前会ったときより少し痩せていた。
「大丈夫。ただの胃炎だよ」と返すその声も弱々しく、いつもの覇気が感じられない。
「ストレス?」
「うーん。スランプで。落選しまくっちゃったから、なのかも」
弱気な笑みを浮かべる香織を見て、唯香はなんとかしなくちゃと焦り、
「香織の撮った写真、見せて!」と言った。
素人の自分が見ても分からないかもしれないけど、とにかく香織の力になりたいと思ったのだ。香織は唯香の顔を見て、「ちょっと待ってて」と別室に消えた。
香織が一人で暮らす家は叔父夫婦が使っていた家具や家電をそのまま使っているけれど、少し模様替えがされていた。懐かしいソファーの配置が思い出の位置と違うのは、香織がこの地できちんと毎日を過ごしているからだと、唯香は勝手に嬉しくなり、ソファーに腰掛けてぽんぽんと少し跳ねた。
あとは香織の悩みさえ解消出来ればと再び気を引き締めたところに、両手いっぱいに写真を抱えた香織が戻ってきた。
ローテーブルの上にその写真を無造作に広げる香織を見て、唯香はソファーから降りてテーブルの前に移動した。写真を無作為に手に取って見てみると、やはり香織は流石だな、と思った。
どの写真を見ても、美しいと思った、綺麗な一瞬をしっかりと切り取っていて、その枚数と多彩な内容は、香織がいかに毎日勤勉に写真を撮り続けているかを物語っていた。
けれど、唯香には少しひっかかる点があった。
「香織の自信作はどれ?」
唯香の問いに香織は「うーん」と唸ったあと、「これ、かな?」と一輪の花が写った写真を差し出した。その反応を見て、唯香は自分の中の違和感の正体を確信する。
「あのさ。この写真、撮りたくて撮ったの?」
確かにこの写真は綺麗だ。朝露を浴びて光る花の写真は、文句のつけようがないほど美しい。
「なにかの写真を撮らなきゃいけなくて、それでたまたま見つけたこれを撮っただけなんじゃないの?」
唯香の言葉に香織は少し言葉を詰まらせてから、
「……どうして、そう思うの?」と聞き返した。上目遣いのその視線は、唯香の発言を暗に肯定している。
「全然、昔見せてもらったいきいきとした感じがない。写真はさ、ファインダーの向こうのカメラマンの写したい物を写すけど、同時にそのカメラマンの感情とかも一緒に映ると、私は思うの。香織がこの景色をもっとみんなに見てほしい! って気持ち、この写真からは全然伝わってこない」
そう。香織の写真はどれも美しい。けれど美しすぎるのだ。どれもこれも綺麗だというのに、それで終わってしまう。それ以上の何かは残らない。
「自信なさそうに選んだ一枚で、コンテストで入賞出来るわけないじゃない。香織が見てほしい風景でないなら、香織が撮る意味がないでしょ。香織のオリジナリティというか、香織にしか撮れない写真を撮らなきゃ、どんなに綺麗な物を撮ったって意味がないよ」
香織が以前見せてくれた写真は、どこか面白かった。何かしら奥行きや物語を感じる写真ばかりで、意外性があったのだ。
唯香は押し黙る香織を見て、言い過ぎたかなと思った。けれど自分で気付かずに胃を痛めるくらいなら、本音でアドバイスをするのが友人の義務であると思った。
香織はしばらく黙って考えるそぶりをした後、「唯香、ありがとう」と言い、唯香の手を握った。その目には、強い意志を感じられる香織らしさが戻っていたので、唯香はほっと胸を撫で下ろした。
しばらく二人でコーヒーを飲みながらお互いの近況などを語った後、すっかりやる気を取り戻した香織の希望で、二人で散歩に出かけることにした。
昼下がりの故郷はひだまりが心地よく、不思議な安心感と包容力があった。唯香はその日差しに目を細めながら、香織の横を歩く。時々立ち止まっては写真を撮る香織の姿を見て、やっぱり香織はカメラが似合うなあと口元を綻ばせる。
更に唯香の口元を緩めたのは、香織の人気ぶりだった。
香織は誰かとすれ違う度に「写真撮って!」と声をかけられ、その度に律儀に応じてカメラを向けていた。
「すっかり人気者だね」と唯香が言うと、まんざらでもない顔で
「困っちゃうよ。集中してる時に声かけられたりしてね」と香織は頭をかきながら答えた。自分の故郷に自分の大好きな友人が溶け込んでいる姿は、唯香の心を暖かくした。
診療所の前を通ると、駐車場から賑やかな笑い声が聞こえてきた。
「ちょっと、良さげなシチュエーションじゃない?」
唯香と香織はシャッターチャンスを期待して、寄っていくことに決めた。
「先生の下手くそー! もっと腰を入れるんだってば」
谷崎賢人と優璃愛の兄妹と、野本晃太が真治を囲んで、子供特有の高い声で笑っていた。「おかしいな」と言いながら真治が腰をかがめて拾っているのは、紙飛行機だ。
「あ。坂口さん」
真治は香織に気づいた。
「と、横井さん」
後ろの唯香にも気付いて頭を下げる。
「先生、何してるんですか?」
「いや、紙飛行機を飛ばしてるんです」
「紙飛行機を?」
香織が不思議な顔をしていると、子供達が
「先生の紙飛行機がよく飛ぶように教えてやってんだ!」
「先生の紙飛行機、あんまり飛ばないんだもん」と囃し立てた。
冷やかす子供達も冷やかされる真治も笑っている。その姿が微笑ましくて、香織は思わずカメラを向けて、シャッターを押した。
コンテストで大賞を取ったとの報せが来た時、香織は踊りたいぐらい嬉しかった。実際に手足をじたばたさせて、その喜びを全力で噛み締めた。
唯香の助言に従って優等生な出来の良い写真ばかりでなく、その後ろのストーリーを伝えたいと思うような写真を撮るようになった。
必然的に人の写真が増えた。香織がカメラを向けるとみんなとても良い顔をして快く写ってくれるので、現像をするのも楽しくなった。
そんな中入選した写真は、あの、唯香が帰省していた時に一緒に見た、紙飛行機の一シーン。
真治の紙飛行機が最高記録を出した時の嬉しそうな子供達と、一番喜んで飛び上がっている真治の写真だった。
香織はこの写真を見る度に笑顔になる。
唯香にも電話でコンテスト入選を伝えた。本人よりも喜んでくれたので、あまりの声量に少し電話を耳から遠ざけたほどだ。二人で電話をしながらちょっと泣いてしまった。友達っていいなあと心の底から思ったものだ。
さて。香織はあの写真を撮らせてくれた医師のもとに、これからお礼を言いに行こうと思っている。
診察室はまた賑わうだろうかと考えた。今日はそんな様子すらも写真に収める気でいる。
お気に入りのカメラを首から下げて、弾む足取りで診療所へ向かう。
とっくに胃痛など治ってしまっているのだけれど、なんと言って診察してもらおうかと考えながら、歩き慣れた道に何か素敵な変化が起きていないかと左右を見渡しゆっくりと歩みを進める。
香織は晴れ渡る青空を写真に収めた。
まるで香織の入選を祝福しているかのような、晴天だった。
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