診察9【佐藤拓海】

「うん。糖尿病ですね」

「糖尿病、ですか?」

 診断を下されて佐藤拓海さとうたくみはがっかりした。

 とうとう来たか。そう思った。

 この僻地の営業所に赴任して数年。自堕落な一人暮らしの食生活は、いずれ病気になると多くの人から忠告を受けていたのだ。

「そうですね。はっきり言って、数値的にはかなり悪いです」

 目の前で診断を下す真治は、拓海にはよく分からない数字の並んだ紙を見て顔をしかめる。

「ただ、このまま薬を飲んで、数値を下げる。それなしではいられなくなってしまう、というのもよくないと僕は思います」

 真治は拓海の顔を見て言った。

「食生活の改善を行うことは、出来ますか?」


 健康診断後の再検査を終えた拓海は、彼女の家に向かった。同じ営業所に勤める鈴原すずはらまゆみとは、もう付き合って一年半になる。営業所の定休日には、大体いつも彼女の家を訪れるのが習慣になっていた。

「どうだった?」

 まゆみは顔を見るなり拓海に問いかける。まゆみは健康診断の結果に要注意判定が出た時から、拓海の体をずっと心配していたのだ。

「うん、糖尿病だって」

 いつも座っている拓海の座椅子に座りながら返事をした。足を伸ばそうとしたらテーブルの下のぬいぐるみを蹴飛ばしてしまったので、本来の位置であるカラーボックスの上に戻した。

「えー! 若いのに!」

 まゆみは大袈裟に驚いた。三十五歳のまゆみにとって、二十六歳の拓海は若い。九歳も離れているのだから。

「最近は若くてもなるらしいよ」

「で、薬飲むの?」

 心配そうに尋ねるまゆみはテーブルを挟んで向かい側に座った。

「いや、食生活を見直せって言われてる。とりあえず一ヶ月、これを見て頑張れって」

 そう言って拓海はポケットから紙を取り出す。それは栄養指導がまとめられたA4サイズの用紙だった。配布用で、ところどころにファンシーなイラストが散りばめられている。『小野島診療所』と書かれているところを見ると、スタッフの手作りだろうなと拓海は受け取ったときに思った。

「これ、出来るの?」

 まゆみは上目遣いで拓海に尋ねる。そこに書かれている内容は、柔らかい伝え方をしているがかなりの節制を促すもので、拓海の食生活とはかけ離れすぎていて、全く出来る気がしなかった。実家にいたときですら、こんなに健康な食生活を送ったことはない。

「はっきり言って、自信ない」

 ため息を吐いて沈黙した拓海を心配そうに見て、まゆみは

「じゃあ、私がご飯、作ってあげようか?」と提案した。

 拓海は悩んだ。すぐには返事が出来なかった。


 拓海とまゆみの出会いは勤務先だ。小さなガス会社の営業所は、営業の拓海と事務のまゆみと、駄洒落ばかりを言ってはいつも笑っている、再来年定年退職を迎える予定の所長の三人で業務を回している。

 毎日狭い中で顔を付き合わせ、お互いの仕事をそれとなくフォローし合っている内に、自然とお互いを意識しだした。

 いつのまにか付き合っていた、と言うと言い過ぎだが、昔から当たり前にそばにいるようなまゆみの空気感に拓海はすっかり安心していた。隣にいるだけで心が安らぐ。燃え盛るような激しい恋ではないものの、体の芯からじんわりと込み上げるような暖かな関係を、これまで築いてこれたと思う。

 ただ、付き合って一年を越し、お互いの歳を考え、またまゆみの境遇を思えば、そろそろ将来の事を見据えた話が出てもいい頃合いになってきた。

拓海はまゆみと一緒にいる時が幸せで、それは偽りのない本音だったが、まゆみとの結婚を躊躇う理由が二つあった。

 一つ目はまゆみとの歳の差だ。拓海より九歳年上のまゆみの年齢を聞いたときは、正直恋愛感情を持つことはないだろうな、と思った。あくまで職場の同僚であり、恋愛対象として想定した年齢差ではなかった。しかしまゆみ自身を知れば知るほど、九歳の年の差を感じることはなくなった。今では歳が離れていようと関係ないと胸を張って言い切ることが出来る。

 しかし周囲の風当たりが強いであろうことは理解していた。数字だけで見れば、拓海だってそうだったのだ。そうそう甘くみてくれるはずはない。

更に障壁となりそうなのがまゆみの娘、結奈ゆなの存在である。小学五年生の結奈は賢くて優しい子だ。頻繁に家を訪れる拓海にも嫌な顔をすることなく、それなりに上手く関係を築けている。

 だからと言って拓海の両親が、いきなり息子に十五歳下の娘が出来ると聞かされて「はいそうですか」となるはずがないことは、想像に難くない。

 まゆみは数年前に前夫の家庭内暴力が原因で離婚し、結奈を連れて隣村の実家に戻った。その後いつまでも実家にはいられないと母子家庭で生活をしていく為に親戚の伝手を頼りに就職し、たどり着いた地がここなのだと拓海は聞かされていた。営業所の駄洒落好きな所長は、まゆみの叔父にあたるそうだ。

 実家にいた際に心無い言葉をたくさん浴びたまゆみは、とにかく結奈をこれ以上傷付けたくないと、まだ付き合う前にアルコールの回った赤い顔で拓海に言っていた。結婚というものが怖い、とも呟いていた。

 まゆみが結婚という単語を口に出す事はない。しかしまゆみの視線の先にある雑誌のウエディング特集や、宝石店の前に飾られた結婚指輪にふと見入ってしまうまゆみが蓋をしている本心に気付かないほど拓海も鈍感ではなかった。


 だからまゆみの「ご飯作ってあげようか」発言はかなりの勇気を伴ったものに違いなかった。それが分かっているからこそ、拓海は安易な返事が出来ない。

無言の間に色んな事を考えた。まゆみを想うからこそ、安易な反応を返す訳にはいかない。自分の中に、覚悟はあるのか。周囲に説得されて、そうかも知れないと気持ちを翻すことは絶対にないのかと自分に問う。

 長考の姿勢に入った拓海に、まゆみは何も言わない。沈黙が部屋を支配する。その静けさが、拓海を追い詰める。答えも決め切れないどころかまゆみの顔も直視出来ない自分の情けなさに、うんざりした。


 鈴原結奈は、学校からの帰り道、道端に咲く花を摘んだ。その花が母のまゆみの好きな少し淡い黄色だったから、きっと喜ぶだろうと思ったのだ。

「ただいまー」と帰った家には誰もいない。まゆみはまだ仕事をしている時間だ。

 ガラスのコップに水を汲み、大事に持って帰って来た花を浮かべた。

せめてお母さんに見せるまではきれいに咲いていて欲しい。結奈はそう思って西日の差し込む窓辺にそのコップを置いた。

 ランドセルを下ろし、中から教科書とノートを取り出して広げた。帰って来てすぐ宿題を終わらせてしまわないと、どうも落ち着かないのだ。ノートを広げて宿題をする合間に、ぼんやりと考えごとをすることも多い。

 今日も拓海さん、来るのかなと思った。今までは週に一度だったのに、最近毎晩訪れては、一緒に晩御飯を食べる母の彼氏の顔を思い浮かべる。

 結奈は拓海が嫌いではなかった。お父さんと呼べと言われたら流石に抵抗はあるものの、暴力も振るわないし、余計な事を言わないし聞かない無口な拓海に対して特に不満はない。

 拓海と一緒にいると、まゆみは幸せそうな顔をする。いつも気を張ってしっかりした母をこなしてくれているまゆみが見せるその安心した表情に、結奈は気付いていた。結奈はまゆみが幸せでいてくれさえすれば別に良かった。再婚すると言われても、反対はしない。むしろ、再婚して幸せだというなら、そうして欲しいとすら願っている。

 母のまゆみが結奈のせいで我慢したり、苦労したりする姿をたくさん見てきた。だから結奈はなるべく良い子でいようと思っている。宿題は忘れない。授業もちゃんと聞く。年下の子の面倒も見る。

 だけどそれだけでは、まゆみを幸せに出来ない。不幸になることはなくても、幸せには出来ない。

 結奈は黄色い花のある窓辺にかけられた白いレースのカーテンを眺めた。

 お母さん、結婚式しないかなと思いながらノートの隅に、ウエディングドレス姿の母のイラストを書いた。消すのが勿体無いなあ、と思った。


 拓海は友人と飲みにきていた。

 なし崩しに夕飯をご馳走になり、営業所に毎朝朝食と昼食を作ってきてくれるようになったまゆみの優しさに応えたい。ただ、そんなに簡単にはいかない事も承知している。それを友人に相談しようと思ったのだ。

「えー? 九歳も年上なの? ババアじゃん」

 拓海と同級生のこの友人、あつしは、酒が入っているせいもあるが元来正直で裏表がなく、思ったことを正直に言う。それが時として無神経と言われることもあるが、拓海を思うからこそ嘘はつかないこの友人を信用して、拓実は学生時代からこれまで何度も相談に乗ってもらってきた。

「まあ、そうだけど、年下より落ち着くんだよな」

「まじかよ。でも十年経ったら四十五だぞ? やめといた方がいいんじゃね?」

 拓海はその遠慮のない言葉にかちんと来て反論する。

「でもそしたら俺も三十六だぞ。変わらなくないか?」

 すると淳は手を目の前でひらひらさせた。

「ぜーんぜん違うよ! 男の三十六と女の三十五じゃ価値が違うんだよ! 価値が!」

 理不尽な言い草だな、と拓海は思った。しかしこれが世の本音なのだろうと耐えた。こっちは相談している立場だしと冷静になるように努めた。

「しかも子持ちとか。どんだけの不良債権だよ」

 淳は笑った。その笑いが拓海にはたまらなく不快だった。

 拓海は立ち上がり、苛立ちを声に出さないように注意を払って言った。

「俺、帰る」

 淳は笑いを止めて固まった。

「え? どうしたんだよ」

「いや。もう帰るわ」

 拓海はテーブルの上に三千円を置き「じゃあな」と言って店を出た。

 外灯のない夜道を歩きながら、柄にもないことをしたな。と思った。普段ならどんなに耳が痛くても素直に受け止められるはずの友人の言葉に、どうしてこれほど腹が立つのだろうと考え、先ほどの淳の言葉を一つずつ思い出してみる。 

 そして気付いた。そうか俺、まゆみのことを言われたから、我慢が出来なかったのかと。ならばもう答えは決まっているではないか。

「拓海ー!」後ろから淳の声が聞こえて振り返る。拓海の口元には、笑みが浮かんでいた。

 

 今日はまゆみの公休日で、拓海が家に来ることになっていた。結奈も学校が休みなので、まゆみと二人で手巻き寿司を作ろうと、台所に並んでいた。

 まゆみはきゅうりを刻みながら、隣で酢飯を仰ぐ結奈に問いかけた。

「ねえ、結奈、拓海さんと家族になったら、嫌?」

 結奈は目を輝かせて手を止め、即答した。

「え? 全然嫌じゃないよ! おめでとう!」

 うちわを置いてラップの箱に持ち替えた結奈は、それをまゆみの口元に持っていく。

「プロポーズの言葉は、なんだったんですか?」

 まゆみは「もう」と笑いながら手を止め、マイクに見立てたラップの箱に向かって答えた。

「まゆみじゃなきゃ、駄目なんだ、って」

「きゃー!」

 結奈は手足をばたつかせて部屋中を駆け回った。胸のあたりが、こそばゆい。

「結奈、ちょっとちゃんと手伝ってよ! 間に合わなくなるでしょ!」

 そう言いながらもまゆみの顔がにやけていることに、結奈は気付いていた。

「別に拓海さん、ちょっとくらい許してくれるよ」

 嬉しさを隠し切れないまゆみを見て、結奈まで嬉しくてたまらない。

 きっとこれから色々な事があると思う。すぐにお父さんとは呼べないかもしれない。けれど、こんなにお母さんを幸せな顔に出来る人はきっとこの世に一人だけ。


「お母さん」

「ん?」

「おめでとう」

「ありがとう」

 まゆみは顔を赤くして俯いた。

 もうすぐケーキを持った拓海がやってくる。幸せの象徴みたいな休日だなと結奈は思った。


「えーっと、すごいですね。数値、下がりましたねえ」

 真治は結果が書かれた紙を見て、驚いた顔をしている。

 前回の診察から一ヶ月経ち、再々検査を受けた結果だった。まゆみの手料理で、拓海は体重も六キロ落ち、体の軽さも実感していた。

「この分だと、もう少し様子見ても大丈夫そうですね。今の食生活、継続出来そうですか?」

 真治に尋ねられ、拓海は自信を持って「はい」と答えた。

「続けていくつもりです」

 これから一生、どちらかが死ぬまで、と心の中で呟いた。

 来月また受診して様子を見ることになった。真治の驚いた顔を思い返し、どうだまゆみはすごいだろうと一人満足して待合室で会計を待つ。

 受付には、何やら『診療所便り』と書いた紙に、イラストを描く女性がいた。そうか。あの栄養指導の紙はこの人が描いたんだなと気付いた。そんな些細なことすら、拓海を笑顔にさせた。

 実際は笑ってばかりもいられない。これからやることはたくさんある。双方解決しなければならない問題は、何ひとつ片付いてはいない。

だけど二人なら、いや。三人なら大丈夫だと拓海は思った。

「佐藤さん、お会計です」

 会計を済ませて車に乗り込む。検査の結果が良かったから、今日だけは拓海もケーキを食べられる。携帯からまゆみにメールを入れ、車を発進した。ケーキ屋へと向かう車内で、拓海は早くまゆみと結奈に会いたいな、と思った。

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