診察8【谷崎優璃愛】
「おはようございます!」
「おはよう。賢人は今日も元気だな」
校門の前に立つ校長先生は、毎朝全校生徒とハイタッチをして、一人ずつに声をかける。賢人は嬉しくなって昨日見たテレビの話をした。普段は駅員さんとして働いているのに、宇宙からの侵略者が現れると電車を変形させて戦うヒーローが、賢人は大好きだ。
校長先生は「それはすごい」とか「それでそれで」とか、大きく相槌を打って最後まで聞いてくれた。勝利を宣言するヒーローの決め台詞を一緒に叫んで満足した賢人は校長先生に手を振って、昇降口まで走った。早く同じクラスの晃太とも話をしたいと思ったからだ。
学校は楽しい。と賢人は思う。だって学校にいる間は一人になることはない。賢人の家には今、誰もいない。妹の
優璃愛は体が弱くて、しょっちゅう入退院を繰り返している。だから賢人は一人でお留守番することも学校へ行くことも出来るけど、一人でいるより誰かといる方が寂しくない。でもそれを言うと大人はみんな悲しい顔をするから、誰にも言わないようにしている。
学校が終わると、賢人は駆け出した。優璃愛のお見舞いに行く為だ。賢人は一人でも大丈夫だけれど、優璃愛が寂しがりやであることを賢人は知っている。
優璃愛は同い年の友達がいなくて、学校にいる女子は五年生と六年生で話も合わないから、優璃愛はいつも賢人の後ろに隠れている。賢人がいないと寂しくて泣いてしまうこともある優璃愛は、賢人の可愛い妹なのだ。
優璃愛の顔を思い浮かべて、ランドセルをガシャガシャと揺らしながら診療所までの道を走る。今日もきっと優璃愛は帰ってこられないから、少しでも長く、一緒にいてあげたい。
優璃愛は咳き込み、苦しみながら耐えていた。息を吸いたいのに、息を吸うと咳が出る。咳が止まって欲しいのに、咳をしながらじゃないと息が吸えない。
体を丸めて耐える。
咳のしすぎで体のあちこちが痛い。
自分の呼吸音にひゅーひゅーと空気が漏れているような音が混じる。
「優璃愛! 優璃愛! 苦しいね。すぐ診療所に行こうね」
心配そうに声をかけるお母さんの声は優璃愛に聞こえている。聞こえてはいても、返事は出来ない。
少し遠くでお父さんが賢人に
「優璃愛を診療所に連れて行ってくるから、留守番頼む」と言っているのが聞こえる。
賢人はいつも「うん! 分かった!」と返事をする。
お兄ちゃんは一人で寝るの、怖くないのかなと優璃愛はいつも不思議に思う。きっと優璃愛はこのまま今日も診療所に泊まるのだ。
お母さんは付き添いで帰れない。お父さんは今日は夜勤だと言っていたから、診療所からそのまま仕事に行くのだろう。賢人は一人になってしまう。だから少し苦しくても、今日は耐えようと思っていたのに。
夜と朝は発作が出やすい。暗くなるに連れてどんどん息が苦しくなって、とうとう耐えられなくなった。
診療所に行ったら点滴をして、白いもやもやを吸って。そんな風に先の推測が出来るくらいに、優璃愛は入院に慣れてしまっていた。
霞む思考で色々考えていると優璃愛の体が宙に浮いた。お父さんが優璃愛をおんぶしたのだ。その間も咳は止まらない。
「優璃愛、頑張れよ!」と賢人が声をかけてくれたのも聞こえている。
でも、返事が出来ない。
苦しい。苦しい。苦しい。
どうして自分だけがこうなんだろう。
優璃愛は泣きたかった。けれど泣くほどの体力は、残っていなかった。
一晩経ってすっかり落ち着いた優璃愛の病室に、学校帰りの賢人がお見舞いに来た。
お母さんはずっと付き添っていたのだが、優璃愛の着替えを取りに家に帰ったところだった。
「また夕方来るね」と言って帰っていく背中に、「行かないで」とも言えない。
優璃愛はただでさえ病気ばかりなのに、お母さんをこれ以上困らせたくないから「行ってらっしゃい」とお母さんを送り出した。本当は優璃愛も一緒に帰りたかったけれど、腕に繋がれた点滴がないと、少し動いただけでも咳き込んでしまう。今日も診療所に泊まることになるのだと諦めて、寂しい気持ちになっていた。
だから賢人が「ゆーりあ!」と言って病室に現れた時は、すごく嬉しかった
「おにいちゃん!」と言って起き上がる時に少し咳き込んでしまった。
賢人はすごく心配そうに見ていたけれど、優璃愛にとってこれは日常だ。昨日より大分楽になった呼吸を整えて、咳をし始めないように慎重に、賢人に話しかける。
「学校からそのまま来たの?」
「そうだよ」
賢人はランドセルをベッドの脇に下ろした。
「寄り道しちゃいけないんだよー」
優璃愛はちょっとふざけた口調で賢人を冷やかした。
「ちゃんと先生に言ってきたからいいんですー」
賢人はランドセルをごそごそと探り、「ほら」と優璃愛にお土産をくれた。それはティッシュに包まれた、たんぽぽの綿毛だった。優璃愛のベッドから見える大きな窓の淵に手をかけて、賢人は「よく見てろよ」と言った。賢人がふうっと息を吐くと、たんぽぽの綿毛はあちこちに散らばる。
優璃愛は口を開けて、ふわっと広がる白い綿毛の行く先を目で追った。折角飛ばそうとしたのに優璃愛のベッドに戻ってきたいくつかを丁寧に拾った。
「おうちに植えたらたんぽぽ咲くかな」と言った優璃愛の手から白いふわふわを受け取って「俺が代わりに植えておく」と賢人は言った。優しい手つきでそれをランドセルにしまおうとした時、賢人の黒いランドセルの内側に、たくさん白い綿毛が付いているのが見えた。
「それも一緒に植えてあげてね」
優璃愛が言うと、賢人は悪戯がバレた時の笑い顔を見せ、「分かった」と頷いた。
それから優璃愛のベッドのサイドテーブルを動かして、二人でお絵描き対決をした。お題は賢人の大好きな正義のヒーロー(変身バージョン)だ。
描き上がった絵をお互いに見せ合う。優璃愛は「優璃愛の方が上手い」と言い、賢人は「俺の方が上手い」と言った。
ちょうどその時病室に帰ってきたお母さんに両方の絵を見せて、「どっちが上手い?」と聞いた。お母さんは「えー?」と言いながら二枚の絵を見比べて
「どっちも花丸」と言った。これでは勝負がつかないと、二人で頬を膨らませてお母さんを見た。お母さんは二人の頬を人差し指でつんつんとつついたので、我慢出来ずに吹き出した。優璃愛はその勢いで咳き込んでしまったので
「ほらほら、寝てないと駄目だよ」とお母さんに背中をさすられた。
折角楽しかったのに、優璃愛の体が元気じゃないから。心配そうに見る賢人に心の中で「ごめんね優璃愛のせいで」と謝った。
その日の夜、優璃愛はまた発作を起こした。
朝と夜が優璃愛は嫌いだ。朝と夜の変な空気が優璃愛の呼吸をおかしくするからだ。ぜえぜえという呼吸はバケモノみたいで、自分から出ているとは到底信じられなかった。
涙目で少し遠ざかる意識の中で優璃愛は考えずにはいられない。
酸素を吸って点滴に繋がれている自分は、一体どんな悪い事をしたというのだろう。どうして自分だけがこんな目に合うんだろう。
苦しくて苦しくて、痛くて、笑う事すら上手に出来ない。
心配そうに見守る主治医の正明は、「大丈夫。大丈夫だよ」を繰り返している。
優璃愛が小さい頃から診てくれているこの院長先生は、優璃愛にとっておじいちゃんみたいなものだ。
お父さんも、お母さんも、院長先生もみんなが優璃愛を心配している。
優璃愛はごめんなさい、と思った。
優璃愛が弱っちくて、病気で、いつも苦しそうにしてるから、みんながこんなに心配してる。お兄ちゃんもきっと家で心配してる。
ごめんなさい。ごめんなさい。
みんなが優璃愛のせいで眠れない。優璃愛が発作なんか起こさなければ、おうちでゆっくり眠れるのに。
途切れぬ咳で、上手く回らない思考。失いそうな意識の中で、優璃愛は願う。みんな、優璃愛の事嫌いにならないで。
翌日の昼、優璃愛の呼吸は安定していた。深く息を吸い込みすぎると咳は出るものの、意識ははっきりしているし、動き回ることも出来る。
お母さんは落ち着いているうちにと家に帰った。朝と夜さえ乗り切れれば、昼間は割と好きなことが出来る。賢人もまだ授業を受けている頃だなあと優璃愛が窓の外を眺めていると、正明が病室に訪れた。
「優璃愛ちゃん、体調はどうかな?」
いつも賢人やお母さんが座る椅子に腰掛けた正明は、優璃愛の人差し指に機械を挟んで、それから聴診器で胸の音を聞いた。うんうん、と頷く正明の顔は明るくて、昨晩の発作中の真剣な顔とは違っていた。
「大分いいみたいだね」
にっこりと笑った正明は「眠くない?」と優璃愛に尋ねた。さっき起きたばかりなので、全然眠くない。優璃愛が素直にそう答えると、正明は「じゃあ先生と少し遊ぼうか」と一度部屋を出て戻ってきたその手には、オセロセットの箱があった。
「オセロ出来る?」
聞かれた優璃愛は頷いて、「やったことある」と答えた。うちにも同じ箱のものがあるから、たまに賢人とやることがある。だけど優璃愛はいつも負けてばかりで悔しいから、あんまり好きではなかった。
「でも先生は大人だから、優璃愛勝てる訳ないよ」
少し口を尖らせて優璃愛が言っているうちに、優璃愛の前にオセロ盤が用意される。その四隅には、すでに白い石が置かれていた。
「優璃愛ちゃんにハンデだよ。最初は四つ。じゃあ、優璃愛ちゃんは白で、先に置いていいよ」
優璃愛はそう言われて、白い石を置いて勝負を始めた。先生は黒い石を置くごとに優璃愛の白い石を結構ひっくり返したけれど、最後に数を数えてみると優璃愛の勝ちだった。優璃愛は嬉しくなって「わあ」と声を上げた。少し咳き込んでしまったけど、苦手なオセロで勝てたのが嬉しくて気にならなかった。
「もう一回やろ」と優璃愛が誘うと、先生は「じゃあ今度はハンデ一個減らすね」と言って三つの角に白を置いた。今度も優璃愛が勝った。だけど二つしか数が違わなかったから先生は「くそー」と悔しがっていた。
今度はハンデを二つにして用意された盤面に白い石を置きながら、優璃愛はなんとなくお喋りしたい気分になった。
「ねえ、院長先生」
「どうした?」
二人の視線はオセロの盤上に注がれている。
「優璃愛はどうしてこんなに駄目なんだろう。みんなより元気がなくて、すぐ喘息が出ちゃう。外も走れないし、言われた通りに大人しくしててもこうなっちゃう。他の子はみんな元気なのに、優璃愛だけ体育もいっつも見学だし」
「ふむ」
自分の置いた白い石を見つめて、優璃愛は喋る。その手は止まっていて、試合はもう進行していない。
「こんな事ばっかりしてたら、みんな優璃愛の事嫌いになるかも。お兄ちゃんも、優璃愛の事嫌いになったらどうしよう」
優璃愛が体調を崩すたびに、付きっきりのお母さん。優璃愛の医療費がかかるから、たくさん仕事をしてあんまり家にいないお父さん。優璃愛を心配して、いつもお見舞いに来てくれる賢人。家族の顔が、浮かんでは消える。
「優璃愛、どうやって頑張れば元気になるの?お母さんの言うこと聞いても、先生の言うこと聞いても、喘息は出ちゃうんだよ。我慢しようと思ってもね、うっ、て我慢出来ないの。体も痛いし、苦しいし、こんなに咳ばっかりする優璃愛なんてみんな嫌じゃない訳ないよ。みんなと出来ない遊びも授業もいっぱいあるし。優璃愛だってこんな病気ばっかりの自分、もう嫌だよ」
言い終えると息をひゅっと吸い込んで咳き込んでしまった。咳の苦しさと、自分の体への苛立ちで優璃愛は泣いた。折角進んでいたオセロの盤面は、優璃愛の咳の振動で石が移動してしまい、無造作に散らかって見えた。
正明は優璃愛の背中をさすり、優しく声をかける。
「優璃愛ちゃんは、充分頑張ってるよね」
涙目の優璃愛はぜえぜえと荒い息をしながら、正明の目を見た。正明は頷いた。
「苦しいけど、毎回ちゃんと戦ってるじゃないか。優璃愛ちゃんは駄目なんかじゃない。」
正明は優璃愛の呼吸の具合を注意深く探る。幸い、呼吸は落ち着いてきた。
「みんな優璃愛ちゃんが頑張ってるのを知ってるから、応援してくれてるんじゃないか。お父さんもお母さんもお兄ちゃんも、優璃愛ちゃんのことが大好きなんだ。だから一緒に戦ってくれてるんだろう?」
優璃愛はふうーと深い息を吐いた。それからゆっくりとベッドサイドに置かれていたペットボトルの蓋を開け、水を口に含んだ。
「優璃愛ちゃんと出来ないことは、確かにたくさんあるかもしれない。でも優璃愛ちゃんとじゃないと楽しくないことを、みんな優璃愛ちゃんと一緒にやろうとしてるんじゃないかな」
優璃愛は昨日の賢人とのお絵描きを思い出した。確かに優璃愛は走れないけど、だからと言って遊べない訳ではない。
「みんなが優璃愛ちゃんに元気になって欲しいと思うのはね、優璃愛ちゃんの笑った顔が見たいからだ。元気になった優璃愛ちゃんと、いっぱい一緒に笑いたいんだ。だからそんな風に優璃愛ちゃんが自分のことを嫌いになってしまったら、みんな悲しむよ。だってみんな優璃愛ちゃんが大好きで、泣いてほしい訳じゃないんだから」
優璃愛の頭を撫でて、正明は言った。
「だから、早く退院出来る様に今回も頑張ろうね」
優璃愛は少し考えてから「先生」と言った。
「うん?」
「優璃愛、早く退院したい」
「そうだな。退院したらなにしたい?」
正明の問いかけに、優璃愛は目を輝かせて答えた。
「お兄ちゃんと、ゲームしたい! ゲームはね、優璃愛の方が強いんだよ!」
賢人の担任の児玉奈美は、図工の時間に賢人と晃太がクレヨンで絵を描くのを見守っていた。
お題は『今一番したいこと』。
きっと晃太は紙飛行機だろうと思ったら案の定飛行機の絵を描いていた。その絵を見ながら
「晃太は本当に紙飛行機好きだねえ」と奈美は笑った。
晃太は大きく頷き
「俺ね! 俺ね! この前より飛ぶ紙飛行機開発したんだよ! 今、飛ばしに行っていい?」と捲し立てた。
「だーめ。今はその絵を仕上げなさい」
奈美の言葉を聞いた晃太は少し悲しい顔をしてから絵に向き直った。背景の青空を、力一杯塗っている。
賢人の絵を覗くと、奈美の想像とは少し違っていた。
色とりどりのカラフルな丸があちこちに飛んでいて、その真ん中に人が二人だけ立っている。
「あれ?賢人、ゲームじゃないの珍しいね」
奈美の声に顔を上げた賢人は鼻息を荒くして説明した。
「これね。しゃぼん玉! 俺さ、この前お父さんと二人でしゃぼん玉飛ばしたんだ。すっげー綺麗だった! だから、今度優璃愛が退院したら、一緒にやろうと思って。息をふーってしなきゃいけないから、優璃愛が喘息の時は出来ないけど、元気になったら、一緒にやりたい! どっちが綺麗に飛ばせるか、競争するんだ!」
奈美は微笑んで、
「いいじゃん。優璃愛ちゃん、きっと喜ぶよ。早く元気になるといいね」と言った。
賢人は「うん!」と頷いて、教室の窓から空を見上げた。
奈美もつられて窓の外に視線を送り、優璃愛と賢人のしゃぼん玉が綺麗にたくさん飛ぶ様子をなんとなく空に思い描いた。
きっと、すごく綺麗に違いないと思った。賢人が描いた、この絵みたいに。
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