診察7【高田義道】

 小野島診療所は、入院患者の受け入れも行なっている。ベッドは五床あるが、実際に入院する患者はそこまで多くない。希望をすれば自宅への往診も行なっているし、手術が必要な大きい病気の場合は街の大きな病院へ紹介状を書いて連携を取っているからだ。人員が正明と真治しかいない為、純粋に人手が足りないという切実な事情もある。

 入院患者を担当するのは主に正明だ。入院患者がいる期間、正明は隣の仮眠室に毎夜待機することになる。正明が診療所を離れるときだけは、真治がそこに待機し、二人しかいない医者の空白の時間を作らないようにという配慮がなされている。だから入院している患者は多くて二人。大体は一人。

 今現在入院している患者は抗がん剤治療を受けている高田義道たかだよしみちである。

「調子はどうですか?」

 毎朝病室を訪れては聞かされる正明のお決まりの台詞に対し、義道はこれまたお決まりの台詞を繰り返す。

「良い訳ねえだろ入院してるんだから」

 素っ気ないその言葉にも正明は怯まず、頭を掻きながら言葉を返す。

「それでもあるだろ。あそこが痛いとか、ここが痛いとか、今日は調子良いとか」

 正明と義道は同級生で、中学まで一緒の学校に通った仲だ。だからお互い、言葉遣いに遠慮がない。

「全部」

「なに?」

「全部痛い」

「あのなあ」

「気分は悪いしどこもかしこも痛いしもう俺は辛い、生きていたくない」

「義道……」

 捲し立てる義道に正明が言葉を失った直後。

「って言ったらお前、どうすんだよ。どうも出来ないんだろ。いくら医学が発達しようが、人は死ぬときは死ぬんだ。俺だってお前だっていつかは死ぬんだろ。じゃあもう痛い思いなんかしたくねえよ」

 義道の正直な心境の吐露に、正明は一瞬言葉に詰まるが

「そんだけ口が動けば上等だな。じゃあ、検温から……」といつもの口ぶりでかわし、これ以上深入りすることを避けた。

 こいつは昔から、正直者なんだよな。

正明は痩せ細って枯れ木のようになってしまった義道の腕を見て、気付かれないように嘆息した。


「おはようございます」

 今朝も見舞いにやってきたのは義道の妻、明美あけみだった。

 入院患者が義道しかいない部屋なのに、声をひそめてやってくるのには訳がある。

 義道の機嫌は入院中常に悪い。以前明るく挨拶をして明美が訪れた際、「うるさい」と枕を投げつけたことがある。その枕は入り口の明美まで飛ばず、己の力の衰えを目の当たりにした義道は、その一日口を聞かなかった。明美はそれを恐れて、入院中の義道に対して腫れ物に触るように接している。


「ああ、おはようございます」

 正明が病室にいるこの時間を見計らって毎朝訪問してくる明美は、義道のベッドの脇のスチール製の椅子に腰掛けた。

 義道は妻の方を見ることもしない。

「どうですか?」

 明美はどちらにともなく尋ねる。

 すると

「良い訳ねえだろ。入院患者の体調がよ」と義道がそっぽを向いたまま尖った声を出した。

 正明はそんな義道の声が聞こえなかったふりをして、

「変わらず、ですね」と明美に優しい口調で答える。

「変わらず死にそうだとよ」

 義道がまたしても憎まれ口を叩く。

 明美はそんな義道の姿を見ると、自分が何の為に毎日ここを訪れているのかが分からなくなる。昔から口は悪くてぶっきらぼうな人ではあるものの、根は優しいことを明美は知っている。だから今の何もかもを傷付ける棘だらけの針鼠のような義道の姿を見て、悲しみを覚えずにはいられないのだ。

 明美は朝の問診を終えた正明の去った病室で、無言の義道に一生懸命話しかけた。視線も寄越さず外を眺めるだけの義道に一方的に子供達と孫の近況や庭の植木の話などを語りかけ、話題が尽きたときに立ち上がり、義道の顔をじっと見つめ、「また、明日来ますね」と声をかけた。

 するとこの時だけは返事があった。

「来なくて良い」

 いつもの返事だった。毎日聞き慣れているからといって慣れることはない。

「来なくて良い。来たってどうせ明日も明後日も変わらない。どうせ俺は死ぬんだしな」

 点滴の管に繋がれてそっぽを向いた夫の口から紡がれる言葉は、容赦なく明美を傷付ける。

「そんな事より、早く再婚相手でも見つけてくれ。俺に義理だてする必要はねえからな」

 明美は聞いていられなくなって病室を後にした。

 その足で、病室の向かいの院長室へ向かう。ここで正明から義道の様子を聞き、雑談して帰るのが日課だからだ。


「おお。来た来た」

 明るく迎えてくれる正明の表情に、明美は少し癒される。

「紅茶にするかい?緑茶にするかい?」

 にこやかに椅子から立ち上がった正明に、「じゃあ、緑茶で」と答えて応接スペースのソファーに腰掛けた。

 温かい湯飲みと美味しそうなクッキーを明美に差し出した正明は、明美の向かいのソファーに腰掛けてクッキーを摘んだ。

「美味い。薫子さんの腕前はやっぱりプロ並みだなあ」

 正明がこうしていつも必要以上に明るく振る舞ってくれるのは、明美の心境を慮ってのことだろう。有り難く感じつつ、その優しさに甘えていつも弱気になってしまう自分に悲しくなる。

「私、来ない方がいいんでしょうかねえ……」

 いつもは耐えられるのだが、今日は流石に弱音を口にしてしまう。正明に甘えすぎてもいけないと戒める自分が頭の片隅で主張をしている。なのに一度口にしてしまった本音は止まることなく明美の口から溢れ出る。

「私が来ると主人はイライラしてばかりで、本気で私を嫌っているような気がします。顔も見たくないくらいに。私の自己満足の為だけだったら、来る必要はないのかと」

 明美は言葉を切って項垂れた。今日は明美の誕生日だったのだ。今更祝って欲しかった訳でもないが、せめて顔くらい見てくれたっていいのにと考えれば考えるほど、いつもよりも気持ちが沈んでしまう。

 正明はそれきり黙った明美の顔を見て、少し考えて口を開いた。

「明美さんが辛いなら来なくてもいいとは思うけど、来なくて後悔するんだったら、来た方がいい。どうしても辛いなら、一日だけ休んでみたらどうだろう」


 翌朝、明美はある決心を実行した。それはすなわち、義道の見舞いに行かない、ということだった。

 既に独立して所帯を持った二人の息子はもう家におらず、夫も入院している今となってはただ広くなっただけの家を一人持て余し、更に予定までなくなってしまった今日という日を、明美は切ない気持ちで迎えた。

 何をしようと思っても、特にやりたいこともやらなくてはならないことも思い付かない。家にいると暗くなるばかりだと思い、出かける支度をする。

 公園にでも行こうと思い、最低限の荷物を鞄に詰めた。特に携帯電話だけは忘れてはならないとしっかりと握りしめて家を出た。もしかしたら診療所から連絡があるかもしれない。


 春の公園には桜が咲き誇っていた。時間が早いからか、公園には誰もいない。明美は貸切のベンチに腰掛け、温かい緑茶の入った水筒を手に、ぼーっと桜を眺める。

 いつもなら、見舞いに行っている時間だなあと思う。昨日の今頃は義道の棘だらけの言葉から必死に耐えていたのだと思い出すと、心臓のあたりがきゅっとした。

「一日だけ、距離を置いたらどうだろう」という正明の提案に、明美は乗った。

今日一日だけ、がん患者の妻である事をお休みする。正明にもそう宣言して来たし、それは義道にも伝わっている筈だった。

「お互いにきっと見えてくる事がある」

 昨日院長室で聞いた正明の言葉が、重く明美の心にのしかかる。

 私に見えてないものって、なんだろう。結婚して以来、ずっと夫の事を見続けてきた、私が見逃してきたもの。昨日から考え続けているけれど、答えは出ない。

 お休みのはずなのに、頭に浮かぶのは義道のことばかりだ。

 ひらりとひとひら桜の花びらが明美の目の前を舞い、ゆっくりと膝の上に収まって、動きを止めた。

 そういえば、今年は桜の開花を気にすることがなかったと思い至る。昨年の秋に義道が体調を崩し、あれよあれよと今日まで来た。立ち止まる余裕はなく、四季の移ろいに気を配る暇はなかった。

 それに、と明美は桜の花びらを膝から拾い上げ、緑茶の入った水筒に浮かべた。出不精の義道が年に一度だけ明美を連れて行ってくれる桜の絶景スポットがある。毎年訪れて花見を楽しむその場所に今年はもう行けないことを、心の奥底で悟っていたからかもしれない。

 ふいに、涙がこぼれた。

 あの人は、来年の桜を、もう見ることが出来ない。桜を見ながら明美の手作りのいなり寿司を頬張るあの姿はもう二度と見ることが出来ないのだ。

どうして、あの人との時間に限りがあると、もっと早く教えてくれなかったの。あの人がいなくなったら、私、どうしたらいいか分からない。

 流れる涙は止まる事を知らず、明美は一人、桜散る公園で肩を震わせた。


「なあ」

 それは夜の回診のときだった。

「うん?」

 正明は点滴の速度を調整しながら、義道に返事をした。

「お前、明美のこと、もらってやってくれないか」

 正明は耳を疑い、義道の顔をまじまじと見る。

「どうしたんだお前。この点滴に幻覚作用はないぞ」

 義道は正明の顔を正面から捉え、低くはっきりした声で言う。

「これから言う事は、絶対に内緒にしてくれ」

 正明はその迫力に圧倒され「おう」と答えた。

 すると義道は正明の手を掴み

「絶対だぞ。男と男の約束だ」と念を押した。

 その目に鬼気迫るものを感じた正明は、何も言わずに黙って頷いた。

 義道は正明の手を離し、代わりにベッドのシーツを握りしめて俯いた。

「俺はな、遅かれ早かれ死ぬ。こんだけ生きれば上等じゃねえかって気でもいる。そうは思っても、やっぱり生きられねえ自分が情けねえというか、やるせねえんだよ。もっとやりたい事も、やってやりたかった事もある。だけどもう俺には出来ねえ。それを毎日痛いほど思い知らされる。出来ないことが増えていくんだ。情けねえよ。誰かの手を借りないと何にも出来ない自分がよ。だからせめてよ、俺は病気になってから、嫌われようと思った。明美にも息子にもその嫁さんにも憎まれ口を叩けば、俺が死んだとき、ようやく手のかかるじじいが死んだ、せいせいしたって思うだろ。泣かれたくねえから、笑って送ってもらおうと思った。俺にはもう、それくらいしか出来ねえからな」

 枯れ木のような手が震えている。正明は黙って続きを待った。

「だけどよ、今日一日明美が来なかっただけで、俺は死にそうな位寂しいんだ。これを望んだのは俺なのによ。明美はな、なんでも俺に聞くんだよ。どうしますか? これはどうしましょうか? ってな。俺がいないと、あいつは駄目なんだ。だから明美には特に嫌われようと思ったんだ。あいつのためにそうなるなら本望じゃねえかって、俺は考えた。だけど、明美のこれからの人生の隣に俺がいない事を想像するとな、俺はどうしようもなく苦しいんだ。絶世の美女って訳じゃねえ。すごく出来た女って訳でもねえ。でも、俺は明美の事ばかりを考えてんだ。入院してからずっと」

 義道は言葉を切り、鼻を啜った。

「息子には嫁さんがいて孫がいるんだよ。だけど、明美は俺がいなくなったらあの家に本当に一人ぼっちになっちまう。考えただけで不憫でならねえ。だから、なあ、正明。お前になら、明美を任せられるよ。頼むよ。うんって言ってくれないか」

 義道は長く話をしたのが久々だったので、最後の方は息切れをしていた。それでも最後まで言い切り、正明の顔を見つめて返事を待つその目には強い光が宿っている。

 話を聞き終えた正明は目を閉じ、腕を組んで黙り込んだ。義道にとって長すぎるその静寂の後、正明はようやく目を開けてゆっくりと言葉を発した。

「それは出来ない」

「どうしてだ! お前も晴子さんを亡くしてるじゃないか! 明美の辛さはよく分かるだろう!」

 義道は大きな声を出して、ぎょろりとした目で正明を睨みつけた。正明はそんな義道と向き合いながらも、焦点の合わない、遠い目をしていた。

 正明は遠い目をしていた。

「俺はお前の代わりにはなれない。明美さんは晴子の代わりにはなれない。当たり前だろう」

 正明の声は決して大きくない。けれど義道の耳にはっきりと届き、その頭の中に強く響く。

「それに、どうしたって、明美さんはお前がいなくなったら泣くんだよ。長い間一緒にいたんだろうが。その長年の思い出がこんな一瞬の闘病期間だけで消え失せる訳がないだろう。もう、こびりついてんだよ。お前の存在はな。擦っても擦っても落やしない。それくらい明美さんの中に、当たり前に存在するものなんだ。そんなに簡単なもんだったのか? お前と明美さんの日々は、そんなに薄っぺらいもんじゃないだろう。そんな下らないこと考えるくらいならなあ、明美さんをもっと笑わせてやれよ。お前のこと思い出して、泣こうと思っても泣けないくらいに。お前、結婚式の時『一生この人と笑いの絶えない明るい家庭を築きたい』って俺らの前で宣言したよな。自分の言葉に責任を持てよ。後が短いと思うなら、その時間を無駄遣いしてる暇なんてないだろう」

 義道は静かに泣いていた。それを見て、正明は絞り出すようにぽつりと呟いた。

「これは、主治医としてじゃない。幼なじみとしての俺からの頼みだ」


 翌日明美は何事もなかったかのように、いつもの時間に見舞いに訪れた。

「おはようございます」

 正明は振り返り

「あ。おはようございます」と明るく返した。

 義道は明美の方を向き、口を開く。

「なんだまた来たのかお前。俺のこと、よっぽど好きなんだなあ」

 明美は少し目を見開いて、はにかんだような笑顔を浮かべた。

「ここから、お花見しようと思って」

 そう言って手に持っていたお重を高く掲げて見せる。

「まさか」という義道の返事に満足げに頷き、

「いなり寿司、こしらえてきました!」と明るく宣言をして、いつもの通り、義道のベッドの脇の椅子に座った。

「いなり寿司、俺も好きだなあ」

 正明は明美が義道のベッドのサイドテーブルを移動させる姿を見て、顔を綻ばせた。それから、眉をハの字にして続ける。

「ただ、残念なんだけど、ここから見える桜はあれしかない」

 正明の指差した先を三人で眺める。窓の外に、かすかに人差し指くらいのサイズの桜が見えた。

「あとは、この辺の……」

 薫子さんが飾りつけた折り紙の桜やらチューリップやらが色とりどりに壁を彩っている。正明はその中から一際大きな何枚もの折り紙を使って仕上げられた桜の木を指差した。義道はその大作を見て頷く。

「俺にはこれで充分だ。こいつのいなり寿司さえありゃあ、桜なんてなくたって良いくらいだ」

 明美はそれを聞いて嬉しそうに笑う。

「もう、そんなこと言って」

「俺が死んでも供えてくれよ。俺はこれが大好物なんだ」

 驚いた明美は顔を固まらせて、義道を見る。義道は、晴れやかな顔で笑っていた。

 言葉につまる明美を気遣い、正明が院長室から皿を持ってきた。

「俺にも少し、分けてくれ」

「仕方ねえなあ。少しだけだぞ」

 偉そうな義道の言い草に、明美は涙を飲み込み

「なによ。自分で作ったみたいに」と義道の肩をつついた。

 その日はしばらく病室から三人の笑い声が絶えず、その前を通り過ぎるたび漏れ聞こえる笑い声に、真治も薫子さんも思わず微笑んだ。


 義道の葬儀には、多くの人が駆けつけた。残された明美を心配して、明美の友人も数多く参列した。義道と明美の仲が良かったことが、逆に周囲を心配させたようだった。

 自分を心配して励ましてくれる人達の声に明美は流石に涙をこらえきる事は出来なかったものの、意外とすっきりとした心境で葬儀に臨んでいた。

「大丈夫。泣いてばかりいると早く迎えに来るからなってあの人に言われているから。私もまだ、あの人から解放されてやりたい事もあるから大丈夫よ」

 そう返事をする明美を見て、「無理をして」と逆に泣き出す人もいた。けれどこれが、紛れもない明美の本心なのだから、胸を張って言い続けた。

 遺影には少し若くて痩せる前の写真を使ったけれど、最後のお花見の日に桜の折り紙を背景に二人で撮ってもらった写真はお守りとして明美の鞄の中に忍ばせてある。明美だけの宝物だ。


『いいか。俺が死んでもすぐ追いかけてくるんじゃねえぞ。

お前がついてきたら、俺はいなり寿司が食えなくなるだろう。

お前のいなり寿司でないと駄目なんだよ。面倒だろうがよろしく頼む。

病気のなくなって楽になった俺が、いなり寿司はもういい、たらふく食ったって夢に出てくるまで、お前は追いかけてくるなよ。

俺がいて出来なかった事を存分にやれよ。

あと、俺がやりたかった事は代わりにやっといてくれ。

ちゃんと待っててやるからよ。

俺は幸せだったよ。ありがとうな』


 病室に置いてあった、最期のラブレター。

 そのいいつけを守るため、明美は落ち込んでばかりもいられないのだ。

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