正明が診療所の院長になった訳

 小野島診療所は正明が設立し、開業した診療所である。

「お父さんはね、最初はここでお医者さんをやる気なんてなかったのよ」

 若い頃の正明の妻、晴子はるこがまだ幼い真治を膝に乗せ、縁側の陽だまりの中で語りかける。

「へー。じゃあなんで、お父さんはここでお医者さんをすることになったの?」

 真治は目を輝かせて晴子の方に体を向けて抱きついた。晴子はくすぐったそうに「ふふ」と笑い、真治を抱きしめる。

「そうね。聞きたい? お父さんの若い頃の話」

「うん!」

「じゃあ、教えてあげる。あのね……」


          *


 小野島正明は山里村で一番の名家の息子として生まれた。

 祖父は村長を務め、曽祖父から受け継いだ基盤をさらに盤石なものとし、狭い集落ながら安定した統治を実現していた。

 正明の父はそれを継ぐべく、期待の長男として祖父の秘書をしていた。


 長男として生まれた正明は、生まれつき利発で、その聡明さを見込まれて「せっかくだから医者になれ」と父に言われて育った。

 正明も、狭いこの集落だけで人生を終えたくないと思っていたので、言われた通り熱心に勉強をした。しかしその努力を讃えられることを嫌い、そういうときは決まって娯楽の少ない過疎地では勉強くらいしかすることがないから、と照れて顔を背けた。

 二つ年下の弟の貴明たかあきは幼い頃から祖父のお気に入りで、祖父宅に入り浸りだった。勉強ばかりの正明と比較されるのが嫌だったのか正明に反発することが多く、正明の方も父の期待に応えようと勉学に励む日々を過ごしていたのであまり親しく遊ぶこともなく、大きくなるにつれてどちらからともなくそれとなく避けるようなぎくしゃくした関係になっていた。

 そんな貴明に「家のことは頼む」と言い残して家を出たのは国立の医大に入学が決まり、下宿先へと引っ越しをするときだった。その時ばかりは貴明も、涙目の母の横で真っ直ぐ正明の顔を見つめ、神妙に頷いた。


 正明は初めての都会生活で初めは戸惑うばかりだったが、そのうち慣れた。そして医大生という響きの通りの良さに気付き、その特権を最大限活用しようと遊んで学んで、忙しい日々を過ごした。

 その頃届いた手紙で、祖父がそろそろ村長を退き、父に基盤を譲ろうかという話になっている事を正明は知った。貴明が丁寧にしたためた手紙に目を通した正明はそうか、としか思わなかった。


 その後学年が上がり、父が村長になったと聞いても実家への足は遠ざのいていた。

 いつでも会える、という頭でいた。そもそも遊ぶ方が忙しかった。誰からでもいつからでも声がかかれば遊びに行った。

 狭い村で優等生の皮をかぶっていた反動なのか、誰も自分の生まれを知らないこの地で、優等生でいることが恥ずかしかった。

 遊び人、という響きに憧れた。そう呼ばれることが多い同級生達の勉強だけではないその知識の厚さには感心するばかりで、自分もそうなりたいと思った。更に不思議なことにその同級生達は何故かよく遊びに顔を出すのに、成績は悪くなかった。その要領の良さも、謹厳実直を旨として育てられた正明には眩しく映り、夢中になってその背を追いかけた。やりたいことが多すぎて、寝る間もないほど忙しかった。


 祖父が亡くなったという報せは、電報で受けた。素っ気ない『スグカエレ』の文字を見て、正明は葬儀に出るためしぶしぶ帰省をした。久々に見る故郷は、正明が普段暮らす都会と比べ、全てが辛気臭くて色褪せて見えた。

 正明を歓迎してくれた母の髪にはところどころ白いものが混じり、父はすっかり痩せ細っていた。目の下の隈は長として背負う責の重さがのしかかった故なのだろうと察した。

 棺の中の祖父も同様に、在りし日の福々しい姿の面影はすっかり消え失せて、しわくちゃになった顔で目を閉じていた。落ちぶれた、という単語が正明の頭に浮かび、首を振ってそれを追い払った。

 たくさんの変化を目の当たりにした正明が一番驚きを感じたのは、弟の貴明の姿だった。貴明は父の横に控え、きびきびと秘書の仕事と、祖父を亡くした村長の息子の役割を果たしていた。

 挨拶にくる多数の皺くちゃの高齢男性それぞれを完璧に把握し、頭を下げ、それぞれ異なる世間話を展開し、最後は「頑張ってくれよ」と激励をもらい「ありがとうございます」と握手を交わす。どこからどう見ても、将来を期待された好青年だった。

 正明が実家を出るときよりも格段に頼もしくなった貴明の成長を目の当たりにして、正明が感じたのは疎外感だった。自分の居場所はもうここにはない。

 適当に言い訳を並べて実家から早々に逃げ帰った。下宿に帰って一息ついたとき、もう自分の家はここで、居場所はここしかないのだと思った。


 それから正明は全く帰省しなくなった。盆暮れ正月全て理由をつけて帰省を断った。初めのうちは細かく理由を尋ねられたり、しつこく催促をされたりしたが、そのうち向こうも諦めたのか、聞かれることも無くなった。気が楽になった反面、とうとう本当に自分の居場所は無くなったのだと一抹の寂しさも感じた。


 そうこうしているうちに卒業して医者になり、医学が医療として仕事になったものだから余計帰れなくなった。

 自由時間は減り、頭の中は患者の病気の事ばかりだった。

 医療現場は人手不足だった。若い正明は早く一人前になって立派な医師として医療の現場を支えたいと願った。


 それは小さな集落の慣習や義理やしがらみといった狭い次元の話ではなく、世界に誇れる日本の高度な医療の現場だった。父や貴明よりもたくさんの人の役に立っていると思えた。自分の居場所はもはや狭い下宿のアパートではなく、戦場である病院ここなのだ。

 正明はのめりこんだ。自分の手で、救えるものや守れるものがあると感じるのは生まれて初めてだった。医者の仕事が楽しくて仕方なかった。夢中で日々を過ごしていたから、田舎のことはほとんど思い出すこともなかった。


 父の具合が悪いとの報せを受けたとき、正明はとても忙しかった。ポストに溜め込んだ何通もの手紙に目を通すことが出来ずにいるうちに貴明から電話があり、「父さんの具合が悪い」と聞かされた。この後詰まったいくつもの予定を頭に思い浮かべながら「うん。そのうち帰る」と答えた。

 貴明は声を低くして「そのうちっていつだ」と明確な日にちを要求してきた。

「兄貴が思っているより、父さんの容体は悪いぞ」

 電話口の切羽詰まった貴明の声を聞き、祖父の葬儀の時の顔色の悪い父の顔が頭をよぎった。

「分かった。来週にはなんとか都合をつける」

 見通しも立たないのに思わずそう言ったのは、電話の向こうの貴明の声に悲痛な何かを聞きつけたからなのか、それとも虫の報せがあったのか、今となってはよく分からない。

 結果的に正明は父の最期に立ち会えなかった。

 正明が対面出来たとき、既に父は白い布をかぶせられた後で、久々に見たその顔は、あの頃よりもさらに痩せていた。

「父さん……」

 何か父に声をかけようと思うのだが、言葉は出てこなかった。どうしてこんなに早く別れなくてはならなかったのだろう。正明は唇を噛み締め、父の顔を白い布でそっと覆った。

「死因はなんだ?」

 詳しい話を聞きたいと思い、貴明に尋ねた。言葉よりも先に返ってきたのは、貴明の拳だった。

「偉そうに言うんじゃねえ!」

 殴られた左頬を抑え、大声で喚く貴明の顔をじっと見つめた。

「何度も何度も体調が悪そうだ、帰ってこいって手紙を送ったのに、よその患者を救うのが忙しいんだかなんだか知らないが、返事も寄越さない。家のことなんて顧みなかった癖に、今更偉そうな口を聞くな!」

 貴明の目には涙が溜まっていた。

「俺は何度も兄貴に電話した! 出なかったけど! よっぽど仕事が忙しいのかと何度も手紙も書いた! 父さんは兄貴に会いたがっていた! 俺じゃ駄目だった! なのに!」

 貴明はもう一度正明を殴った。先ほどより力はこもっていなかった。手応えがなかったからなのか、正明の胸ぐらを掴んだ。

 正明は、されるがままだった。

「兄貴が忙しくてつかまらないと父さんに報告したとき、父さんは笑ったんだ! 『俺の息子は多くの人を救ってるんだな』って言ったんだ! 自分が危ないのも、もう分かってた! なのに!」

 貴明は深く息を吸った。

「父さんは最後に入院する前に『遠くの病院に行くくらいなら、正明に診てもらいたいのになあ』とまで言ったんだ! その時兄貴は何してた? 赤の他人の人生の方が、そんなに大事かよ! 血の繋がった親より大事な命なんて、あるかよ!」

 正明は目を見開き、ボロボロと流れる涙を流れるがままにしていた。

 目の前で貴明が自分を非難するたび、心臓を刺されているような気分だった。

 全く貴明を止めることなく隅で一緒に泣いている母も、おそらくは同じ気持ちなのだろうと思った。

 俺は、身近な命を救うことも出来ない、駄目な医者だ。

 なんのための医師免許だ。救いたい人を救えなくて。

 父と手を繋いだ事。父の大きな手が、正明の頭を撫でて、褒めてくれた事。何故か昔の思い出ばかりが蘇る。

 貴明はもう力なく泣いていた。正明の体も解放した。

 正明も、目から流れる涙に溶けて、自分の全てが流れていく気がした。


         *

「それでね、お父さんは地元に帰ってきて、この診療所を開いたの。自分にしか救えない命を救いたいって」

「へー」

「それまでこの辺にはお医者さんがいなかったから、間に合わなくて助からなかった人もかなりいたらしいけど、そんな人を救うために、お父さんはこの村でたった一人のお医者さんになったのよ」

「僕もお医者さんになる!」

「うふふ。そうねえ。真治もお医者さんになるのなら、この村のお医者さんは、二人になるものね」

「うん! 僕、お父さんが病気になったら、治すよ! お父さんは患者さんの病気を治すのに大変だから、お父さんの事は僕が治すんだ!」


 晴子は真治をぎゅっと抱きしめた。

 その目にはきらりと涙が一粒だけ、滲んでいた。

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