診察6【児玉奈美】

 朝起きたら声が出なくなっていた。

 あくびをしたのに、自分では出したはずの声が聞こえない。耳がおかしいのかと思って慌ててテレビをつけると、爽やかな顔をしたスーツのキャスターが昨日開催された地元のイベントの盛況ぶりを報じていた。デフォルメされたキャラクターがトリッキーな動きを見せつけていて、周りの笑い声まではっきりと聞こえる。

 テレビの音を消し、自分の喉元に手を当てて「あー」と言ってみる。聞き慣れた自分の声は出てこない。空気を吐き出す音だけが、耳の奥に響いた。

 どうしよう、と奈美なみは焦った。今日も仕事だというのに、これでは困る。時計を見る。支度をしなければ間に合わない時間だ。

 欠勤しようかとも思った。しかし声が出ない。声が出なければ欠勤の連絡が出来ない。

 体をあちこち触ってみるが、不都合はない。体調も良い。喉も痛くない。特に昨日も夜更かしをしたり深酒をしたりといったことはなく、至って平和に床についた。まさか翌日声が出なくなるなどと想像も出来ないくらい平和に一日を終えたのだ。

 それなのに、なぜ。

 考えても仕方がないと、奈美は出勤の支度を始めた。とりあえず出勤してから、教頭先生にでも相談しようと思った。


 奈美の勤務先は、山里小学校。この過疎の村で唯一の、全校生徒が十人、教員は校長と教頭を合わせても七名。各学年の生徒数は多くても三人で、一人ずつしかいない一年生と二年生は一緒の教室で担任は一人という最低限の人数配置になっている。非常に長閑のどかな、田舎の小学校である。 

 奈美はその人口密度の極めて低い学校で、四年生の担任をしている。

 受け持ちは野本晃太のもとこうた谷崎賢人たにざきけんとの二人。元気一杯の素直な少年達の顔を思い浮かべて、今日は誰かに代理で授業をしてもらうしかないな、と残念に思った。


 車で出勤した奈美は職員室で自分の置かれた状況を教頭先生に相談した。声が出ないとはなんと不便なことかと思いながらも、筆談でどうにか理解してもらうことが出来た。

 教頭先生が代わりに四年生の授業を担当してくれることになり、奈美は診療所に行ってくるようにと指示を受けた。廊下まで響き渡る元気な子供達の声を背に、奈美は学校を出て診療所へ向かった。今日は全学年でドッジボール大会が行われる予定だったのに、自分の教え子達の勇姿を見られないことが残念だった。


 奈美はこの学校に赴任して引っ越して来てから特に病気をしていないので、診療所へ診察に来たのは初めてだった。緊張して入っていくと待合室は混んでいて、小学校よりも人口密度が高かった。

 受付の女性は柔らかな笑顔で「初診の方ですね」と言い、保険証の提出を求めた。奈美の応対から声が出ないことを察してくれたらしく、ホワイトボードを取り出して『耳は聞こえますか?』と書いてくれた。

 ホワイトボードを見て奈美は頷き、ホワイトボードの余白に『聞こえます。声が出ないだけです』と書き込んだ。

 その文字を覗き込んで受付の薫子さんは頷いた。そしてゆっくりと奈美に伝える。

「この問診票を書いて、お掛けになってお待ち下さい。それからそのホワイトボードは、そのままお持ちになって頂いていて大丈夫ですよ」

 言い終えるとホワイトボードの文字を消し、黒板消しの形をしたホワイトボードのクリーナーとペンも一緒に差し出してくれた。問診票を受け取るときに微笑んでくれたその優しさと、奈美が座ろうとする前に詰めてソファーのスペースを開けてくれた他の患者さんの気配りに、ちょっと泣きそうになってしまった。


 待合室の混雑の割にはあまり待たずに名前を呼ばれた。

「はい。児玉こだま奈美さん。こんにちは」

 よかった、優しそうだし、意外と若い先生だと、奈美は安心した。

「声が出ない、今朝から」

 先生こと真治は問診票を見ながら呟く。

「熱も、ない。その他の症状もない、と」

 カルテに書き込みながら独り言のように言う。書き終わったのかペンを置くと奈美の方を向き「では、喉を見てみましょう」と言った。

 その真剣な顔に、奈美は少しドキッとした。意外と、格好良い先生だった。

「うーん…」

 一通りの問診を終え、血液検査の結果の紙を見ながら真治は首を傾げた。

「特に異常は見られませんねえ…」

 奈美もそう思う。だから困って診療所に来たのだ。

「と、なると心因性が疑われますが……。なにか心当たり、あります?」

 聞かれて奈美はすぐに首を横に振った。

 最初に転勤を聞かされた時は正直嫌だった。けれど来てみれば田舎の少人数教育は柔軟な対応が可能で、細かなフォローも行き渡り、満足に向き合うことが出来るので奈美の肌には合っていた。

 昨年から受け持っている晃太と賢人もすぐに調子に乗る癖があるが基本的には素直な良い子達で、他の学年の先生や生徒達との交流も特に不安な点はない。そもそも学校全体がのんびりとしていて平和なので、揉め事はあまり起きない。

 この地に越してきて一年経つが、ここでの生活も特に不便はない。奈美は必死になって考えてはみたものの、ストレスの要因が、全く思い当たらない。

「そうか…。うーん…」

 真治はそう言ってなにやらデスクに立ててあった分厚い本を手元に引き寄せてページを捲る。字が小さ過ぎて、なにが書いてあるのかは奈美には分からなかった。

「まあ、真剣に考え過ぎても良くないですし、とりあえず様子を見ましょう。翌日起きたら何事もなかったかのように声が出るというケースも結構ありますからね」

 真治は本を閉じ、奈美の方を向いて優しく微笑んだ。

 奈美は頷いたものの、結局解決には至らなかったなあと内心でため息を吐いた。


 翌日学校に姿を現した奈美の顔を、教頭先生が不安げに覗き込んだ。

「大丈夫ですか?声、出るようになりましたか?」

 奈美は眉毛をハの字にして、首を横に振る。

「原因は分かりましたか?」

 教頭先生の問いかけに、奈美は持参のホワイトボードで答える。昨日診療所帰りに街まで行って買ってきた新品だった。

『全然心当たりがないのですが、心因性と言われました。様子を見るしかないそうです』

 教頭先生は腕を組み「うーん」と唸る。ただでさえ気弱そうなその顔に汗をかいている。

「昨日、晃太くんも賢人くんも児玉先生をすごく心配していたんですよね。体調に問題がない様でしたら、出来れば顔を見せてあげて欲しいです。どうします? 私が今日も代わっても良いですし、児玉先生がやるようでしたら補佐につきますよ」

 奈美は首を縦に振り、『やらせて下さい』とホワイトボードに書き込んだ。

「では、よろしくお願いします。でも、もし体調が悪かったりしたら、遠慮なく言って下さいね」

 教頭先生は奈美の顔を見て力強く頷いた。


「おはようございます」

 明るい声で挨拶をする教頭先生の後ろに付き従い、奈美はいつもの自分の教室に入る。

「先生!」と晃太も賢人も奈美を見るなり立ち上がった。特に賢人は勢いよく立ち上がり過ぎて、自分の座っていた椅子を後ろに倒した。

 奈美は黒板に向かい、白のチョークを手にした。使い慣れた黒板に『おはよう』と書き、二人の方を向く。

「大丈夫?」と晃太が聞いた。その声を聞いて頷き、座って、とジャスチャーで二人に伝えた。晃太も賢人もすぐに分かったようで勢いよく椅子を引いて座った。

『大丈夫なんだけど、先生は今日声が出ません。黒板に書くので、お返事に時間がかかるけど、ごめんね』

「はーい!」

 晃太と賢人が声を合わせて返事をするのを見て、教頭先生は教室の後ろに移動し、予備として置いてある低い椅子に腰掛けた。あまり積極的なフォローの必要性はなさそうだと安心したからだ。

 奈美は、黒板に

『どうせ先生は声が出ないので、みんなで黒板でおしゃべりしてみましょう』と書いた。

 賢人が「いいの?」と目を輝かせて立ち上がる。奈美は笑って頷く。それを見て晃太も立ち上がり、二人で黒板に駆け寄る。

 大きな黒板は三人が使っても、スペースにゆとりがあった。

 賢人が『先生どうして声が出ないの?』と書くと、

奈美が『どうしてか分からないの。先生にも』と書く。

 晃太が『どこかいたいの?』と書くと、

奈美が『いたくないよ。心配してくれてありがとう』と書く。

 賢人が『黒板て、書くのむずかしいんだね』と書くと、

奈美は赤いチョークで、賢人の『書』の漢字を修正した。横棒が一本多かったのだ。

 指摘された賢人も、それを見ていた晃太も笑った。奈美も声を出さずに笑った。


『先生、絵、書いていい?』と賢人が言ったのをきっかけに、黒板は大きなキャンバスになった。それぞれが思い思いの色のチョークで、自由な世界を描く。

 晃太は飛行機、賢人はゲームのキャラクターが得意なようだった。

『二人とも上手だね! 花丸!』と奈美が書くと、二人とも飛び上がって喜んだ。

 たっぷりと時間をかけて完成した黒板の大作は、教頭先生が職員室から持ってきたデジカメに収めた。

 午前中の授業は全て黒板の前で行われた。奈美が黒板に問題を書いて晃太と賢人が交互にその答えを書いていく。奈美は二人の不得意な部分を重点的に復習として出題したから、最終的には晃太と賢人がお互い力を合わせて問題を解いた。

 教頭先生は賢人が晃太に不得意な計算の解き方を教えている姿を見て、上手いな、と思った。声が出なくても問題なく授業を進めていけるのは、普段からの信頼関係の構築が上手くいっており、生徒の個性を充分に理解しているからだろう。フォローの必要なんてなかったかもなと笑い声の響く教室で教頭先生は何度も微笑んだ。


 午後は音楽の時間だったが、流石に出来ないので晃太の希望で折り紙を折った。晃太は自分で提案しただけあって、上手だった。

 紙飛行機を折る晃太は生き生きとしていて、なかなかうまく折れない賢人に進んで「こうやって折るんだよ」と教えてあげていた。

 奈美も教頭先生も一緒になって折り紙を折った。教頭先生は老眼鏡をして折り紙をりながら、何年ぶりだろうなと目を細めた。

 とても平和な時間だった。

 晃太が教頭先生に、「校庭で飛ばしてもいいですか」と尋ねた。

 教頭先生がこの時間にどのクラスも校庭を使う予定はないことを確認し、「いいよ」と答えると、晃太も賢人も自信作を片手に校庭へと駆けて行った。

 眉間に皺を寄せる奈美を見て、教頭先生は「廊下は走っちゃいけません」と注意した。ようやくフォローが出来たと教頭先生は鼻の穴を広げて、満足げな顔をした。


 校庭の普段は五十メートル走に使う白線のラインに並んで立ち、晃太と賢人は紙飛行機を飛ばす。

 晃太の方が飛ぶこともあれば賢人の方が飛ぶこともあり、自分の紙飛行機が先に落ちると、お互いとても悔しそうにした。

「いやもっかいやろ!そしたら俺の方が飛ぶから」

「俺の方が飛ぶよ!」

 奈美がちょんちょんと二人の背中をつつき、見ててね、の合図を出し、紙飛行機を飛ばした。ゆっくりと時間をかけて遠くまで飛んだ。

「先生の、すっげー!」

「飛べ飛べー!!」

 奈美の紙飛行機が落ちるまで、晃太と賢人は熱い声援を送った。奈美はそれを目を細めて見守っていた。

 教頭先生も、「えいっ」と掛け声をかけて飛ばしてみた。三十センチほど飛んで、直角に落下した。

「教頭先生の紙飛行機は、もう少しこう折った方がいいのかも」とアドバイスする晃太。

「いや、飛ばし方が、腰が入ってないんだよ」とアドバイスする賢人の意見を真剣に聞き、頷く教頭先生。

 奈美の声が出ないことなど問題なく明るい声を響かせる自分の教え子を見て、奈美は胸を撫で下ろした。良い生徒に恵まれたと泣きそうになる自分を誤魔化して、奈美はまた紙飛行機を飛ばした。青い空に吸い込まれるように、高く高く飛び上がった。


 翌日は山里小学校の健康診断だった。真治が保健室を借り、生徒の問診を担当した。

「はい。次は野本晃太くん」

「あ! 紙飛行機の先生!」

「どう? 最近はお腹痛くない?」

「全然痛くない。俺の紙飛行機ね、すごい飛ぶようになったよ! 今度また一緒に飛ばそうね!」

 真治はにっこりと笑い「そうだね。僕も練習しとく」と言った。

 するとすでに順番を終えていた賢人が戻ってきて

「晃太は紙飛行機に頼りすぎなんだよ! 俺が飛ばし方教えてやる! 先生にも教えようか?」と胸を張って言った。

 真治は苦笑して「そうだね、お願いしようかな」と返した。

「賢人! 早く戻りなさい! 今は晃太の番でしょうが!」

 元気の良い声を響かせて保健室に入って来た奈美を見て、真治は目を丸くした。

「あ。声、出るようになったんですね。良かった良かった」

「ありがとうございました。お陰さまで」

「いえいえ何も出来ませんで」

 奈美と真治がお互いにぺこぺこと頭を下げていると、賢人が冷やかした。

「あ、先生、お医者さんのこと好きなんじゃないの!」

 晃太も一緒になって囃し立てる。

「顔赤くなってるー!」

「うるさいうるさい! ちょっとは静かにしなさーい!」

 奈美は確かに頬を赤くして、賢人の手を引っ張り、保健室から去っていった。

 その賑やかさに思わず笑ってしまった真治は、

「良い先生で良かったね」と晃太に言った。

 晃太は照れ臭そうに「うん!ちょっとうるさいのがたまにきずだけど」と答え、

「もし好きになっちゃたら、俺応援するよ!」と付け足したので、真治の顔まで思わず赤くなってしまった。

「でも」と晃太は真治の顔を見て「先生を泣かせたら承知しないから」と頬を膨らませて言う。

 真治は目を細めて「晃太くんは先生が大好きなんだね」と言った。康太が迷いなく「うん!」と頷いたのを見て、良い先生なんだなあと真治は思わず微笑み、奈美の声が出るようになって本当に良かったと心から思った。

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