診察5【川村志津子】
若先生はなかなかイケメンよねと、
「若先生」
「はい。川村さんこんにちは」
「どうなの?」
「何がです?川村さんの血圧ですか?」
若先生こと真治は首を傾げる。
「違うわよ!若先生が失恋したって噂を聞いたわよ」
「失恋なんてしてません!」
「そりゃあ都会から迎えに来たエリートな彼氏じゃ、いくら若先生でも太刀打ち出来ないわねえ」
「だから、僕は」
「大丈夫!若先生はイケメンだからちゃんと次があるわよ! 元気出して!」
「あの…」
「はい! じゃあ私の診察始めてくれる? これ以上若先生の傷には触れないから!」
「……はあ、では……」
不本意そうに診察を始める真治を見て、でも、若先生は人が良すぎるのよねえ、と志津子は他人事ながら心配になる。
我が息子もこれくらい、いやここまででなくていいからもう少しだけ、優しければなあ。
まあ、もうどこかで元気でやっててくれさえすれば、いいけどさ。と自分の中でネガティブに転ぼうとする思考を打ち切り、未練を断ち切るように志津子は首を横に振った。
真治はそんな志津子に「川村さん、聞いてますか?」と少し不服そうな視線を向けた。
妊娠検査薬で陽性反応が出た為で、待望の第二子が確かにお腹の中にいることを証明してもらいに来たのだ。
自分の診察が待ち遠しく、そわそわそわそわと落ち着かない。そんな姿を見て、四歳になったばかりの娘の
自分でもそう思う。
診察後、駐車場に停めた車の中で朱音は夫の
「もしもし?」
「おめでとう!」
「お?」
「おめでとう! 来年には華鈴はお姉ちゃんになります!」
「おおー」
智典が電話越しに喜ぶ声と、華鈴が「華鈴、お姉ちゃん! お姉ちゃん!」と喜ぶ声が重なって、かなり騒がしかった。
智典は仕事帰りにケーキを買い、急ぎ足で帰宅した。
玄関まで出迎えに来てくれた妻と可愛い娘を抱きしめて、幸せを噛み締めた。
朱音はお祝いにと智典の好物である鳥の唐揚げを用意してくれていた。
「パーティーだ! ご馳走だ!」と目を輝かせる華鈴が可愛くてその柔らかいほっぺをつまむと、「やだー」と言いながら華鈴は笑って智典の膝の上に収まった。唐揚げを朱音にバレないようにつまみ食いして華鈴に咎められ、父親としての幸せを全身で感じていると、仕事の疲れが吹き飛んだ。
笑い声が響く食卓を囲んでいるとき、智典は生き甲斐を感じ、この幸せを守る為に一層頑張ろうと気力が漲る。家族のありがたみを背中に背負い、毎日が充実していた。
お風呂に入ると、華鈴ははしゃぎすぎてしまったようで湯船の中でうとうとし始めた。智典は慌てて風呂から上がり、半分寝てしまっている華鈴に服を着るように促した。華鈴は頬を蒸気させ、横になると直ぐに寝息を立てた。そんな姿を見て、朱音と顔を見合わせて笑った。
最近口も達者になり、ませてきた華鈴が静かにしているのは寝ているときくらいで、成長を日々実感させてくれる。けれどその変わらぬあどけない寝顔を見ると、親としてたまらなく愛おしい気持ちが湧いてくる。自然と口元が緩んでしまう暖かい感情を朱音と分かち合い、そっと華鈴の眠る部屋の襖を閉じた。
夫婦二人になり、なんとなく一緒にバラエティを眺める。智典の手元には、発泡酒が用意されている。
酔いも手伝って、智典は普段なら笑わないであろう些細な芸人の表情や言動に、いちいち腹を抱えて笑ってしまう。つられて朱音も笑い、時々華鈴を起こさないようにと思い至って声を抑えた。
そのバラエティ番組を見終えてCMに切り替わったとき、智典は言った。
「朱音、身体を大事にしてくれよ。無理しないで」
朱音は自分のお腹をさすり「分かってるよ」と笑った。それから急に表情を硬くして、下唇を噛んだ後、言いづらそうに口を開いた。
「そろそろ、お父さんとお母さんにも華鈴を会わせてあげられないかな?」
智典は手元の発泡酒の缶をぎゅっと握りしめて動きを止めた。
妻の朱音が自分と両親の軋轢を気にしているらしい事は、ずっと気付いていた。気付いた上で、目を逸らしていた。
「なんで、今言ったの?」
「機嫌が良さそうだったから」
朱音は智典の顔色を伺うように上目遣いでこちらを見た。ずっと切り出すタイミングを待っていたのだろう。
「華鈴も、会わせてあげたいよ」
「……」
智典は上手く返事が出来ず、ほとんど空になった発泡酒の缶を見つめた。
「こんな田舎で一生を終えるなんてまっぴらだ」と父と喧嘩になり、
「俺は夢を叶えてみせる」と都会に出てきて早八年。
智典も両親の事が気になってはいた。
けれど、
「一人っ子なんだから、四の五の言わずに家業を継げ」と言った父の形相と、母の悲しそうな顔を思い出すたび、両親が自分を理解してくれなかった悲しみと怒りが蘇るのだ。
智典はミュージシャンを夢見て上京した。
音楽仲間の紹介で朱音と出会って結婚して、家族を養うために選んだ道は、結局父と同じ大工だった。それもまた悔しくて、実家を出てから一度も連絡を取っていない。朱音と結婚したことも、華鈴が生まれたことも両親は知らない。知らせる気にはならなかった。もう、意地なのだ。
「ねえ。私、こんな事言いたくないけど、家族ってのはいるのが当たり前じゃないんだよ」
朱音は早くに両親を亡くして苦労している。
だから家庭というものに憧れていると、付き合い初めの頃に教えてもらった事がある。朱音はその言葉通り、智典と華鈴と築いていく毎日を、とても大切にしている。そんな朱音の言葉は、ずしんと智典の心に響いた。
「分かってる」とかろうじて返事をしたものの、智典はその夜、眠れなかった。
志津子は今日も郵便配達のバイクが走り去った後、空っぽのポストを見てため息をついた。手紙が来ていないことにも、毎日息子の手紙がきていないかと確認せずにはいられない未練たらしい自分にも落胆してしまう。
八年経ってこないものが、今更来るはずがない。それは分かっているのだけれど。
志津子がとぼとぼと家に入ると、丁度家の電話が鳴り出した。
最近では鳴ることが少なかった電話が力いっぱい電子音を響かせていて、志津子は焦った。こんな時間に誰だろうと少しだけ不安になりながら「はい」と受話器を耳に当てた。
「川村さんのお宅ですか?志津子さん、いらっしゃいますか?」
どこかで聞いたことがあるような女性の声が、受話器の向こうから聞こえる。誰だったかと記憶を辿っていると
「私、小野島診療所の原田と申します」と言われて志津子は思い出した。
声の主は高血圧の持病を持つ志津子がいつも通っている診療所の受付の原田さんだ。
「はい、志津子は私ですが…」
なにか忘れ物でもしたのだろうかと考えながら返事をした志津子の耳に飛び込んできたのは、意外な知らせだった。
「
志津子は「すぐに行きます!」と電話を切った。
今まで怪我も病気も無縁だった夫が、まして仕事中に怪我をしたなんて。
いてもたってもいられず、靴下を履こうと思ってブラシで髪をとかし、財布を鞄に入れようとして保険証を探そうと引き出しを開けると言ったパニック状態に陥った。自分でもなにがなんだか分からない。とにかく気持ちばかりが焦って、どうしようどうしようと狼狽えて部屋中をひっくり返してしまう。
その時、もう一度電話が鳴った。
もしやこの電話は診療所からではあるまいか。先ほど志津子は返事を待たずに電話を切ってしまったのだ。夫の容態が悪化して実は頭を打っていてとか、そんな電話かもしれないと焦って勢いよく電話に出た。
「はい。川村です!」
「……」
電話の先は無言だった。
「悪戯なら切るわよ!」
まったくこの忙しい時にと憤慨して受話器を置きかけた瞬間、受話器の向こうから声がした。
「俺だけど。智典」
懐かしい息子の声だった。八年待ち焦がれた息子の電話。その声を志津子が間違えるはずがない。
しかし、なぜ。今。志津子は頭を掻きむしりたい衝動に襲われた。
「智典! 智典なの?」
八年ぶりに聞いたお袋の声は相変わらず甲高くてうるさかった。
「そう俺だけど、あの……」
「大変なの!仕事中にお父さんが落っこちて頭を打って意識不明で! お母さん今から診療所行かなきゃいけないの! だからまた電話して! じゃあね!」
仕事の小休憩の合間に勇気を出してかけた電話は、一方的に捲し立てられた上に一瞬で切られた。しかもその内容は聞き捨てならないものだった。
もう少し詳しく説明して欲しくて電話をかけ直しても、家の電話はコールが鳴るばかりで留守番電話にもならない。
あの慌てぶりはただ事ではないと、心配でいてもたってもいられなくなった智典は親方に事情を説明し、早退させてもらうことにした。
家に帰って朱音に相談をすると、
「そんなに一大事なら一刻も早く帰ろう」と大きな鞄に智典の着替えを詰め、出かける支度を始めた。
ここから実家まで車で八時間。田舎の地名だけは過去に話したことがある。
朱音はそれを覚えていて、
「今から出れば、夜には着くよ」と無駄のない動きで華鈴の着替えまで詰め始める。
智典は帰るかどうかもまだ決めていなかったのに朱音は迷いなく帰省の準備をしている。けれど別れ際の父と母の態度を思い出し、朱音に嫌な思いをさせたくないと思った。
「俺だけでいいよ」
しかし朱音は手を止めることはない。
「私だって心配だから。それに慌ててるから一人だと危ないよ。一緒に行けば安全運転するでしょ」
ドアの端から半分身を覗かせて様子を伺っていた華鈴に朱音が明るく声をかける。
「華鈴、お出かけだよー」
何も知らない華鈴は「わーい」と飛び上がって喜んだ。
転がるように展開する事態に翻弄されながら智典は「親父、無事でいてくれよ」と願った。
「川村さん、じっとして下さいよ。固定出来ないんで」
「大工にとって腕は命なんだぞ! それをお前、そんなもんつけられるかよ!」
志津子が診療所に到着した時、真治と満彦は揉めていた。
「あなた!頭、大丈夫?」
「お前、喧嘩売ってんのか?」
「え?」
「誰も頭なんか打っちゃいねえよ。それとも俺の頭がおかしいって言ってんのか?それは元からだ」
あまりにもいつも通りの夫の口ぶりを聞き、志津子はへなへなと崩れ落ちた。
「え?じゃあ、どうしたの?」
「腕の骨がちょっと傷付いてるらしいんだけどよ。この先生が大袈裟で、こんな 不格好なもん腕に添えろってんだ。仕事になりゃしねえだろこんなのしたら」
「ですから川村さん、骨折してるんです。大袈裟じゃありません」
一生懸命説明する真治。
それを拒む満彦。
何故か泣き出す志津子。
診察室が混乱の極みにあるところを院長の正明は影から覗いて、息子は大変だなあと薫子さんからもらったクッキーを手に院長室へ引き返した。
智典の運転する車の後部座席で朱音は、自分で説得しておきながらも緊張していた。
義理の父とも母とも初対面だし、かなり緊迫した事態だ。
どうしよう義理の父にもしもの事があったら。
華鈴に悟られないよう平静を装いながら、心臓の音は大きく響く。朱音の頭まで揺らすようだった。
「ちょっと、まってて」
智典の実家に着いたのは、すっかり辺りが暗くなってからだった。車内でも途中立ち寄ったパーキングエリアでも大はしゃぎだった華鈴は、朱音の横で体を丸めて寝息を立てている。
そこは歴史を感じる田舎の一軒家だった。その和風家屋の佇まいを見て、朱音は初めて来たにも関わらず、何故か懐かしいと思った。
「俺だけ、言ってくる。華鈴と一緒に車に乗ってて」
小声で囁かれた言葉に、朱音は頷く。智典は運転席から降り、スライド式のドアを開けて家に入っていった。
しばらくすると「馬鹿野郎!」という大きな声が聞こえてきた。
朱音は車から出て、慌てて智典を追う。失礼を承知でドアを開けて玄関に立った朱音の視界に入ってきたは智典に顔がそっくりな義父、満彦と、笑いこける義母の志津子。
「あ、朱音……」
智典が振り返る。情け無い顔だった。
「ごめん、お袋の勘違いで、親父、こんなに元気だったわ」
「あら!」と志津子が大きな声を出して目を輝かせる。
「まさか、智典の?」
朱音は身を硬直させて大きく鳴り響く心臓の音を悟られないように、畏まった声を出した。
「妻の朱音です。ごめんなさい。ご挨拶が遅くなってしまって……」
挨拶は途中で遮られ、
「可愛いお嫁さん!」と駆け寄る志津子。そのあまりの歓迎ムードに、朱音は戸惑いを隠しきれない。部屋の奥に目をやると、満彦が照れ臭そうに額をかいている。
「早く上がって!」
志津子は朱音の手を遠慮なく引いた。
「あ、娘が車に……」と返した朱音の言葉はまたも遮られる。
「まあ! 孫まで!」と目を輝かせる志津子は、鼻の穴を広げて興奮し切った顔でしみじみと言い放った。
「私、いい仕事したわぁ」
「ですから、お願いだから固定して下さい」
真治の懇願を、満彦は耳に指を入れ、そっぽを向いて聞いた。
「いや。なるべく動かさねえようにはしてるけどな」
「なるべくじゃ困りますよ。変なくっつき方しちゃうんで」
情けない顔をした真治に向き直り、自分の携帯の画面をかざして言った。
「それより若先生、見てくれよこの可愛い写真。華鈴ってんだ。俺の孫だぞ。そっくりで可愛いだろ」
真治は律儀にその画面をじっと見る。
「可愛いですけど、それはこの前も見せてもらった写真です」
満彦は得意げに口の端を上げた。
「それは違う。これは別の写真なんだ。一層可愛さが増してるんだよ」
「ああ、言われてみれば……」
真治はまた、小さい携帯の画面を真剣に覗き込む。
満彦は先日、一気に息子の嫁と孫を手に入れた。
来年にはもう一人孫が生まれると、連日嬉しいニュースに心を弾ませている。
志津子は安産祈願だなんだと毎日うるさいが、志津子からもたらされる孫の近況報告が最近の満彦の楽しみでもある。
息子とはまだわだかまりはあるものの、家業を継ぐことを前向きに考えてくれるとこの前呟いた一言を満彦は聞き逃してはいなかった。なんと返していいか分からず、聞こえないふりをしてしまったのだけれど。
妻の志津子のおっちょこちょいとお節介には、長年本当にうんざりしていたけれど、こんなに可愛い孫と綺麗な奥さんと出会えたのだから、帳消しにしても足りないくらいだ。孫の写真一つでこんなにも楽しい毎日を送れるようになったことは、感謝してもしきれない。
たまには志津子を大事にしてやらないとな。そう考える光彦の口元には、自然と笑みが浮かんでいた。
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