診察3【野本晃太】
最近息子が腹痛を訴えることが増えた。
数日診療所に行く行かないのやりとりをしていたのだが、注射が嫌いな
ところが今日は学校から早退するに至り、
「お医者さんに診て貰えばすぐに良くなるよ」と励ますと、晃太は青い顔で仁美に不安げな表情を見せた。
その弱々しい姿に、もっと早く診察を受けるべきだったと悠長に構えていた自分を張り倒したい気持ちで一杯になった。
「野本さん。野本晃太さん。診察室どうぞ」
診療所は混み合っていたのだが、待合室の椅子に座っていると案外すぐに診察の順番が回ってきた。
晃太が立ち上がったので仁美も一緒に席を立つと、晃太は
「一人で入れるよ」と言った。
青白い上に泣きそうな顔をしている我が子を一人で送り出せるはずなどない。
「いいよ。一緒に行くから」と晃太の背中にそっと手を添える。
晃太は俯いて何も言わず、診察室のドアを開けた。
「はい。野本晃太くん。こんにちは」
診察室で待ち構えていた真治はにこやかに晃太に挨拶をした。
「…こんにちは」
晃太は小さな声で恥ずかしそうに返事をした。人見知りな我が子を案じて仁美が口を出そうとしたのと同じタイミングで、真治が口を開いた。
「晃太くん、何歳?」
そんなの、カルテに書いてあるでしょ、と仁美はやきもきした。しかし晃太は先ほどよりも大きな声で
「十歳。小学四年生です」ときちんと返事をした。
そんな晃太に真治がにっこりと微笑むと、晃太は照れ臭そうにしながらも顔を上げて真治と目を合わせた。
「はい。ありがとう。それで、今日はどうしたのかな?お腹が痛いみたいだけど……」
仁美が受付で記入した問診票を見て、真治が晃太に問う。そののんびりとした口調に腹が立ち、仁美は我慢出来なくなって口を開いた。
「お腹が痛いみたいなんです。食欲もないし、最近ずっとで…。晃太はなんの病気なんでしょうか?」
仁美が問いかけたというのに真治は「ふむ」としか言わずに仁美に明確な返事をしないまま晃太にいくつか質問を続けた。
晃太は一つ一つの質問にきっちりと答え、横になってお腹を押さえられても「そこは痛くないです」と意思表示が出来た。
しかし診察が進むにつれて顔色が良くなり「今は痛くないです」と言ったものだから、仁美は困惑した。痛くなくなったのは喜ばしいことだけれど、先ほどまで弱っていた原因が、このままでは分からないのではないか。
仁美の予感は的中し、真治は
「このまま診断を下すよりも少し様子を見た方がいいかな」とカルテに書き込みながら独り言のように呟いた。
書き終えると晃太に向き直り、
「じゃあ、明日学校が終わってからもう一回来てもらえるかな?晃太くんはお
晃太は頷いた。
「とりあえず今日も薬を出します。ご飯の三十分前に飲んで下さい。この薬を今日と明日飲んでみてどうだったかを明日教えて下さい」
真治の口調があまりにも軽かったので、仁美の苛立ちは収まらない。
「私も付き添います」
少々強い口調で仁美は言った。
何か大きな病気だったらどうしてくれるのだ。この医師は、ここ数日のぐったりした晃太の姿を見ていないからこんな呑気な態度が取れるのだと文句を言いたいくらいだった。
しかし真治が口を開く前に、晃太が仁美の洋服の袖を引っ張った。
「一人で来られるよ。もう四年生だもん」
真治も晃太の台詞に頷き、
「晃太くんはしっかりしてるし、大丈夫ですよ」とあっさりと切り捨てる。
「今日は念のため消化に良いものを食べさせてあげて下さい」
仁美に向けてそう言うとすぐに晃太に向き直り、
「じゃあ、晃太くん、また明日」と言いながら、晃太と手のひらを合わせてハイタッチをした。
晃太は先ほどまでの元気のなさが嘘のように元気よく立ち上がり、
「うん!先生!また明日」と手を振って診察室を出た。
仁美は慌てて晃太の後を追い、診察室を後にする。呑気な医師にも、心配したこっちの気も知らずに医師に懐く息子にも腹が立って、医師に診察のお礼を告げることもなく診察室を出た。
何よ、私だけ仲間外れみたいに、と深くため息を吐いた。
翌日の診察に、晃太は少しドキドキしながら一人で訪れた。一人で診療所に来るのは初めてだ。
待合室では受付の人にも他の患者さんにも「一人で来られるなんて偉いね」と褒められて、とても気分が良かった。
診察室に入ると、診療所の先生も笑顔だった。
「お。よく来たねえ」
晃太は誇らしい気持ちになって
「俺、偉い?」と聞いた。
「偉いよ。さすがだね」
先生は笑って晃太を褒めてくれた。ますます嬉しくなった。
「学校でお腹が痛くなる時のこととか、家でお腹が痛くなる時のことを具体的に聞かせてくれるかな?」
晃太は先生の質問に素直に答えた。時間がかかってしまったけれど、「早くしなさい」と怒られることはなかった。
全部聞き終わると、先生は
「もしかしたらストレスかもしれないねえ」と言った。
「ストレスって?」
「晃太くんが言いたい事を飲み込んだときとか我慢したときに、その我慢がお腹に溜まって晃太くんのお腹を痛くしてるのかも」
そう言われれば確かにそうだと晃太は思った。
同じクラスの
「それって、どうしたら良いの?」
晃太は不安になって聞いた。ストレスって、薬で良くなるのだろうか。
先生はしばらく「うーん」と唸った後、何かを思い付いた顔をして、
「よし。外に出よう」と言って立ち上がった。
「ちょっとここで待ってて。すぐに戻ってくるから」
そう言い残して診察室の奥の方に姿を消してしまった先生を、晃太はドキドキしながら待った。
院長の正明は院長室でコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。
扉をノックする音が聞こえて新聞を置く。
薫子さんかと思い「どうぞ」と返事をすると、顔を出したのは息子の真治だった。
「父さん、ちょっと診察代わってもらえないかな」
やはりこの診療所は俺がいないとな。最近密かに息子の人気に嫉妬していたので、内心は小躍りしたい気分だったが、表面上は平静を装った。
「どうした?」
真治は少し困った顔をして、
「少し往診に行きたいから」と言い、
「この後、院長指名の患者さんもいるし」と付け足して「よろしく」と院長室を後にした。
「分かった」
わざとゆっくり診察室に赴く。院長には威厳が必要なのだ。
しかしその後、診察室で
「あれ?若先生が良かったのに」と言われること八回。
つまり毎回。
正明は息子の人気を改めて思い知った。
「よし。ここでいいか」
診療所の裏手にある正明と真治の自宅の庭で、真治は明るい声を出したが、連れてこられた晃太はドキドキしていた。
どうしよう。わざわざ外に出るなんて、深刻な病気とかをカミングアウトされるのかもしれない。
やっぱりお母さんに来てもらった方が良かったのかなと後悔した。
「はい」
身構えていた晃太に差し出されたのは、青い折り紙だった。
「薫子さんにもらって来たんだ。診療所に飾ってある折り紙、折ってもらってるからね」
言っていることは分からなかったが、とりあえず受けとった。
「紙飛行機、折れる?」
先生はそう言って自分の黄色い紙を壁を使って折り始める。晃太はそれを見守る。
「久々に折ったなあ」
そう言って先生が見せてくれた紙飛行機は、あんまり格好良くなかった。
晃太は昔お母さんに教えてもらった紙飛行機を折って見せた。先生より格好良い、ちょっと難しい奴だ。
「うわ。格好良い。晃太くん、すごいね」
先生が笑ったので、晃太はまた誇らしい気持ちになった。
「じゃあ、その格好良い紙飛行機に、晃太くんのストレスを飛ばしてもらおう。目を瞑って、心の中で、念じて。紙飛行機に嫌な気持ち、乗っかれ!って」
よく分からなかったが、言われた通りにやってみた。
「…そろそろいい?」
目を開けると先生は晃太を覗き込んでいた。晃太は頷く。
「よし!飛んでけ!紙飛行機!」
先生が黄色い紙飛行機を飛ばしたので、晃太も青い紙飛行機を飛ばした。
晃太の方が遠くまで飛んだ。
「あははははははっ」
すごく楽しくて、思わず笑った。もうお腹は全然痛くなかった。
仁美は帰ってきた晃太に、玄関先で
「おかえり!どうだった?」と聞いた。一日中心配で、帰ってくるのを待ち侘びていたのだ。
「少し炎症を起こしてたけど、この薬をちゃんと飲めば治るって!」
晃太は元気良く言ってランドセルを下ろし、中から薬袋を出した。その内容が整腸剤であることに仁美は少し不安を覚えた。
「次は病院、いついくの?」と尋ねると、
「痛くなければ来なくていいって!多分、大丈夫だと思う!」先ほどと変わらず、元気の良い返事が帰ってくる。
「今日は痛くない?」
「うん」
「なんでも食べられる?食べたいものある?」
息子の食欲と体調を探る。
「なんでも!ハンバーグかな!」
どうやら本当に大丈夫なようだと仁美はほっと胸を撫で下ろした。
「じゃあ、買い物に行こうかな」
息子が元気になってくれたのなら良かった。今日はリクエスト通りハンバーグを作ろうと仁美は決めた。
「一緒に行く! 俺ね!折り紙買って欲しい!」
晃太は仁美にしがみつき、背中に覆い被さるように言った。
「折り紙?」
息子の体重を背中で受けながら、重くなったなとふいに成長を実感する。
「うん!折り紙!また教えて!」
嬉しそうな息子につられて、仁美まで明るい気持ちになった。
「よし!じゃあ、折り紙も買っちゃおう!」
仁美は笑う。晃太も笑う。久々に家の中に笑い声が響いた。
それ以来晃太が早退することはなくなった。
学校に行く前と、寝る前に紙飛行機を飛ばすのが日課になったようだ。
「どうして急に紙飛行機なの?」と尋ねても、
「おまじないだって!診療所の先生に教えてもらったの!」としか教えてくれない。
「どういうおまじない?」
「それは、男同士の秘密だから、内緒!」
ちょっとだけ仲間外れにされた悔しさを感じたものの、元気を取り戻してさえくれれば、と仁美は思った。
紙飛行機を飛ばす様子を見守っているとき、晃太の身長がまた伸びたことに気付いた。
仁美は日々成長する息子の姿をたくましく思い、思わず微笑んだ。
紙飛行機が、風にさらわれてふわりと舞い上がった。
朝日を浴びて笑う晃太と紙飛行機は、とても眩しかった。
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