診察2【林徳子】

 流石に痛くて我慢が出来ない、と診療所に行く決心をしたものの、痛む右足で車を運転することも出来ず、林徳子はやしのりこは困っていた。

 息子に来てもらうか。いや、きっと仕事中だろう。

 お嫁さんも育児中で忙しいだろうし、余計な心配をかけたくない。

 悩んだ末、痛みを堪えて自分で運転して行くことにした。

 ずきんずきんと痛む足でなんとかアクセルを踏み、車で十五分の診療所に着いた。冷や汗で肌着が濡れているのが分かった。

 診療所は今日も混み合っていた。ああしばらく待ちそうだわと思い、受付を済ませると、ご近所の川村志津子かわむらしづこがこちらを見かけて寄ってきた。

「どうしたの?林さん。珍しい」

「いえ、足が痛くて」

「あらやだ歩くの痛いんじゃないの?」

「まあ…」

「両足?」

「いえ、右だけ」

「ちょっと待ってて!」

 志津子はそう言うと呼ばれてもないのに診察室に入っていき、松葉杖を持って出てきた。

「これ、使っていいって。それと、次、診てくれるって。そんなに重症なら、早く診てもらった方が良いわよ。みんなどうせいつもの診察なんだから」

 志津子は早口でそう言うと、徳子に松葉杖を差し出した。

 気持ちはとてもありがたいのだが、なにもそこまで、と逆に恐縮してしまった。

 本当に次の順番で

「林さん。林徳子さん。診察室どうぞ」と呼ばれて驚いた。思わず志津子の顔を見ると、両目でウインクされた。

 待合室の他の患者さん達に申し訳なくて、誰の顔も見れずに松葉杖に体重をかけながら診察室へと歩く。

 みんな待っているのに、と罪悪感が胸に広がった。


「はい。足が痛いとお伺いしてますが、どこがいつから痛いですか?」

 徳子が受付で書いた診票を見ながらカルテに何やら書きつけつつ、真治は尋ねた。

「えーっと、昨日の夜からだんだん酷くなって…」

「どの辺が痛いですか?」

「右足の、指先です…」

「どんな痛みですか?」

「ズキズキ、って感じです」

「なるほど。ちょっと見せてもらって良いですか?」

 真治はペンを置いて徳子の方に向き直り、徳子の右足を見た。

「うん。じゃあ、レントゲン撮りましょう」

「え?レントゲンですか?」

「はい。折れてるかもしれないから。心当たり、あります?」

「いえ、分からないです…」

「そうですか。はい。じゃあ、肩貸します。僕に捕まってもらって」

そう言って真治は徳子の腕を取った。

「え?」

「松葉杖、慣れてないし歩きにくいでしょう。レントゲン室までどうせ一緒に行くので、遠慮しなくていいですよ」

「あ。はい…」

 戸惑うものの、真治の当たり前のような顔になにも言えない。

 お医者様って、こんなに親切なものかしら……?

 しかし痛みには勝てない。徳子は真治に体重をかけて支えてもらいながらレントゲン室まで歩く。

 ちょっと、ドキドキした。


「ああ。小指、ヒビが入ってますね」

「ヒビ、ですか?」

 診察室に戻ると、レントゲン写真を確認しながら真治があまり深刻そうでない口調で徳子の足の診断を下す。

「うん、ヒビですね。なにか衝撃を受けたのかもしれません。しばらくは固定して、松葉杖もお貸ししますね。一応二本出しますけど、一本だけで困らなそうならそれでも良いです」

 あまりの展開の早さに、徳子は目が回りそうだった。私、松葉杖をついて生活するの?

「えーっと、出来るだけ安静にしてもらって。今日はもう固定しちゃいますから入浴も控えてもらって。どうしてもなら足だけ濡らさないように…」

 淀みなく進む真治の説明を聞きながら、どうしよう、と思った。

 車、運転してもいいものかしら?

「先生」

「はい。なんでしょう?」

「車は運転しても良いですか」

「えーっと、駄目です」

「駄目ですか」

「だって痛いと思いますよ。右足、アクセル踏まないといけないし」

 まさかこの医師は徳子が自力で運転してきたとは思っていないのだろう。確かにアクセルを踏むのは痛かった。先ほどの痛みを思い出し、冷や汗で濡れた背中になんとなく意識を向けた。少し冷たい。

「あとはなにか聞きたいこととか、ありますか?」

 さて帰りはどうしようと思案していた徳子は、はっと我に返った。優しく微笑んで首を傾げる医師の顔を見て、先ほどから気になっていたことを聞いてみようと思った。

「あの」

「はい?」

「診察、割り込ませてもらっちゃって、良かったんでしょうか……?」

 待合室にはたくさんの人が今も待っている。診察室の中にいても、待合室のざわめきが聞こえてくるくらいだ。

 気の弱い徳子は申し訳ない気持ちに押しつぶされそうだったのに、そんな不安を打ち消すような力強い口調で、真治は言った。

「ああ。大丈夫です」

「え?」

「待合室の患者さんなら、ほとんど診察は終わってますから」


 診察を終えた徳子は、受付の女性に頼んで電話を貸してもらった。

 慌てていたので家に携帯電話を忘れてしまったのだ。今なら夫の正造しょうぞうが家にいるはずだと思い、自宅の電話を鳴らす。数回のコールの後に電話に出た正造の声は、いつもより不機嫌そうに聞こえた。

「はい」

「あの、お父さん?私ですけど」

「うん」

「今、診療所に来てるんです。車できちゃったんですけど、帰りの運転ができないんです。足の骨にヒビが入ってしまってて」

「ヒビ?」

「ええ。それで、迎えに来ていただけないかと……」

 正造の不貞腐れた顔が目に浮かぶ。文句の一つも言われるだろうと身構えていると

「痛いんか?大丈夫なんか?」と聞かれて拍子抜けした。

「ええ。痛いですけど」

 痛いから診療所まで来たに決まっている。素直に返事をしただけなのに、何故か正造は少し笑った。

「分かった。迎えに行く。待っとれ」

 電話はこちらの返事を待たずに切れた。


 待合室では志津子が待っていた。

「ああ!大丈夫だった?」

「ええ。ヒビが入ってるみたいで。本当にありがとうございます」

 深々と頭を下げると志津子は笑って、

「やだ! なんもしとらんのに! 本当に林さんは謙虚ねえ」と言って徳子の背中を叩いた。背中をばしばし叩くのは、興奮した時の志津子の癖だ。

「いえ、松葉杖、本当に助かりましたから」

 尚も徳子がお礼を言うと、

「いいのよ!私らも歳とって来てるんだから、誰かしらに支えてもらわないといけないときだってあるわよね。お互い様なんだから林さんもそんなに遠慮しないでよ。私もそんな大層なこと出来る訳じゃないけどさ! 」そう言って笑いながらまたしても徳子の肩をばしばしと叩く。

 その力強さに体を前後に揺さぶられていると、確かに細かいことはどうでもいいかと思えてきて、志津子と一緒になって笑った。


 しばらくして息子夫婦の車で現れた正造は、松葉杖で歩く徳子の姿を見て

「大丈夫なのか?」と聞いた。

「ええ。また来週も来ないといけないんですけどね。それにしても本当、忙しいのにごめんなさいね」

 先に正造に返事をして、すぐに息子夫婦に頭を下げる。すると二人とも

「言ってくれれば送ってきたのに」と徳子の包帯に巻かれた足を見て渋い顔をした。

「だって、迷惑かけちゃうと思って。二人とも、忙しいでしょう」

 徳子がそう答えると、

「そんな足で運転して行かれる方が心配で迷惑だ」と息子の茂勝しげかつがさも迷惑そうに口を尖らせて言い、隣で美樹みきさんもうんうんと頷いた。

「全くだ」

 正造まで腕を組んでいうものだから、徳子は「ごめんなさい」と言いながら頭を下げる。顔を上げた時にはみんな笑っていた。だから徳子も暖かい気持ちになり、一緒になって笑った。


 帰りの車中では正造と二人、いつも通り会話なく過ごした。

 しかし正造の運転がいつもより穏やかな事に徳子は気付いていた。

 ああ、この人は、こういう優しい人なのよね。と思い出した。

 車を降りる時も手を貸してくれた正造に照れ臭くなり、

「何年ぶりかしらね」と戯けた。

「調子に乗ると松葉杖持っていっちまうぞ」

 ぶっきらぼうな口ぶりは相変わらずだが、正造の耳は赤かった。


 その後は、美樹さんが孫の修一しゅういちを連れてしょっちゅう遊びに来てくれた。

 まだ幼い修一は足のギプスを見て、「ばあばかっこいい!」と興奮した。

 美樹さんは「遠慮無くなんでも言って下さいね! なんでもやりますから!」と徳子を気遣ってくれる。

 徳子は台所に立つ美樹さんと部屋を駆け回る修一を見て、申し訳ない気持ちになりながらも、怪我をするのも悪くないかも、と思った。

 心配してくれているみんなには悪いけど、たまにはこういうことがあってもいいのかもしれない。優しい家族に恵まれた自分の環境に感謝しつつ、もう少しだけ、この足が治るまでは甘えさせてもらおう。

 包帯の巻かれた足をそっとさする。この足が出来るだけゆっくり回復しますように、と願いを込めて。

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