カンブリア・ヒルズ(最終話 前編)

 気が付くとマヤコとナミヲは森の中にいた。

 頭上にはリンゴに似た赤い実がなっている。


「おかえり、マヤコ。」


 声がしたので振り返ると、ハヤトが立っていた。

 帰って来たのだ。ハヤトの世界に。


 マヤコは躊躇せずにハヤトの胸の中に飛び込んだ。


「おお! ついに我らは創造神ハヤトの元にやってきましたよ!!」


 ナミヲが後ろから飛びついて来て、マヤコとハヤトにしがみついた。


「お前は! ナミヲか!」


 ハヤトはマヤコ越しにナミヲに頬ずりすると、クンクンと匂いを嗅いだ。彼は自分が作ったヒト型の香りを全て記憶しているのだ。


 その時だった。森の向こう側で、誰かが怒鳴っている声が聞こえて来た。

 尋常ではないその声は、再会の喜びを一瞬で消し去るほどの威力を持っていた。


「小屋の方からだぞっ!」


 マヤコ達はハヤトの小屋へ向かって走った。

 途中でロルフが駆け寄って来て合流した。


 小屋に入ると、神田ヒロシが床にうずくまっていて、その向かい側には血走った眼で何か喚き散らしている少年がいた。

 少年はまるでマネキンのように白くて美しい顔をしており、一目でこちらの世界のクローンだとわかった。


「呪われた人形たちめ! 今すぐ立ち去れ!!」


 よく見ると、少年はいくつかのヒト型と思われる人形を手に握っていた。それは握りつぶされて原型をほぼとどめていなかった。


 ロルフがハヤトと少年の間に入り、ヴゥゥゥと低い唸り声を出し始めた。


 マヤコはまさかと思い、神田ヒロシに駆け寄った。

 彼は床にうずくまって、握りしめた両手に顔をつけて、激しく泣いていた。


「ヒロシさん?! どうしたの? 何を持っているの!?」


 マヤコが声をかけ揺さぶると、神田ヒロシは顔をあげた。そしてハヤトがいることに気が付くと、縋りつくように彼の元へ向かい、手に握ったものをハヤトに押し付けてきた。


「ハヤト!!! ケンタが!!! 治してくれ。頼む。魂を入れてくれ。」


 ハヤトは渡されたものを見ると、この世の終わりのような悲しい顔をして、すぐに両手でそれを包み込んだ。

 しばらくそうしていたが、やがて、首を振ると、ポロポロと涙を流した。


「ダメだ。俺には治せない…。」


 それを聞くと、神田ヒロシは絶望の表情になり、再び泣き崩れた。


 神田ヒロシの横で喚き散らしていた少年は、いつのまにかナミヲに首根っこを掴まれて大人しくなっていた。

 ロフルはいつでも少年に飛び掛かれる体勢で唸っている。


 少年が握っていたと思われるヒト型の残骸を、ナミヲが優しく手の中に包んでハヤトに渡した。


 ハヤトはそれらを受け取ると、先ほど同様に、両手に包んで念を送るような仕草をした。

 こちらも元に戻せないとわかると、ハヤトはさらに涙を流した。


「ヒロシさん、何があったの? 話せる?」


 神田ヒロシは、ゆっくりと顔をあげると、精気のない表情で、ヒト型を握っていた少年を指さし、やっと聞き取れるほどの低い声で話し始めた。


「全員がこっちに転送されたのを見届けて、僕は、ここに戻って来たんだ。そしたら、そいつがいて、呪われた人形がどうのこうのとわめいていた。それで、そいつが手に握っているものが見えたんだ。僕にはすぐにわかったんだ…こ、こ、これが、ケンタだって…。」


 神田ヒロシは、両手に包み込んだヒト型の残骸を愛おしそうに胸に抱いた。

 マヤコはヒト型を握りつぶした少年を問い詰めようと振り返ると、少年は白目をむいてぐったりしていた。

 どうやら、神田ヒロシの話を聞いているうちに、ナミヲが無意識に首を絞めてしまったようだ。


「ナミヲ! 何してるの!? 放して!」


 ナミヲは驚いて少年から手を放した。少年は完全に意識を失っており、床にどさっと倒れた。

 すかさずロルフが噛みつこうとする。


 マヤコはやさしくロルフに触れ、大丈夫だから、と声をかけた。

 ロルフはゆっくり少年から離れた。


 マヤコは少年の呼吸と脈を確認し、気を失っているだけだと判断した。


「ひとまず、街へ行きましょう。」


 抜け殻のようになってしまった神田ヒロシと、真っ青な顔をして震えているハヤトを何とか立たせて、マヤコは小屋から出た。二人は無残な姿になったヒト型をそれぞれ抱えて歩き始めた。

 気を失っている少年はナミヲが担いでいる。


 ロフルはハヤトにぴったりくっついて着いて来た。


 住民たちは、湖の向こう側に用意された我々の新しい街に出現しているはずだ。

 通常なら徒歩で10分ほどで着きそうな距離だが、亡霊のようになってしまった神田ヒロシとハヤトを連れてなので、倍以上はかかってしまった。


 街に入ると、転送されてきた住民たちがウロウロ歩いていた。

 そしてマヤコとナミヲの姿を認めると、どんどん集まって来た。


 今はみんなの相手をする余裕はマヤコにはなかった。

 それに、到着早々、こんな事件があったなんて知られたら大変なことになりそうだ。


 どうしたらいい?


 こんな時に頼りになるはずの神田ヒロシはゾンビのようになっている。

 マヤコの体の奥からパニックの波がゾワゾワと襲ってくるのを感じていた。


「みんな! ナミヲのお願い!」


 急にナミヲが大きな声で言った。


「道をあけてほしい! 我々、最後の仕上げをする。これやらないとみんな死ぬよ!」


 とんでもない嘘っぱちだが、効果てきめんだった。まるで花道のように、人がよけて道を作ってくれた。


「先生はこっちに来てるの?」


 マヤコはとぼとぼと着いて来ているハヤトに声をかけた。

 ハヤトはマヤコの方を見ると、前方の大きな建物を指さした。


「たぶん…あそこにいる。」


 その建物は病院だった。

 ロルフは建物入口で立ち止まった。彼はハヤトの小屋以外には入らないのだ。


 マヤコはロルフに視線で、大丈夫、と伝えた。


 先生は、出産間近の妊婦たちの診察を行っているところだった。


「君たちか!! …ん? どうしたんだ?」


 先生はすぐに異変に気が付いた。マヤコはちょっと、と手招きして、妊婦たちから声が聞こえないところまで先生に来てもらった。

 事情を説明すると、先生は驚いて、まずはナミヲが抱えている少年を確認した。


「見たことない奴だ。誰なんだ?」


「私が知るわけないじゃない。」


「ひとまず、君たち用につくった刑務所へ入れておこう。」


 先生はスタッフに指示して、気を失っている少年を運ばせた。


「さて、で、破壊されたヒト型だが…、ちょっと預からせてくれないか? こちらでできるかぎりのことはやってみよう。」


 ハヤトは持っていたヒト型を先生に渡した。神田ヒロシは胸に抱いたヒト型を放そうとはしなかった。


「先生、ケンタは僕が運ぶ。一緒に行ってもいいか?」


 先生はただ頷き、神田ヒロシを連れて、病院の奥の方へと消えて行った。

 残されたマヤコとハヤトとナミヲは、廊下のベンチに座って待つことにした。

 サチエたちを探してもよいのだが、足が鉛のようになってしまって動かなかった。


「あれは、ヒロシの大切な人なのか?」


 ハヤトがぼそりと聞いた。


「ケンタさんはヒロシさんの恋人なの。こちらへみんなを移動させるために、いろんな知恵を出してくれた人。」


 ハヤトはそうなんだ…と言って、さらに落ち込んでしまったようだ。


「ヒト型は壊れていたけど、実はこっちに来てるってことはないの?」


「残念ながら、その可能性はない…。」


 そして三人とも黙ってしまった。


 永遠とも思われる時間が過ぎたころ、サチエとのぶよがやって来た。


「マヤコ! ナミヲ! ここに居るって聞いて! あれ? ヒロシさんは?」


 サチエとのぶよは、ただならぬ気配をすぐに察知して深刻な表情になった。


「何? どうしたの? 何かがあったの?」


 マヤコは何とか冷静さを保ちながら、これまでの経緯を二人に説明した。

 サチエとのぶよは顔を見合わせた。


「実は…私達…。ケンタさんの姿が見えなくて、ヒロシさんともう一緒にいるのかと思って、あなたたちを探しに来たの…。」


 やっぱりケンタはこっちに出てきていないんだ…。マヤコの微かな希望は打ち砕かれた。

 ナミヲがしくしくと泣き始めた。


「俺が治せなかったからだ…。」


 ハヤトがぼそりと言った。


「違うよハヤト。ハヤトのせいじゃない。」


 マヤコとナミヲは彼の肩を抱いてやった。

 ハヤトの名を聞いて、サチエとのぶよが彼を覗き込んだ。

 その視線を感じて、ハヤトは彼女らに力なく微笑みかけた。


「こんな状況で全く役に立たない創造神のハヤトNo.8だ。」


 ハヤトが手を伸ばして来たので、サチエとのぶよは彼の手を握った。


「出会えて光栄です…創造神。」


 サチエとのぶよは涙を流していた。それは深い悲しみと畏敬の念が織り交ざった複雑な涙だった。


 ここで神田ヒロシと先生が戻って来た。神田ヒロシの手には小さな箱が握られていた。

 それでマヤコはケンタがもうこの世に戻ってこないことを悟った。


「できるかぎりのことはした。」


 先生も今回の件については相当ショックを受けているようだった。


「こんなことになるとは。全く予想もできなかった。」


「先生。さっきから何度も言ってるけど、先生が責任を感じることはないよ。こんなことは誰にも予想できなかった。」


 神田ヒロシが静かに言った。


「捕まえた奴だが、君たちに対応を委ねるよ。こういう時はどうするんだ? なぶり殺すのか?」


 先生が言った。さすがにこれには神田ヒロシも苦笑いだった。


「そんなことしないよ、物騒だな…。僕たちは、こういうことをした奴を法律で裁くんだよ。あいつには精神鑑定も必要かもしれないし。」


「みんなにはどう説明するの? 他の犠牲者もいるし、黙っているわけにはいかないでしょう?」


「そうだね…。まずは他の犠牲者の身元を洗い出そう。」


 ケンタの他に、今回の事件で犠牲になってしまったのは、3名。家族が大騒ぎで探していたのですぐに身元は判明した。いずれも転送の踊りに参加していたメンバーだった。


 彼らを握りつぶした犯人は刑務所へ収容されるとすぐに目を覚まし、≪デウス・エクス・マキナ計画≫ は悪魔によって仕込まれた呪いだ。すぐに呪われた人形たちを破壊しないとこの世は真の意味で崩壊する、と証言した。


 ちょうど転送が始まったころに、小屋が手薄になったところで忍び込み、やみくもに手を伸ばしてヒト型を掴んだようだ。


 この事件の噂はあっとゆうまに広まり、発生から数時間後にはほとんどの住民が知ることとなった。


 創造神に導かれてここまで来たのに、こんなことになってしまって、≪デウス・エクス・マキナ計画≫ は本当に悪魔の計画だったのでは? と言い出す住民も現れた。


「ハヤトさん。あなたが出て来て話をしないと収拾がつかなくなりそうですよ。」


 ナミヲが周囲の偵察から戻って来て言った。


「俺なんかが出て行ったところで何ができる?」


「ハヤトさん。あなたは我々にとって、圧倒的なカリスマをお持ちです。自覚ないのですか? あなたは神を演じて…実際神ですが…みんなの前に立つだけでもいいんです。」


 ハヤトは自信がないようだったが、みんながナミヲの意見に同意するので、住民たちに顔を見せる気になってくれた。

 彼は普段着のまま出て行こうとしたので、マヤコがそれを止めた。

 住民を落ち着かせるためには、本物の神が必要なのだ。


 マヤコは病院の中にある患者用のローブや、医師用の白い衣類をかき集めて即席の衣装を作った。

 それをまとうと、絶世の美少年であるハヤトはマヤコ達が想像する神そのものの姿となった。


 ナミヲ、サチエ、のぶよの面々はうっとりとそれを眺めた。


 ハヤトは建物の3階に行くと、道路に面した病室に入り、窓を開けた。


 通りにいる人たちがハヤトの姿に気が付いて次々と集まって来た。

 病院の前には、数分で人だかりができた。

 ある程度の人数が集まったことを確認すると、ハヤトは驚くほどよく通る声で話し始めた。

 マヤコはハヤトがこんな声を出せることを予想していなかったので驚いた。


「俺は、創造神 ハヤトNo.8。君たちを作った。」


 住民たちはしーんと静まり返ってハヤトの言葉を聞いた。


「痛ましい事件が起きてしまったことを、既にみんな知っていると思う。あれは全て我々の責任だ。いくら誤ったところで取り返しがつかないことになってしまった。事件を起こした者は、マイキーという製造ナンバー567894123の個体であった。彼の処遇については君たちに任せよう。君たちの世界のしきたりで裁いてほしい。」


 マヤコは後ろからこの演説を聞いていたので、ハヤトの表情は見えなかったが、どうやら彼は泣いているようだった。

 同室にいたナミヲ、サチエ、のぶよもすすり泣いていた。


 外の様子はこの部屋からはわからないが、集まっている人々からも悲しみと弔いの思考が湧きたっているのをマヤコは感じていた。


 それらの思考は空中で集まって、空高く昇り、巨大な一つの集合意識の中へと入って行くのが感じられた。

 我々は、ハヤトを中心に意識を共有している。マヤコにはそれが手に取るよいにわかるのだった。


「こんな思いをするために俺は君たちを作ったのではない、ということはどうかわかってほしい。俺は、正直、人類の存続なんてどうでもいいんだ。ただ、君たちが大好きで、幸せに自分らしく生きてほしいだけだったんだ。俺とは違って君たちは生きる目的を他者によって決められていない。君たちの人生は君たちのものだ。どうか自由に生きてほしい。それだけだ。」


 ここまで言うと、ハヤトは片手をあげて群衆に向かって手を振った。

 外から拍手の音が響いて来た。歓声を上げている者は少なかった。それでもハヤトの言葉が熱烈に支持されていることが伝わってくるような拍手の音だった。


 ハヤトは窓際から離れて、マヤコやサチエたちの方へと来ると、そっと両腕を広げた。彼は泣いていた。

 マヤコはゆっくりとその腕の中に入った。続いてナミヲ、サチエ、のぶよも続いた。


「俺の子供たち…」


 そう言うとハヤトは優しく彼らを抱きしめた。


「そういえば、ヒロシはどうしてる?」


 ハヤトが心配そうに言った。


「ヒロシさんは、気持ちを落ち着かせるために、別室にいるよ。私たちの仲間にお医者さんがいてね。様子を見てくれてる。」


「医者?」


「そう。言の葉を入れるために全てをやってくれた人たちだよ。」


「その人たちに会わせてくれない?」


 神の衣装から私服に着替えながらハヤトが言った。


 マヤコ達はハヤトを連れて神田ヒロシがいる病室へと向かった。

 マヤコ達が入って行くと、皆藤さんと山田さんがすぐに立ち上がった。


「ハヤト、この人たちが薬を作る会社で働いていた皆藤さんと山田さん。最初に私達の鼻の中からこっちの世界の成分を分析してくれて、そして住民たちに “言の葉” を入れるための準備をやってくれたんだ。」


 ハヤトは彼らに歩み寄ると、そっと二人のおじさんを抱きしめくんくん匂いを嗅いだ。

 皆藤さんと山田さんは、何?という表情でマヤコを見た。マヤコは確認してるだけだから気にしないでと伝えた。


「みんな一通り嗅がれている。」のぶよも補足した。


「あなたはケンタのために泣いてくれたと聞きました。」


「ケンタは私達の大切な仲間でした。あなたと会わせることができなくてとても残念です。」


 そう言って皆藤さんと山田さんは泣いた。ハヤトも泣いて彼を再び抱きしめた。


「ごめん…俺が何もできなくて…。」


 ハヤトはまた謝りだした。

 神田ヒロシが立ち上がってハヤトの肩を叩き、だから君のせいじゃないって、と声をかけた。

 神田ヒロシは精神を落ち着かせる薬をもらった様子で、先ほどよりずっと具合がよさそうだった。


 そこへ、病室のドアをノックする音がした。のぶよが見に行った。


「家須キヨヒトと佐奈田マリコだけど?」


 のぶよが神田ヒロシにそう告げた。彼らは、“言の葉” を住民たちに注入しいるころに、その存在が明らかになった宗教家たちだ。

 神田ヒロシは、入ってもらって、とのぶよに伝えた。


 家須キヨヒトと佐奈田マリコは、病室に入って来るなり、ハヤトの姿を認め、彼の前にひざまずいて彼の手をそれぞれ取ると、手の甲に接吻をし続けた。


「おお! 創造神ハヤト!!! どんなに貴方に会いたかったことか!!!」


 そんな二人の様子にもハヤトは動じることなく両手を差し出して彼らの接吻を受けていた。

 そしてマヤコに、この人たちは? と聞いた。


「私がこっちの世界に初めて来たとき、ヒト型を造って見せてくれたでしょう? 確かネジで。家須さんがその人なの。」


 それを聞くと、ハヤトは家須キヨヒトに顔を近づけて首筋の匂いを嗅いだ。

 ハヤトの顔が近づいて来ると、家須キヨヒトは「おおおお!」と言いながら恍惚とした表情になった。


「確かにそうだな。」


「先ほどの創造神の御言葉、しかと受け取りました。これから我々は、神の言葉を直接聞けなかった者たちの元へ行き、貴方の言葉を広めてまいります。その前にどうしてもこの眼でお会いしたくて、こうしてやってまいりまいりました。」


 家須キヨヒトは再びハヤトの手の甲に自分の唇を押し当てて、何度も接吻をした。


「わかった。君たちに任せるよ。頼んだよ。」


 優しくハヤトが言った。家須キヨヒトと佐奈田マリコは床に這いつくばるようにしてお辞儀をすると、病室から出て行った。


「君たちは本当にいろんな奴がいるな。」


 ハヤトは呆れたように言ったが、少し嬉しそうでもあった。

 そこへ、今度はサチエの弟のアタムが飛び込んで来た。


「ねえちゃん! 産まれた!! 産まれたよ!!!」


 サチエが病室を飛び出して行った。のぶよとナミヲも続いた。マヤコはきょとんとしているハヤトの手を引っ張って彼らについて行った。


 産婦人科になっている階下の病室にいくと、ベッドに横たわったはーやんの脇に小さな赤ん坊用のベッドが置かれ、その中にシワくちゃで赤みを帯びた肌色をした小さな小さな赤ちゃんが眠っていた。


 はーやんはギャラリーが一気に増えてびっくりしているようだった。

 赤ん坊の傍らには、先生が満足そうな表情で立っていた。


「この世界で最初に生まれた君たちの赤ん坊だ。」


 先生はうっとりと赤ん坊を見下ろしていた。


「自分が生きている間に出産に立ち会えるなんて、想像はしていたが、実現するとは正直思っていなかったよ。」


 みんなが赤ん坊を覗き込んでいた。赤ん坊は口をパクパクさせたり、うっすら目をあけたり、もぞもぞ動いたりしていた。

 アタムはハヤトの姿に気が付くと、そっと赤ん坊を抱き上げて、ハヤトに前に連れて行った。

 彼はこの数時間で既に新生児の抱き方をマスターしたようだった。


「あなたが、ハヤトさん? 僕の子を抱いてくれませんか?」


 ハヤトは差し出された赤ん坊を恐る恐る受け取りその胸に抱いた。

 赤ん坊はハヤトの胸の中で少し動くと、ふぁーっとあくびをした。


 それを見てハヤトはすっかり赤ん坊に夢中になったようだった。


「なんだこれ…ずっと見てられるな…。」


 ハヤトはニヤニヤしながら、赤ん坊を眺めていた。

 そこへ、神田ヒロシと皆藤さんと山田さんが入って来た。


 はーやんが、アタムのシャツの裾を引っ張り、ねえ、と何かを促した。

 アタムは、頷いて、神田ヒロシのところへ行った。


「ヒロシさん!」


「アタムくん。無事産まれたんだね。本当によかった。おめでとう。」


「ありがとうございます。みなさんのおかげです。それでヒロシさん…」


 アタムは何か言いにくいことを言おうとしているようだった。


「あの…僕たち、まだ子供の名前を決めてなかったんですけど、さっきはーやんと話し合って…。この子の名前をケンタにすることにしたんです。」


 神田ヒロシは目をまんまるにしてアタムを見返していた。


「男の子なの?」


「はい。」


「本当にケンタってつけてくれるの?」


「はい。あの…嫌じゃないですか?」


「嫌なわけないじゃないか? こんなに嬉しいことはないよ。大切な大切な子供の名前に “ケンタ” を選んでもらえるなんて。ケンタも喜ぶはずだよ。」


 それを聞いてアタムとはーやんはほっとしたようだった。


「僕にも抱かせてくれないか?」


 神田ヒロシはハヤトから赤ん坊を受け取ると大事そうにその腕に抱いた。


「ようこそ世界へ。ケンタ。君が楽しく生きていける世界にしないとな…。」


 神田ヒロシが産まれたばかりのケンタを抱き、少し揺らすと、ケンタは目を覚まして、ふえーんと泣き出した。

 あわてて神田ヒロシはケンタをはーやんに戻した。


「こっちのケンタには嫌われたみたいだな…。」


「お腹が空いただけですよ。」


 そのやり取りを見て、マヤコはこちらの世界に来て、初めて少しほっとしたような気持ちになった。


 ふと見ると、先生がマヤコを手招きしているので、何かと思い近寄ると、ちょっと確認したいことが…、とのことで廊下に出された。


「君たちの様子を見てて少し質問があるのだが、恐らく君たちにとっては非常に不愉快な質問になってしまいそうだから、君にこっそり聞いてもいいかな?」


 珍しく先生はこそこそした様子だった。自分たちの常識が、新しい人類には全く通じないということが身に染みて解って来たようだ。マヤコはその辺も理解してくれていると知っているので、信頼してくれているようだった。


「神田ヒロシが大事そうにしていたケンタという人物だが、男性だったんだよね?」


「そうですよ? あ…そうか…。先生。前に来た時には詳しく話しませんでしたが、私たちの中には同姓のカップルもいます。」


「そうなのか? 同性同士でも子供ができるのか?」


「ちがうんです。違うんですよ、先生。誰かと一緒に過ごしたいと思うことと、子どもが欲しいと思うことは別のことなんです。いいかげん切り離してください。生涯一緒にいたいって思えるパートナーがいても、子どもを迎えない人生を選択する人たちだっていますし、反対に、子供が欲しいと思ったら、極端な話、相手がいなくたって精子や卵子を提供してもらうとか、養子を迎えることもできるし。とにかくいろいろなんです。」


 先生はふーむ…と考え込んでしまった。この話題について先生と話すのは体力がいる。

 でも彼なりに何とか理解しようとしていることはヒシヒシと伝わって来た。


「先生、子どもが産まれていくために必要なのは、男女のカップルの成立じゃないんです。子どもが欲しい、育てたいって思った時に、どんな人でも安心してそれに向き合い取り組める社会を作っていくことなんですよ。」


 マヤコの説明に、先生は新しい方程式の解き方を知った学生のような顔をしていた。


 先生と話し終わってはーやんの病室に戻ろうとすると、ちょうどみんなが出てくるところだった。


「あ、マヤコ。これから私達、申請を出してた住居に行くんだけど、マヤコはどうするの?」


 サチエが言った。

 マヤコは自分がこちらに来てからどうするのか全く想像していなかったことに気が付いた。

 ずっとマヤコはこちらに来る段取りばかりを考えてきたのだ。


「ナミヲは、ヒロシの家にしばらく住むことにした。ヒロシが心配。マヤコも来ない?」


 ナミヲが誘ってくれた。マヤコは彼らとの共同生活を少し想像して、興味が湧き、彼らと一緒に行くことにした。

 マヤコも来ると聞いて神田ヒロシは少し驚いていた。


 ハヤトは一度自分の小屋に戻ると言い、みんなと別れた。去り際に、「君がこの世界のリーダーになれ。」とマヤコにだけ聞こえる声で囁いて行った。


 マヤコがどういう意味か聞き返そうとしたときには、彼の姿はもう見えなくなっていた。

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