第17話 卒業

 進路も決まった直史は、同じく瑞希と共に、東京に住所を移す。

 直史の場合は学生寮だが、野球部専用の寮ではない。通学に便利な寮の中に入って、寮費や食費などは全て無料というスーパー待遇である。

 ちなみにプロ野球選手でも寮費は取られるため、この点に限って言えば、直史はプロよりもプロらしい。

 野球にかける部費なども免除。そしてグローブやアンダーウェアなども、大学と提携しているメーカーから全て無料で提供される。

 そして寮の食事だけでは不充分なので、栄養費という名目の元、かなりの金額を貰っている。

 実質的には小遣いと言ってもいいだろう。だがこれを浪費せずに、必要最低限以外は貯金しておくのが直史である。

 特待生待遇が保証されているのは大学の四年間までであり、その後に法科大学院に進むなら、当然その費用が必要となる。

 さすがにここまでは大学としても負担出来ない。正確には負担するための名目が立たない。


 一方の瑞希は父の知り合いからセキュリティのしっかりしたマンションを紹介された。

 都心であるにもかかわらずそれなりの広さのワンルームというのが、なんだかんだ言って彼女が裕福な家庭の出身なのだと証明する。おそらくここが二人の愛の巣となるのだろう。

 実際の引越しは卒業式の後になる。どうやら樋口も直史と同じ寮に入るらしい。

 樋口も直史ほどではないが、似たような環境なのだろう。


 そして卒業式を迎えて、大介もキャンプから一旦帰ってきた。

 土産話は色々とあるが、既にキャンプ地である沖縄から始まり、今ではもう甲子園球場で、オープン戦が始まっている。

 なおライガースのキャンプ地が沖縄であるのは一軍だけであるが、大介はとりあえず一軍に帯同していった。

 そのまま一軍の試合に出て、成績は28打数7安打で、それだけを見ればちょうど二割五分という、高校時代から考えれば信じられないほどの低打率だ。

 だがその安打の内容を見ると、ホームランが五本に二塁打が二本と、ヒットが長打になる確率100%となっている。

 本人としても全く気にした様子はない。


 他球団との対戦で見れば、神奈川との試合があったが、上杉は登板していなかった。

 肝心のプロのレベルであるが、やはり高校野球の超強豪のスタメンが最低レベルのようである。

 甲子園に行くチームでエースや四番という程度では、指名されないのがプロの世界だ。

 それでも大介としては、野球の実力さえ高めればそれでいいというプロの世界は、居心地がいいらしい。

「もう勉強しなくていいってのが最高だよな」

 そんな大介とは別に、岩崎の方はかなり表情が暗い。

「渾身のストレートでも簡単に柵越えされる」

「それって大介と同じじゃね?」

「……大介に比べればマシか」


 プロに進む打者というのは、基本的に超強豪の高校や大学、または社会人のチームで、クリーンナップか一番を打っていたような選手ばかりである。

 キャッチャーに限って言えばまだマシらしいが、スタメンのキャッチャーはやはりそれなりに打ってくる。

「最初はちょびっと一軍メンバーに混ぜてもらえたけど、基本的には二軍スタートだな」

 宮崎県のキャンプ場で、こちらもまた二軍のオープン戦に出ていた。

 さすがに打たれまくるということはないが、一イニングに一本ぐらいのヒットは普通に打たれてしまうし、一試合を通じて一本はホームランを打たれる。

 大介相手よりはマシと思えば耐えられるが、これが一軍ではなく二軍の実力なのだ。

「寮に入ってからはスカウトの人の態度も変わったよな。お客さん扱いが仕事仲間扱いになったって言うか」

 岩崎はそう言うが、大介としては違うらしい。

「俺の場合、何も変わらなかった気がするけどな。球団の違いか?」

 大介の場合は、大介だからという理由もあるのだろうが。


 岩崎の同期で知り合いと言えるのは、一位指名された井口である。

 他は大卒が多く、育成に何人か高卒はいるが、対戦したことなどはない。名前はちょっと知っているなという程度だ。

「タイタンズったら本多さんと小寺さんがいるよな。二人とも去年はほとんど二軍暮らしだったけど」

「本多さん、コントロールが悪くなったとか聞いてたけど」

「どうも三振にこだわりすぎて、力が変に入ってるピッチングらしいな」

 去年は二軍の試合に出ていたが、七勝六敗という成績であった。

 四球の多さをどうにかしないと、一軍には上がっていかないだろう。

 小寺もまだ打撃の方が充分ではないが、守備ではかなり試合に出ているらしい。




 基本的に野球部の人間は、既に進路が決まっている。

 滑り止めの私立は合格して、これから本命の国公立という者はいるが、研究班の人間も浪人はせずにすみそうだ。

 そんな和やかな雰囲気の中、卒業式は始まった。


 長い三年間だったな、と直史は思う。

 将来を見据えて進学のために入った高校だったのに、生活の中心には野球があった。

 色々と新聞沙汰になり、佐藤家の一族の中では、かなり面目をほどこしたなとは思う。

 直史が有名になったことにより、少し疎遠になりかけていた親戚とも、また交流が深まることになった。

 田舎の地主の子の直史としては、その点が一番良かったと思う。


 それにまさか自分が、家族以上に愛情を注げる存在に出会えるとも思っていなかった。

 彼女がいる新しい生活が、また四月から始まる。

 千葉県から出ての生活というのが、なんだかんだ言って地元愛の強い直史には、少し寂しいものではあるが。

 大学は今度こそ、自分の将来を決めるために行くのだ。

 そのための手段として役立ってくれる野球が、直史はますます好きになった。


 体育館から教室に移り、各自に卒業証書が渡されていく。

「お前も違った意味で問題児だったなあ」

 しみじみと言う担任に、憮然とした表情を隠さない直史である。これほどに文武両道であった人間など、他にいないはずである。

「佐藤の手綱を握っておけよ」

 瑞希にそんなことを言うのはどうなのか。苦笑いするしかないではないか。


 クラスメイトと共に写真を撮ったりもした。上京する生徒も多いし、同じ大学に行くクラスメイトも数人いた。

 なんでお前スポーツ推薦じゃないのとは聞かれたりもしたが、スポーツ推薦枠のない学部だったのだから仕方がない。

 いくら甲子園で活躍したピッチャーでも、大学に行って一応は一般人の直史は、そこまでの人気はない。

 プロに進む大介と岩崎は、教師まで含めてすごい人気である。

 しまいには校長が出てきて、甲子園の優勝旗と一緒に写真を撮ろうと言う始末。


 三年生だけで獲得出来た優勝ではないのだが、全てはこの三年生たちから始まった。

 研究班の人間も合わせて、13人。シーナはもちろん選手枠である。

 例外的に写真への参加が許されたのは、瑞希だけである。

「あ、この写真中表紙に入れたらいいかも」

 そんなことを言っているが、もうおおよその本の形は出来ているらしい。




 野球部員が集まってしまったからには、野球部グラウンドへ行ってしまうのが野球部員の性であるのか。これから本命の国立受験の者もいるのだが。

 センバツ前に後輩たちは練習をしている。

「誰かセンバツの応援に行くやつっている?」

 ジンが尋ねたところ、情報班だった菱本だけは、最初は少し見るかも、ということだった。

 他のメンバーは既に大学の練習に参加していたり、引越しの準備が忙しいそうだ。

 関西の大学に進む者がいれば別だったのかもしれないが、三年生メンバーは関東圏ばかりである。


 後輩たちの練習を横目に、部室に集まってしまった。

 ドアを開けばミーティングルームに、珠美が一人でノートに書き込みなどをしている。

「あ、先輩方、お疲れ様です」

「疲れてないけどな」

「それで、何か御用ですか?」

「用はないよな……」

 ただ、ここに集まってしまったのだ。このまま解散ということも寂しくて。


 野球部は引退し、高校は卒業した。

「ガンちゃんと大介はこれから寮に戻るの?」

「俺は戻るけど」

「俺は今日ぐらいは実家にいてろって言われた」

 ここからライガースの寮までは、それなりの時間がかかる。

 既にオープン戦が始まっているので、無理に帰って練習に出る必要もないだろう。


「先輩方、お茶飲むなら用意しますよ~」

「あ、私も手伝います」

「あ~、よろしく~」

「俺も手伝う」

 瑞希が手伝えば、直史も席を立つのは当然である。




 なんだろう、この空気は。

 既に進路が決まっている者も、もう野球部の練習に参加していたりはするのだ。

 ただ、この場所から去りたくないだけで。

「大介、あんま打率は上がってないけど、やっぱプロだと打ちにくい?」

 ジンが話を振る。プロに進んだ戦友が、意外な成績を出していれば気になるものだ。

「別にそんなことないけど、まだオープン戦だしな。とりあえず長打に出来そうな球だけ打ってるし。でもタイミングの外し方とは、やっぱ野球で飯食ってるだけあるなって思う」

 大介としても、そこがやはり違うと思う。

 高校生までは、なんだかんだ言いながら、アマチュアであったのだ。打っても打てなくでも、それで別に死ぬわけではない。

 だがプロに入れば違う。これで食べていけなければ、死ぬかもしれないのだ。

 ただ職業として野球をしている割には、節制できていない先輩選手も多いらしい。


 大介がとりあえず目標としているのは、貯金を六億貯めることだ。

 日本人の男性一人が、そこそこの会社で平均的に稼ぐ給料は、一生で三億ほどだという。

 大介はその倍を目指す。だがプロ野球選手は税金が大きいため、倍の12億は稼がないといけないだろう。

「そういや運転免許は取ったのか?」

 紙コップに緑茶を注いだ直史が野球とは違ったことを尋ねる。大介は直史と同じく誕生日が早いので、取ろうと思えば高校在学中に取れるのだ。

「いや、こんなに暇がないと思わなかったし」

 単に練習をするだけではなく、プロ野球選手というのは露出が多いのだ。特に大介は別格だ。

「ナオは取ったの?」

「仮免までな。あと路上のテスト一回で終わり」

 直史も大学祝いで祖父母が教習所の金を出してくれたので、今のうちに取ってしまおうというわけだ。


 野球選手など、特に一年目は大変だろうから、取っている余裕もなかろうか。

「小寺さんは取ってたっぽいな。車は持ってないけど」

 まあ寮暮らしであれば、そうそうは車もいらないだろう。

「車もそうだけど浪費はするなよ。日本じゃないけどアメリカのプロスポーツ選手の七割は、引退後五年で破産してるらしいから」

「マジか。そういや先輩選手は車とか時計とか、金かけてる人多いな」

「あ~、確かにスーツとかびしっとしてるわ」

 岩崎もそこは分かるのか、うんうんと頷く。

「あと投資話とかそういうのもなかったか?」

「あるらしいけどお袋と婆ちゃんが全部止めてくれてるみたいなんだよな。あ、寄付の依頼とかあったわ。寮に入ったらなくなったけど」

「タイタンズは身だしなみをしっかりしろってことで、先輩が銀座とか連れてってくれたな」

「うちはまだそういうのないな。沖縄では色々連れていってもらったけど。あと大阪に戻ってからはミナミとか」

「金銭感覚が麻痺しないように気をつけろよ。スポーツ選手向けの保険とかあるから、そういうのに入っておけ。俺が弁護士になったらアドバイスしてやるけど」

「弁護士ってそういうのもやるのか?」

「資産運用は門外漢だけど、税金関係の仕事は弁護士でも出来るぞ。まあ合格するのが大変だけど。あと金のことならセイバーさんに連絡してみるとかな」

「なんか神宮の時にも顔見せたらしいけど、今何やってんの、あの人」

「金儲けしてることだけは間違いないだろ」


 だらだらとした会話が続いていく。

 しかし誰もが立ち去りがたいという思いを抱いている。

「そういや先輩たち、契約金で何か買ったんですか?」

 金の話なら好きな珠美である。なにしろブラジル時代は貧乏暮らしが長かったので。

「俺はスカウトさんが全部貯金しろって言ってたからその通りにしてる。それと離婚した方の親父からも連絡があった」

 そう言えば大介の父は、実際にプロを経験しているのだ。

「契約金には絶対に手を付けるなってさ」

「俺に言ってくれたのは親父さんの言葉だったのか」

「そうそう。怪我して引退した時、場合によっては球団が面倒見てくれるけど、野球に無関係の仕事を探すのは大変だからってさ」

「つっても契約金も、半分は税金で吹っ飛ぶよな」


 大介は億、岩崎も数千万という大金を得たわけであるが、それがそのまま使えるわけではない。

「俺はシニアの方にフェンス修繕代とか出したな」

「俺のほうにもなんか言ってきたらしいけど、別に中学時代の監督になんか、なんも恩とかないしな」

 どうやら大介は、高校進学で東京から離れたことが良かったらしい。

 なお二人とも、白富東には特に金を出していない。

 そもそもセイバーやイリヤが金を出しているので、今は必要がないからとも言える。


 ちなみに大介よりも岩崎よりも、イリヤの方がずっと金持ちである。

 セイバーがちゃんと資産管理をしてくれているというのもあるが、これまでに作詞作曲したライセンス料だけで、一流プロ野球選手並の収入があるのである。

 スポーツ選手というのは輝かしいものだが、基本的に価値を見出すのは現役の間のパフォーマンスによる。

 優れた成績を残せば、現役引退後の仕事もあるかもしれないが、全てがそうだとは限らないのは、大介の父を見てもそうである。

「俺は成功するかどうかは分からないけど、成功しても破産しない自信はあるぞ」

 岩崎は断言する。

「ここに入る時に、プロを諦める理由を必死で探したからな」

 そう、特待生とまではいかなくても、推薦で強豪に入れる程度の実力は、充分に持っていた岩崎である。

 だが白富東に入るということは、当時の戦力からすれば、甲子園を諦めることと同義であったのだ。


 プロになっても平均的な引退年齢は20代のうちであるし、大成功しても金遣いの荒さで破産した人間は何人もいる。

 レジェンドレベルまで達すれば別であろうが、野球だけをして生きていけるほど、この世の中は甘くない。

 進学校からならそれなりにいい大学に入れる。そこで野球をしたとして、大学の野球部は就職でも有利だとか。

 色々と逃げ道を作って、理由で彩っていきながらも、結局はここへ行き着いた。

 在京球団という最後の逃げ道も、まるで自分のためのように、最良の球団が求めてくれた。


 契約金も使わず貯金、年俸が上がっても奢らずに浪費せず、プロ野球などという夢のような世界の中で、堅実に生きていきたい。

 それはある意味普通に成功することより難しいのかもしれない。

 だが夢のプロ野球集団の中に、小市民的な意識の持ち主がいてもいいだろう。

「ガンちゃんはさ、50勝なり50ホールドなり、ある程度の数字を残したらいいさ。そしたら俺は30歳ぐらいまでにどこかの私立の監督になって、ガンちゃんが引退したらコーチとして雇ってもらうし」

 ジンはひどくいい笑みを浮かべていた。

「だから球界でも一番メジャーな球団のトレーニングとか理論とか、しっかり学んできてちょうだい」

 友人の未来さえ、この腹黒い男は計算に入れているのか。




 語りたいことはいくらでもある。

 だがそれでも、どこかで終わりにしなければいけない。

 高校生活。

 この学校に来て、このチームでプレイして、本当に良かったと思う。


「じゃあ、俺帰るわ。国立の後期がまだ残ってるし」

 菱本が言った。滑り止めの私立は受かっているのだが、出来れば本命の国立にも受かりたいので。

 一人が帰るなら、もう誰かが残る理由もない。

 既に引退の時に、ひとしきり騒いだのだ。次に会うのはもっと先のことになるだろう。


 もしかしたら、二度と会うことはないのかもしれない。

 おおよそは地元か関東圏に進路は決まっているが、ほんの何かの拍子に、どこかへ行ってしまうこともある。

 同じ学年でも、学校を休学してアメリカに行った生徒が一人、インドに行った生徒が一人いた。

「また会えるだろ」

 直史は感傷を捨てるように言った。

「部員の連絡簿はあるわけだし、普通に年末と年始は集まればいい」


 おおよそ一生の友人になる人間と会えるのは、高校か大学の時が多いという。

 それは中学までは地区で形成されていた人間関係が、能力や専門で分かたれるからだ。

 野球という関係で結ばれたこの集団は、またいつか甲子園で会える気がする。

「そうだな」

 ジンが頷いて、湿っぽい空気を払う。

「とりあえず今年の盆休みには、甲子園で会いたいよな」

 他人に頼って甲子園に連れて行ってもらう。

 ちょっと違う意味ではあるが、甲子園で同窓会だ。ついでにOB会でもある。


 なるほど、こういう時に使う言葉か。

 直史は納得し、その言葉を発した。

「甲子園で会おう」

「つーか俺の応援来てくれよ」

 大介のツッコミに皆が笑った。


×××


 第四部はABCの3パートに分かれる予定です。

 Cパートは本日より投下しています。

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