第16話 エースの遺産

 スポーツ推薦はフィジカルエリートを集める形式の課題が科せられている。

 遠投の力、ダッシュ力、左右への動きに、跳躍力。これらは身体能力を示すものであって、野球の能力を示すものではない。

 野球に結びつくのは遠投と左右への動きだろうが、今の一二年の中でも倉田などは、50m走で落とされる可能性が高い。

 全国で勝っていくには、オールラウンダーも必要だろうが、スペシャリストも必要である。

 たとえば佐伯などはバッティングは壊滅的だが、終盤の競った試合では、守備固めに使われることが多い。

 走るだけや打つだけの選手もそれなりにほしいのだが、秦野としてもそういう要望は出来ない。

 だがコーチ陣がしっかりと見て、それでも事前に予想されていた選手が、六つの枠を埋めるかと思われていたのだが。


 50m走と立ち幅跳びでトップとなり、野球部グラウンドに来たグループ。

 秦野としては事前に予想していたAグループはしっかりと見なければいけないし、どうせなら頼める人間が野球部グラウンドにはいる。

 ジンと直史に、おまけにシーナもこちらにいて、その期待の新人を見守ることにする。


 身長はそれほどでもない。周囲にでかいやつがいるので小さく見えるが、自己申告では170cm丁度だという。

 体重が73kgあるのだから、野球選手としては平均的だ。

 ただこの身長でこの体重というのは、伸び代はないのかもしれない。


 水上悟。中学二年までは東京のシニアに入っていたが、父親の転勤に伴って千葉へと引越し。

 中学最後のシーズンになる春を前に、練習試合で左肘の靭帯を部分断裂。

 これの治療に五ヶ月かかっていたため、最後の一年のシーズンを棒に振り、夏の体験入部には参加していないのだ。

 普通なら私立から声がかかってもおかしくない。と言うか東京の学校は二年の段階でなぜ取っていないのか。

 全国でも打率五割をキープし、少ないが勝負どころでは長打も打っているのだ。

「ちょっと大きい大介って感じ?」

 シーナはひどいことを言っているが、孝司と哲平によれば、長打が少なめの大介らしい。

 ポジションは主に内野で、試合ではショートを守っていた。

 右投左打というのも、大介に似ている。


「てか50mで6秒切ってるって、計り間違えだろ」

 さすがに大介やアレクほどではないが、6秒を切るなら哲平より速いかもしれない。

 もっとも単なる50m走と、塁間の走塁はまた違ったものだが。


 順番的に反復横飛びに、そして遠投が最後になりそうである。

 身長はやや小さいのに、周囲の他の受験生がびびっている。

 気持ちは分かる。校内でも有数とかいう程度の運動神経の中に、大介がいたら直史でも驚く。

 そして反復横飛びでも、これまでで一番の記録を出した。

 Aグループのメンバーが校庭のグラウンドでどういう数字を出すか分からないが、少なくともこのCグループの中では圧倒的だ。


 下克上枠。

 そんな名前がふと浮かんだ。




 遠投は有望株のAグループの受験生も、おおよそ70m台であった。

 硬球ではなくソフトボールを使っているので、これでも充分にすごい。

 そして水上悟は、唯一の80m台という数字を叩き出した。


 これは上位が入れ替わると言うよりは、トップが入れ替わったと言った方がいいだろう。

「よっしゃ」

 周囲からの畏敬の視線はどうでもいい。これでトップには立った。

 悟はガッツポーズをして列に戻り、残りの受験生のパフォーマンスを見る。

「おめでとう。面接とか内申がよほどひどくない限り、これで決まりだな」

「いや~、そっかな~」

 祝福の言葉に振り向いてみれば、ユニフォームではなく運動着の姿がそこにある。

 佐藤直史。白富東のレジェンドの片方。


 これから高校野球を始めようという球児にとっては、まさに雲の上の存在。

 いくらでもプロの声がかかったろうに大学進学を決めた、甲子園神話の構築者。

 テレビの向こうに憧れた存在が、目の前にいる。

 この受験メニューを準備しているのは遠目に見ていたが、まさか話す機会があるとは。

「タカとテツから聞いたけど、二年の時には全国レベルだったんでしょ? 特待の話とかなかったの?」

「いえ、はい、ありませんでした。三年になる直前で怪我して、そういう話はなくなって」

「骨折とか?」

「いえ、左手の靭帯です」

「そっか。もう治ったんだ。じゃあ夏休みの体験入部に参加してなかったのもそれ?」

「はい。まだバットが振れる状態じゃなかったんで」

「間に合ってよかったね。うちに合格したら入学するの?」

「合格できたらですけど。一応東雲は滑り止めに受かってます」

「東雲っていまどきまだ坊主でしょ」

「あ~、そうっすけど、野球が出来たらそれでいいなって。でもやっぱ公立の方が学費は安いんで」


 直史としてはまだ後輩に確定したわけでもないので、ごく普通に話している。

 だが周囲は遠巻きに眺めている。

「あの、一つ聞いていいですか?」

「答えられることなら」

「どうしてプロに行かないんですか」

 またそれかと直史は思ったが、最近では分かりやすい答えを用意している。

「逆に聞くけど、水上君はプロに行きたいのかな?」

「行けるならもちろん!」

「そこで、じゃあ君はそこそこ活躍したから野球で大学に行けますよ、おめでとうと言われたらどう思う?」

 悟は答えに詰まる。

「もっと近い言い方をすれば、野球の合間にやっていたサッカーで評価されて、成功するかどうかは分からないけど是非来てくださいとか言われても行かないだろ? そういうこと」

「けど……プロで全くやりたくないってわけじゃないんですよね?」

「野球自体は好きだけど、プロに行っていたら人生の目標に遠回りになるから」

 これから高校生活で、野球一筋に打ち込もうという少年には、理解出来ないことだろう。

 ジンたちでさえいまだに、かなり不思議に思うことなのだ。

「大学出て資格試験に合格して就職して、そこから土日に野球して、一年ぐらいプロでやってみるってのならいいかな。でもそこまで鈍ってたらさすがにプロでは通用しないだろうし」

 まあそれは確かにそうだろう。


 悟は理解した。世の中には野球に人生を捧げなくても、甲子園で優勝出来る天才がいる。ただそれだけのことだのだ。

 野球を始める人間が、全て将来の夢はプロ野球選手というわけではないだろう。

 きっかけは色々で、たまたまそれが上手かったといって、そのスポーツで食べていくかどうかは違う。

「まあ、あれだ。大学の漫研とかに入ってて、すごく評価されてプロに誘われても、就活でいい企業に決まったらもう漫画を描かないとか、描いても同人誌で年に二回発表できればいいとか、そういう感じかな」

 野球とは離れたがゆえに、悟には分かりやすくなった。もっとも野球少年である彼は、同人誌の存在などは知らなかったが。

 プロ野球選手になりたいという夢はなく、ただ野球をするのが好きだっただけなのだ。

 将来の夢、あるいは目標というものがちゃんとあり、そちらを優先するからプロには進まない。そういうことなのだろう。

 趣味の野球で甲子園でパーフェクトをしてしまう。それだけのこと。


 才能は残酷である。

「まあこいつの言ってることは本音だけど、こいつは楽しむ時も真剣に楽しむからな」

 ジンは未来ある野球少年たちに、フォローする必要を感じた。

「ナオのやつは確かに野球でプロになるつもりはなかったけど、でもこいつの練習の量と質は、大介と同じぐらい多かったからな」

 そして練習以外に、確かに工夫をしていた。

 努力ではない。直史は努力という言葉と頑張るという言葉は嫌いなのだ。

 やるべきことをやるだけだ。

「うちの推薦で落ちて、公立でとにかく上手くなって、甲子園じゃなくプロを目指すなら、三里に行ったらいいぞ。そこも学力が足りなかったら上総総合かな」

 国立監督にしろ鶴橋監督にしろ、甲子園に選手を潰してでも行くよりは、選手を伸ばすことを考える指導者だ。

 本来高校の野球部の指導者とは、そうしたものでないといけないはずだ。

「あと私立なら東雲よりトーチバがいいな。次いで勇名館」

 その二校はもう、試験は終わってしまっているが。


 直史としても、後輩志望の少年たちの希望を折るためにきたわけではない。

「それで水上君は、今日はこの後に何か予定はあるのかな?」

「いえ、テストが終わったら帰るだけですけど」

「じゃあ終わってからここに戻ってこないか。少し投げてやるから」

 またこいつは才能のある選手の希望を折るのか、とジンはドン引きしている。

「スパイク履いてないから、本気モードじゃないけどな」

「すぐに来ます」

 そしてそんな機会を逃す野球少年は、どのみち成長もしないのである。




 この場にプロ契約をかわした選手はいない。そして直史はユニフォームを着ていない。

 守るのは引退した三年の中でも、体を動かしに来た者だけである。

 野球入学の三年は、二月からもう大学の方に参加する者も多いのだが、ぎりぎりまだこちらにいる。

 シニアのユニフォームを着た中学生を、運動着姿の高校生が相手する。

 別に問題のないことである。


 野球部グラウンドに戻ってきた秦野としては、また変わったことをするなと思っただけである。

 当初の予定とは違った合格者が出そうで、それを直史が試している。

 ついでにキャッチャーは倉田がやっているが、ジンは審判をしていたりする。

「だいたい10打席分ぐらい投げるからな。最初の打席は、真ん中目のストレートだけ」

 わざわざ投げるコースも球種も宣言してからである。


 運動靴の直史だが、それでも140km近くは出せる。

 最初のストレートを、悟は見送った。

 確かにシニアではまず見ないスピードだが、打てないほどではない。

 二球目のストレートを、振ったらバットがボールの下を通り過ぎた。

「はや……」

 スピード? いや、回転だろうか。

 手元で伸びた気がする。

 そして三球目は、伸びのないストレートだった。引っ掛けてファーストゴロである。

「チェンジアップみたいな……」

「最初が普通のストレート、二球目がスピンをかけたストレート、三球目がスピンを減らしたストレートだな」

 ジンが解説するが、三球目にどうにか当てた辺り、センスはやはりあるのだろう。


「次、カーブだけ投げるからな」

 速いカーブ、遅いカーブ、落差、水平方向の動き、そして軌道。

 カットはするが、前には飛ばせない。

「カーブだけって……」

「カーブだけだぞ」

 ジンはそう言うが、やはりこれだけの緩急と変化についていけている。

 そして三振の前に、セカンドを越える打球を打った。普通の守備位置なら間違いのないヒットである。


 カーブだけと言っても、あれだけの種類を組み合わせた中から、ヒット性の打球を打ったのだ。

 少なくともミートのセンスは抜群だろう。

 身体能力だけでなく、バッティングのセンスは間違いなくある。

「じゃあ次はストレートとカーブのコンビネーションな」

 これはあっさりと三球三振である。スローカーブとスピンの利いたストレートを混ぜられては、とてもマトモに打てるものではない。


「130km以下の変化球だけを投げるぞ」

 そう言って投げたボールは、スライダーだったりシンカーだったりスプリットだったりと、スルーはさすがに使わなかったが、それでもまともに打てるものではない。

 だがそのまともに打てるはずのないスプリットを、ピッチャーゴロではあったが当てた。


 七打席分を投げて、ヒット性の当たりが二本。

 ある程度条件を絞って投げてはいるが、これに当てられるというのはかなり中学生のレベルではない。

 直史は変化球投手だが、スパイクがなくても140km前後は出るのだ。




 残りの三打席分は、サイドスローで投げたり、アンダースローで投げたり、左で投げたりした。

 結局ヒット性の当たりは二本だけだったのだが、三振も三つだけだった。

 ほとんど違うピッチャーのタイプで投げたと思えば、これをいいと見るか悪いと見るか、判別は難しい。

 もっとも審判をしていたジンからすれば、自分だったらまともに打てないだろうな、とは思った。


 受験の合格以来、バッピで下級生に投げてやったことはあるが、全く知らない選手に投げたのは久しぶりだ。

 直史としても気分転換になったし、悟にとってもいい体験になっただろう。

 現在の高校野球の、最高レベルの変化球を体験できたのだ。

 そしてストレートの最高レベルは、入学してから体験出来る。

 もっともこれで、合格できなかったりしたら大笑いなのだが。


 武史たちの世代にとってはともかく、淳の世代にも、さらにその後の世代にも、白富東は強くあってほしい。

 伝統などクソ食らえの白富東の野球部理念であるが、とにかく強くなるための工夫だけは絶やさないでいてほしい。

「あざす!」

 去っていく悟を見送って、直史も自分のトレーニングに戻る。

 体力維持のためにある程度は走ったりしていたが、さすがに夏の全盛期からは落ちている。

 大学で春のリーグ戦から投げることを考えると、やはり体力上限は維持しておきたい。


 あとは、おそらくではあるのだが、球速の上限がまだある。

 夏の甲子園は決勝までを完全に投げきるつもりで調整した。それこそ無駄なものが一切ないように。

 ただそれは、既に分かっている部分までを出し切るということで、限界をさらに上げようというつもりはなかった。

 適切な休息を入れることによって筋肉が増加し、球速は増す。その理論は分かる。

 だが直史にとっては身体能力を制御できる範囲内に保つことが重要だった。だから完全にシーズンオフの冬季にしか、筋力の増加は出来なかったのだ。

 それでも二年生で139kmから、三年生では146kmと、入学時の125kmと比べれば、20kmもMAXの球速は上がっている。

 身長はもうほぼ止まってしまったが、関節の駆動域はそのままに、筋肉を付ける余地はある。

 腱や靭帯の限界を見定めて、あとはさらに何かメカニックがないかを考えれば、球速は上がる余地がある。

 もちろんそれはあればいい程度のもので、必要なのは肉体全体のコントロールだ。


 上杉や武史のようなパワーピッチャーは、いくらでもパワーを増せばいい。

 だが直史のようなテクニカルなピッチャーは、制御という意味でのコントロールが一番大事になる。

 それでもパワーを求めるなら、シーズンオフに鍛えて、そして調整するしかない。

 この直史のトレーニングは、野球というスポーツでは主流ではないだろう。野球は基本的にスピードとパワーをぶつけ合うスポーツと思われている。

 だが直史から見ればそれは、ボクシングというスポーツにおいて、殴り合いばかりをするようなものだ。フットワークやフェイントがない。

 パワーピッチャーが160kmを投げても、それだけでは足りないのだ。

 競技という名前が示すように、技がなければそれはただの測定でしかない。


 上杉も大介も武史も、直史とは違うのだ。

 おそらく近いのは、不本意ながら坂本なのだろう。

 あるいはジンや、樋口や村田のような、全てを読み合いで勝負するタイプ。

 樋口にはパワーもある程度あるが。

 技巧派という点では淳も技巧派だが、淳は魂の部分で勝負をかける傾向がある。

 ただひたすら相手を封殺したい直史とは、その時点で違うのだ。




 水上悟はこの年の四月、白富東高校へ入学する。

 投手王国と言われた白富東が、強力打線で相手を粉砕する打線王国となるのは、彼が三年生になった時である。

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