第8話 采配放棄

「お前ら、神宮は負けてもいいからな」

 大会直前に、秦野から衝撃的な言葉が飛び出した。

「作戦も自分たちで考えろ。分からないことがあれば聞いてくれればいいぞ」

 これは信用して任せるということか?

 いや、監督としての責任放棄ではなかろうか。


 秦野は三年契約の雇われ監督で、その期間は現在の一年生が卒業するまでである。

 つまり来年入学の新一年生が、出場出来たとしたらセンバツを終えたところで、契約を終える。

 重要なことは秦野以外のコーチ陣も、同じ時期に契約が切れるということである。


 施設は残る。だが潤沢な予算もなくなる。

 成績を出し続ければある程度の寄付などで賄えるだろうが、今ほどの環境は維持できない。

 秦野としては実績を出し続け、どこかの野球強豪校からオファーを待つためにも、勝って勝って勝ち続けなければいけないと思うのだが。

「どういうことだと思う?」

 常に目上に対する反骨心を持つ鬼塚が、部員たちのみのミーティングでそう言葉を発した。

「単に俺たちを信用して任せる、ってのは違うよね?」

 キャプテン倉田の言葉に、部員たちは頷く。


 春から数えてまだ半年少しの付き合いである秦野だが、監督としての力量は誰もが認めている。

 それがこのような指示を出すということは、何か考えがあるのだ。

「分からないことがあれば聞いて来いって言ってたから、完全に放置したわけでもないですよね」

 淳が考えるに、これは選手の自主性や、自分たちなりの思考を育成するためのものではないのか。


 引退した三年生は、ジンとシーナが中心となって、選手の間のことを解決してきていた。

 特にセイバーが退任してから秦野が着任するまでは、これに加えて直史や倉田が知恵を出し、センバツで全国制覇を成し遂げた。

 直史も地頭は良かったのかもしれないが、野球に対するIQでは、やはりジンが一番高かったのだろう。

 その主将が引退して倉田がキャプテンとなったわけだが、選手が主体となって監督に練習法を提案することは減っていったと思う。


 白富東の野球部の特徴は、色々と挙げられる。

 非体育会系、非根性論、合理主義、上下関係のゆるさ。

 だが実際に活動してみると、それよりも大きなものが分かる。

 生徒の主体性だ。




 セイバーの連れて来た秦野、それにコーチ陣は、間違いなく一流の技術を持ち、指導法も確立している。

 だが秦野にしろコーチにしろ、一人一人をじっと見ることはあるが、あまり口に出してくることはない。

 練習をしている時に、それは何を想定しているのかと質問することはあるが、否定することはあまりない。

 そう、コーチ陣は否定をしないのだ。

 また選手にとっての理想的なスタンスなども、それぞれ違う指導をしている。


 アレクの一見すると個性的過ぎるバッティングフォームも、全く改善しようとはしなかった。

 ダウンスイング、レベルスイング、アッパースイングも、人によってどれがいいかは変わる。

 試合ではあまり使わない送りバントだが、バントヒットの技術はしっかりと教える。

 コーチ陣は基礎的な部分の指導においては、体の深いところの使い方から、しっかりと教えてくれる。

 だが技術の末端は、それが危険なやり方でない限りは止めることはない。


 たとえばノックに対しても、体の正面で捕れなどとは言わない。

 ノックは片手を伸ばして、片手で取るものだ。正面で捕った方がいいのは、それが送球につなげやすいからだ。

 バッティングに関しても、転がせとは言わない。

 バントの練習をしっかりとさせるくせに、基本的にバッティングは、少しでも球を遠くに飛ばすことを優先させる。

 簡単な話で、遠くまで飛ばせる者が、外野の前に落ちるヒットを打つのと、外野の前や内野の間を通していく者が、長打を打つのとどちらが難しいか。

 MAXパワーを伸ばせば、MAXでない力でミートをして、バットコントロールも上手くなるという理屈だ。


 もちろんフィジカル面で全くまだ一定の領域に達していない者は、基礎的なトレーニングを多くする。

 だが絶対にボールに触らせる練習はさせる。

 ボールに触らないと、人間は野球が下手になる。

 日本人は割りと例外的に考えるらしいが、楽しくない練習で成果を出すのは難しい。

 アマチュアスポーツは楽しむのが目的であって、勝つのも上手くなるのも、その楽しさの延長である。

 コーチ陣は他校の練習などを見て、理解出来ないとばかりに肩をすくめる者がいた。


 日本においては野球で高校へ行き、野球で大学へ行き、その縁で就職するなどといった名門のコースが存在したりする。

 セイバーの用意したコーチ陣は、全てアマチュア野球では最高峰の環境でプレイしてきたが、同時に勉強も自然と行ってきた。

 ドラフトで指名された者もいたが、MLBに続くマイナーリーグに進んだ者さえいなかった。

 MLBを目指してハングリーな環境で野球をするより、それをコーチする立場になって一緒に楽しんだり、また野球以外の選択肢に魅力を感じて、そちらの選択肢を残しておいた者もいたのだ。

 結局はコーチにはなったが、それはあくまでも選択の結果であり、日本のように高校生の時点から、野球に全てを賭けるなどという者は少ないのだ。


 少ないだけでいないわけではない。己の力一つでアメリカンドリームを掴むというのは、今でも貧困層にある希望だ。

 しかし野球は金がかかるスポーツだ。圧倒的な身体能力を持つ選手は、むしろバスケットボールを選ぶことの方が多い。

 競技人口にしても、今では圧倒的にバスケの方が上である。


 たとえば日本の高校野球で、鬼塚を入部させ、ベンチに入れ、スタメンにする監督など、セイバー以外には絶対にいなかっただろう。

 あれは色々と批難されたものであるが、セイバーはわざとらしく答えたものだ。

「私も金髪ですが、染めた方がいいんですかね?」

 白富東は完全に、高校野球界においては異端児だ。

 だがプロにまで進めば普通に金髪の選手もいるわけで、セイバーは鬼塚の頭髪を守るために全力を尽くした。

 初めての女監督。初めての現役女子高生監督。初めての女子選手。初めての金髪選手。

 白富東は高校野球の精神で野球をしていないのだ。




 日本とそれ以外、どちらも経験してきた秦野には、日本の野球というのが軍隊の延長なのかな、と思うことがある。

 監督の命令は絶対。もっともそれは日本に限らず、作戦の上では当たり前のことだ。

 ただ向いていない選手にまで同じ作戦をさせようというところが、日本の野球の悪い点だ。


 日本のような練習法や指導法で、成績が上がるのならいい。

 だが人格形成だとか人間的な成長などにまで干渉するのは、本質的に野球という存在を間違って捉えている。

 もちろんチームワークだとか、最低限の人間関係の構築だとか、そういうものは必要だろう。

 だがチームワークの名の下に大介は送りバントをさせられたし、白富東では人間関係をアウトローな鬼塚は築けている。

 この奇跡のようなチームを維持するためには、選手自らが、楽しむことが大事なのだ。


 励むより、学ぶより、好むより、楽しむ。

 それが野球を上達する、一番の近道である。

 一律な練習で画一的なチームを作るのは、指導者側の管理の怠慢である。

 もっとも白富東のように、専属のコーチが何人もいないと、そういった細かい練習法は出来ないだろう。


 日本の野球改革は、まず指導者側の意識改革が重要だ。

 そしてそれが、組織改革につながる。

 下級生が上級生の小間使いなどをしている限り、日本の野球人口は減っていくだろう。

 どれだけのスターがいても、実態が悪ければそこで止まる。


 高校レベルであれば間違いなく世界一の日本の野球。

 それがプロになればメジャーの3Aよりやや上などと言われるのは、単純に素質などが問題なのではない。

 プロにおいてさえメジャーの理論が数年遅れで入ってくる、改革を恐れる保守というよりは既成概念の塊のせいである。

(大学でやらないまでも、せめて野球は続けたいって思う人間が必要なんだよな)

 辛いばかりのことを耐えることを、どうして美徳にしようとするのか。

 日本の野球の欠点も美点も、身にしみて分かっている秦野である。




 ドラフト会議後の熱狂がやや冷めたころのことである。

 今年は三年生と一二年生による、引退試合が行われる。

 これまでは三年生が九人に満たなかったこともあり、今年から始まった伝統ということになる。

 おおよそベンチメンバーは進路も決定していたりする。

 直史の場合は決まっていないが、模試の成績などはいい。合格圏内だ。


 引退後も習慣というのは恐ろしいもので、毎日それなりに体を動かしてはいる。

 下手に机に向かいっぱなしだと、逆に集中力が落ちてくるのを感じた。


 直史の早稲谷大学合格と特待生条件は、かなり普通の野球推薦とは違ったものになる。

 まずあくまでも、試験自体はちゃんと受ける。

 早稲谷の試験には様々な方式があるが、一番野球部にとって多いのは、自己推薦あたりであろうか。

 学科の試験がない。要するに、バカでも入れる可能性がある。(ひどい

 直史はあくまでも実力で試験を突破した上で、特待生の扱いを受けることを、野球部とは別の部分で話が通じている。

 そもそも大学に入れば終わりではなく、その後の人生も考えているので、勉強にかけなければいけない時間は多い。

 それに完全に野球の成績だけで入れる特待生が入学出来る学部は、直史の目指す学部にはないのだ。


 なお入試に合格した場合、入学金、授業料、寮費とそれに付随する費用が全て無料になり、あまり言えないことだが栄養費のようなものまで支給される。名目は奨学金だが、返済の義務はない。

 さすがの直史も学業と野球、それに人間関係にまで時間をかけた上で、アルバイトまでする余裕は無いのだ。

 それに食事に関しては、寮の食事だけでは不充分で、適度に補給していく必要があるのは確かだ。

 金額までは言えないが、生活費の全てをそろえて、全く不自由のない生活を送るだけの余裕はある。


 そんな直史も引退試合のためには、そこそこ体力を維持し、投げ込みを行っている。

 現役に混じって、そもそも引退前からマイペースに調整をしている直史に、その日来客があった。




 早稲谷大学の系列校とも言われる、野球においても西東京の強豪、早大付属。

 練習試合で対戦し、センバツでも対決したそのチームの主力四人が、直史に会いに来たのである。

「早稲谷に行くってのは本当か?」

 グラウンドの隅で、まともな挨拶もなく、いきなり近藤は問うてきた。

 唐突なやつだなとは思いつつ、直史は特に隠さず答えてやる。

「試験に合格したらな」

「試験? 推薦じゃないのか?」

「推薦だと俺の希望した学部に入れないというのもあるんだが、色々とあってな」


 直史の学力から考えると、学力に応じたテストによって、何度かテストを受けられる。

 おそらくどれかで合格できるだろうとは考えている。

「大学でも野球は続けるんだな?」

「それがまあ、特待生の条件だからな」

 学業に専念はするが、野球部に在籍した上で、資格試験などと被らない場合は、週末のリーグ戦に出場出来るように調整する。

 それが直史に大学が求めた義務である。


 はっきり言ってしまうと、ガチで野球にばかり時間をかけていると、司法試験の勉強が出来ない。

 直史の現在の実力からすると、野球の力を維持するだけで、大学レベルでも通用するはずなのだ。

 そもそも週末にリーグ戦を行うだけで、それも連投はあまりないとなれば、そこまで体力は必要ないと考えるのが直史である。


 佐藤直史は異物だ。

 それを感じながらも、近藤たちは話さざるをえない。

「今の上級生がいると、お前は目をつけられる可能性がある」

「どういうことだ?」

 そして近藤が話したのは、早大付属で起こった、上級生と下級生の対立であった。

 坂本と、それとバッテリーを組むべく入学した一年生の退部と退学。

 まあよくある体育会系の出来事である。


 さほど坂本のことは知らない直史であるが、まあそういうタイプだろうなとは思った。

 そしてその時の上級生が、現在大学にも所属しているのだとか。

「そもそもプロに行くつもりはなかったのか?」

 直史としては近藤ぐらいの選手であれば、どこからか指名されてもおかしくないと思ったのだが。

「上では野手でやるつもりだったからな。ただあいつらが元のままだと、大学四年間もやりづらくなる」

 そういう上級生がいるのは、直史にとっても面倒なことだ。

 まあ直史の場合は、野球部に在籍さえしていれば、あとは練習に出ても出なくてもいいのだが。


 つまり、近藤たちがやりたいことは分かった。

「下克上か」

「言うなればそれだ」

 新入生だけで上級生チームをぶっ飛ばし、野球部の環境を変えようということか。

「面白そうだけど、人数が足りないだろ?」

「ここにいないやつでも、他に何人か上に進むやつはいるんだ。お前が投げてくれるなら、なんとか守れるだけの人数は揃う」

 そうは言われても、直史は基本的に平和主義者だ。

 もっとも武装中立がモットーのため、戦力は保有しておくという立場だが。

「春日山の樋口も入るぞ。あいつもスポーツ推薦とはちょっと違った入学のはずだ」

 そう、樋口とならばバッテリーを組んだ経験もあるし、ワールドカップでの実績もある。

 樋口も将来のことを見据えて、野球特待とは違った入学をしているはずなのだ。


 先日行われたアジアカップで、ベストナインにも選ばれた樋口。

 それが直史と組むというのは、黄金バッテリーと言っていいのではないだろうか。

「あいつも野球ばかりやってるわけにはいかないはずだから、その話にも乗ってくると思うけど」

「樋口か……じゃあトシは本来のポジションに戻れるな」

 土方が頷く。どうやらこのバッテリーは、本来とは違うポジションで、甲子園にまで行ってしまったらしい。

「それじゃあ連絡取ってみる。話がまとまらなかったら、土方がキャッチャーするのか?」

「それしかないな」


 直史にとって野球は、あくまでも目標のための手段にすぎない。

 別に上下関係や人間関係で破綻するのは構わないが、それが自分の生活を乱すなら話は別だ。

 それに直史はゆるゆるの中学時代、完全自由の白富東時代を経ているため、いわゆる体育会系に馴染めないのは分かっていた。だからこそかなり無茶な特待生の条件になったわけで。

 だがこの一年生による下克上が成功すれば、楽しんで野球が出来るかもしれない。

 近藤たちを見送った直史は、引退試合に向けて体の微調整に取り組むのであった。

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