第4話 野球をしない高校球児
関東大会への出場は決まった。
そしてそれに向けて監督である秦野は、出場校のデータの分析を開始する。
このデータはコーチ陣が取ってきたものもあるが、基本的には野球部の研究班にやらせている。
金のある私立はスコアラーが大量のデータを集めてくるのだろうが、白富東は人員こそ増えたが予算はそれほど増えていない。
甲子園の春夏連覇というのは強烈なインパクトがあるが、別にだからと言って予算が優先的に回されるわけではない。
だが甲子園出場が決まった時の寄付金や、セイバーが独自で積み立てていた資金、そしてイリヤの出している金で、野球部はほとんどが回っている。
イリヤは少なくとも自分が卒業するまでは野球部を支援すると言っているし、セイバーも秦野がいる間は、コーチ陣まで含めて資金がなくならないように約束している。
問題は秦野の契約が切れた後のことである。
学校は体育科を作って野球部を支援するようなことを言っているが、そもそも多くを寄付金や元監督の持ち出しで賄っている状況が、上手くいくはずもない。
秦野にしてからが、白富東は自分のキャリアのための踏み台になると認識している。
もっとも踏み台は大切である。下手に選手を壊す監督などという噂が立ったら、次の仕事がなくなる。
それにブラジルでの長年の雌伏の間に、秦野の思考は日本の高校野球からは離れたものになっていた。
日本のアマチュア野球は、無駄に辛い。
意味のある練習が苦しいのは仕方ないが、いまだに100本ノックだの、ベースランニング10周だの、実戦でやらないことをやっている。
それも特に中学や高校野球でだ。
さすがにシニアや大学野球ではそんな意味のないことは少なくなっているらしいが、体質自体が古臭いのは変わらない。
(坊主頭をやってる段階で、競技人口を減らしてるよな)
白富東は完全に髪型自由であるが、それでエラーにでもなったらもちろん叱られる。
鬼塚の金髪も、いいかげん面倒で本人は止めたいらしいが、もうこれでファンが付いていたりするので、止めるに止められないらしい。
そのあたりは秦野にはどうでもいい。
鬼塚が練習に手を抜かず、自分なりの研鑽も積んでいるということと、それが結果に出ていることで満足している。
大事なのはあくまでも野球の成績なのだ。
だがここで文化祭の後に修学旅行という日程は、確かに私立ではありえないものだ。
日々バージョンアップしているスポーツ指導において、毎日の過酷な練習はほとんどの人間にとって意味がないと分かっている。
逆に過酷な練習は意味がないと断言するのも、それはそれで間違っている。
白富東は休養日を設定し、必ず体を休める日を作っている。座学も含めて一切野球と関連しない日だ。
だがそれでも上手くなりたいという選手は、ネットなどで今の最新技術などを検索している。
秦野が思うに自分の現役時代と今の最大の違いは、選手よりもずっと馬鹿な指導者が増えているということだ。
指導者のレベルが落ちたのではなく、情報の発信源が増えたので、選手が自ら知識を仕入れているのだ。
だいたい指導者というのは下手に成功体験を持っているだけに、それにこだわって選手それぞれの特徴を活かすことが出来ない。それで腐っていく才能はいくらでもある。
プロはともかくアマチュアレベルの監督の最も大事なことは、才能を潰さないことだと秦野は思っている。
私立の雇われ監督では、そのあたりは難しい。
秦野にしてもはっきりとそう言えるようになったのは、ブラジル時代の経験が大きい。
本人がどう選択するかはともかく、鬼塚もドラフトにかかるレベルには鍛えておきたい。
それが秦野の指導者としての考えである。
野球関連のことしかやってない。
修学旅行に沖縄にやってきた武史は、久しぶりに野球から完全に離れて愕然とした。
中学時代はバスケ部で、それなり以上にはやっていたと思えるのだが、高校に入ってからは家でも野球をやっている直史がいたため、意識から野球が離れることがなかった。
だが灰色の高校生活かと言えばそんなことはない。
むしろ野球をやっていたからこそ、これだけ異常に充実した生活が送れていると言ってもいい。
入学式からいきなりイリヤと出会い、野球部に入った。
春からいきなり試合に出られて、たくさんの声援を受けてマウンドに登った。
野球はやっぱりピッチャーでないといけない。
特に高校野球はピッチャーだ。大介ほど突出してしまえば別であるが、高校野球の華はやはりピッチャーなのだ。
周囲は言う。武史は天才だと。
最も尊敬し、かつ畏怖している兄でさえ、素質的には自分より上だと言う。
そういうものなのだろうか、常に武史は自信がない。
そして評価と認識のギャップを埋める手段も思いつかない。
これまでは常に格上の人間が傍にいた。
その人たちの後をついて、自分がやるべきことだけをやってきた。
今も前を向いて走っていくチームメイトたちと、並走している感覚はある。
だが自分が先頭を走っている意識はないし、一人で走り続けられるとも思えない。
(俺もせいぜい大学までかなあ)
直史は野球を、人生のための手段の一つとして使った。
武史にはまだ、自分の将来のビジョンがないのだ。
むしろ明確にそれを持っていた、直史やジンの方が珍しいのかもしれない。
その直史にしたところで、高校に入るまでは着実に市庁舎に勤める公務員を目指していたわけである。
一足先に土産を買い、どっかりとベンチに座っていた武史に、人の影がかかる。
「おう」
「買い物がすんだところみたいね」
イリヤであった。
県大会の応援には、イリヤも参加していた。
だが関東大会にまで来るのかどうか。
そもそもイリヤはこの学校にきたのは、あるいはまだ日本にいるのは、直史が目的だったはずである。
直史のピッチングは、イリヤという稀代の天才に、インスピレーションを与える存在なのだとか。
そして逆に大介は、そのインスピレーションを破壊する、対決する相手なのだとか。
イリヤの音楽の凄さと恐ろしさは、武史も目にしている。
だが彼にとってイリヤの音楽は、自分のベストパフォーマンスを発揮する上で、非常に大切なものなのだ。
「関東大会、お前も見に来るのか?」
「もちろん。特にやることもないし」
嘘である。イリヤは暇があれば、そこに何かをつめこもうという人間が周囲にいるのだ。
直史や大介はアマチュアのスーパースターであるが、イリヤはプロだ。彼女の作る音楽は金を生む。
そんな彼女が、直史のいない来年、どうするのかは気になるところだ。
武史はイリヤに対して、恋愛的な好意は抱いていない。
ただ不思議な、あるいは変なところのある天才だとは思っているし、自分とは人間として相性がいいタイプなのだろうなとは思っている。
それにイリヤがいるとツインズが、比較的にしろおとなしくなってくれるのには助かる。
「ツインズは?」
「たまには離れることもあるわ」
イリヤはどうやら純粋に、この沖縄旅行を楽しんでいるらしい。
「お前って沖縄は初めてなのか? つかアメリカのセレブってどういう暮らししてるんだか知らんが」
武史の知る限りイリヤは、東京で音楽活動をする時以外は、普通に千葉の生活圏内で活動している。
ただその中でもどこか、ほかの少年少女とは別の空気を纏ってはいるが。
「私はただ、音楽の聞こえるところに行くだけだけど」
そういえばこの間の甲子園でも、沖縄代表と当たった時は、あちらの応援に興味津々だったとか。
勝負自体は一方的な試合であったが、彼女にとっては面白いものであったらしい。
来年から、イリヤはどうするのか。
直史は東京へ行く。大学でも野球をするのだが、そこにも顔を出すのか。
(そういや大学の大会ってどうなってんだ? リーグ戦と神宮大会以外に、何かあったっけ?)
いまだに野球に疎い武史は、そのあたりの知識もない。
「兄貴が東京で試合に出るときは、お前も見に行くのか?」
「その予定ではあるけど……こちらの試合も見たいし、リーグ戦っていうのがどうもね」
どうやらイリヤはあまり気分が進まないらしい。
高校野球は基本的にトーナメントだ。地域ごとにリーグ戦を行ったりする場合もあるが、公式戦はまずまず全てトーナメント方式と言っていい。
イリヤ的には一度負けたらそこで終わりのトーナメント戦が、緊張感があっていいらしい。
ワールドカップはまた別であった。あれは対戦は一度しかなく、そして最後には一位と二位でトーナメントをした。
去年のワールドカップはいまだに口の端に上ることが多い。
日本で見ていた武史も、あの日本のものとは全く違うエンターテイメント性には度肝を抜かれたものだ。
「卒業したらどうすんだ? 大学にはもう行かないんだろ?」
イリヤは大学に行く必要もない。そもそも学力的にはまともな大学には入れない。
もちろん音楽の才能を前面に出すなら、いくらでも入学出来る大学はあるのだろうが。
「武史がどうするか、少し気になるわ」
「俺かよ」
決めていない武史にそう言われても困るのだ。
なんとなくではあるが、大学で野球の実績を残しつつ、将来のことを考えればいいのではないかと考えている。
プロに進むというのは、正直考えていない。
だが大介や岩崎を見に来るスカウトたちが、12球団全て、武史にも注目しているのは知っている。
「プロに行ってもなあ……」
武史には目標がない。
甲子園までなら、なんとか現実的な目標として考えられる。全国制覇をもう一度してみたいという気はある。
兄と投げ合った大阪光陰の真田と、自分だったらどう戦うかを考えることもある。
夏の甲子園は、ほとんど勝利をつかみながらも、最終回近辺で交代することが多かった。
それは別にいい。直史がいたのだから。自分が監督でも交代させる。
しかしこの秋からは、武史が投げている。
淳やトニーに経験を積ませるのも大事であるが、基本的には武史がエース扱いされている。
野球のピッチャーは、あるいは試合の行方の七割から八割を決めるポジションとも言われたりする。
そこまでの重要度があるのか武史は疑問であるが、少なくとも直史はそれに相応しいほど絶対的であった。
力比べはしてみたいかな、という程度の気持ちはある。
それにあの大観衆のなかでのプレイは、おそらくこの先の人生でも一度も出会うことはないだろう。
「とりあえず東京に出たい気はするな。兄貴も金はいらないらしいし、ツインズも自分で稼ぐらしいから、俺は自由にしろって言ってもらえてるし」
武史も元々は、地元の国立大学を目指していたのだ。それが佐藤家の家計から算出される、現実的な進路であった。
しかし今、直史は特待生での進学が決まり、一切の金銭は必要にならないようになったらしい。詳しいことはちょっと話せないらしいが。
双子の妹はもう社会人として稼いでいる。そんな事情があって、武史の将来はかなり選択肢が多くなったのだ。
とりあえず、東京には出たい。それだけは確かだ。
「東京で何をする気?」
「それが決まってないから、選択肢の多そうなところに行きたいんだよな」
そんな話をしている間に、イリヤも隣に座った。
「私もしばらくは東京をメインに活動することになると思うわ。いずれはニューヨークに行くつもりだけど」
「芸能人は違うな」
イリヤは行きたいところに行くのではなく、必要なところに自分の足で行く。
彼女の意思はあるいは、直史や大介以上に、既に定まっている。
音楽に愛され、そして同時に呪われ、病苦の中でも音楽から逃れられなかった。
失ったものの代わりを手に入れて、彼女は果たして将来をどう考えているのか。
(まあとりあえずは関東大会なわけだが)
強豪の多い関東大会、ここで優勝すれば神宮大会に進める。
白富東が去年と同じ道を進めるのか、その肝心の部分は武史の左腕にかかっているということだ。
関東大会にイリヤが来るということは、当然ツインズも来るということである。
そしてツインズが交流していた、女子野球の皆さんも来るということだ。
ああ、そうか。
武史は考え方を変えた。
(別に難しいことは考えずに、女の子にいいとこ見せるだけって考えればいいのか)
下手に目標などとはせず、そんな安直な考えを持つ。
そもそも直史だって、瑞希にいいところを見せるために、色々ととんでもない記録を残してしまっているわけだ。
卑近な動機と思われるかもしれないが、同時にそれは純粋でもある。
「なんとかモチベーションは上がってきたぞ」
「良かったわ」
そんな武史を見て、イリヤはどこか艶やかに笑う。
イリヤにとっても武史は、不思議な存在なのだ。
自分の音楽を聴いても動ぜず、しかし高いパフォーマンスを発する。
不思議な少年だな、とイリヤはどことなく年上の気分で武史を見ている。
関東大会が近い。
そして野球部とその周辺には、まだまだ多くの出来事が待ち構えている。
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