後編「僕と彼女」
僕が話しかけた相手は、いつも、家の前を歩いていた彼女ではなかった。容貌は似ているが、明らかに彼女ではなかった。
僕自身も、驚いていたが、話しかけられた女性も、驚いた様子だった。それもそのはずだ。全く知らない相手から、突然、話しかけられたのだから、無理もないことだった。
「何でしょうか?」
目の前の女性は、若干、こちらを警戒しつつ言った。
「間違いました。人違いです、気にしないでください」
彼女に会えると心を弾ましていたが、彼女でないことを知り、僕が心虚ろになって家に戻ろうとした時、後ろから、先ほどの女性が声をかけてきた。
「あ、あの、もしかして、姉に用があるのではないですか」
「姉......あなたは、彼女の妹さんなんですか」
彼女と目の前の女性は、雰囲気が似ていた。姉妹ということなら、納得がいった。
「やはり、姉のことをご存知なのですね。申し上げにくいのですが、先日、姉は子供を助けようとして事故に遇い、病院に運ばれましたが、まだ意識を取り戻していません。医者からは、おそらくもう目を覚まさないだろうと言われました」
僕は、女性の言葉をすぐに理解できなかった。目の前の女性はなんと言ったのだ。
姉が事故にあった......。まさか、そんな。何かの聞き間違いに決まっている。つい、この間まで、元気にこの家の近くを歩いていたではないか。そんな人が、事故に遇い、意識を失っているなどにわかに信じることなんてできなかった。
あまりに唐突な事実に、頭が混乱し、何も話せなくなっていると、女性が話始めた。
「あなたと、姉との関係は分かりませんが、あなたが、何か姉に伝えようとしていたようなので、伝えるべきだと思いました。あなたと姉は、どのような関係だったのですか」
彼女の妹である女性は、僕に問いかけてきた。改めて、聞かれると、僕は彼女とろくに話をしたことはない。関わりという関わりを持っていなかった。
ただ、家の近くに、歩いている彼女を見て、元気をもらっていた。ただそれだけの希薄な関係だ。
「彼女とは......知り合いです。ただ、それだけの関係なんです」
「あなたは、嘘をついています」
「何で、そう思うんですか......」
「だって、とても悲しい表情を浮かべているんですもの」
女性が言うように、僕は嘘をついていた。ただの知り合いなどではなかった。彼女は初恋の人で、僕の生き甲斐そのものだった。きっと、僕の片思いだと思うけれど、僕にとってかけがえのない特別な人であるのは確かだった。
「彼女のことが好きだったんです。確かに、たいした話をしたりはしていなかったけれど、自分に生きる希望を与えてくれた特別な人だったんです。妹さんの方が、ずっと彼女と長いときを過ごし、つらい思いをされているはずなのに。すみません、こんなにも取り乱してしまって......」
女性は今にも泣き出しそうな情けない僕の姿を変な顔ひとつせず言った。
「いえ、あなたの純粋に姉を思う気持ちは、伝わりましたから。あなたは田月さんですよね。姉が前に、この辺で会ったと言っていたので」
僕は、女性が自分の名前を知っていることに、驚いた。彼女にも、目の前の女性にも、名前を話した覚えがなかった。
「どうして、僕の名前を」
「以前、この辺で、落とし物をした時に、拾ってくれた男性が、田月さんだったと姉は言っていました。家の標識が田月になっていたので男性が田月さんだと分かったようです」
「たった1日、ほんの数分だけ会っただけなのに、彼女は、僕のことを覚えてくれたんですね。それなのに、僕は、彼女の名前すら知らない」
「姉は、明日野飛鳥と言います。田月さんに初めて、会った時のこと話していました。とても笑顔のすてきな方と聞きました。彼の笑顔に、元気をもらえて、印象残っていたみたいです」
「そうだったのか......」
僕は、その事実に、思わず声を漏らした。
彼女は、明日野飛鳥は、僕のことなんて、ちっとも覚えていないだろうと思っていた。だけど、違った。
僕が彼女に話しかけた時、自分では全く気づかなかったけれど、僕は笑っていた。引きこもりであまり感情を表に出さない僕が、思わず笑顔を浮かべてしまうくらい、彼女とのあの瞬間は、僕にとって、特別で幸せな時間だったのだ。
彼女の笑顔から、元気をもらったように、僕の笑顔で、彼女に元気を与えていたなんて考えもしなかった。
僕でも、誰かに元気を与えることができる。ただ、生きているだけで、誰の役にも立てないのだと思っていたけれど、こうした形で、大切な人の役に立てていたことは、嬉しい気持ちになった。
「そろそろ、行きますね。姉のいる病院に、行かないといけないので」
「すみません、いきなり、呼び止めたりして。飛鳥さんが、目を覚ますことを願っています」
女性は、悲しげな表情を浮かべて、ゆっくりと、去っていった。その表情から、病院に眠る飛鳥さんの状態が、芳しくないことが見てとれた。
現実は、残酷だ。いくら、願っても、祈っても、自分の思うようには、大概、動いてはくれない。だけど、彼女が、深い眠りから目覚めることを願わずには、いられなかった。願うことしか、僕のできることが思い当たらなかった。例え、願いが無意味なことだったとしても、僕は、願い続ける。
世界は、変わり続ける。僕が苦しもうと、苦しまずとも、何事もなかったように平然と、いいようにも悪い方にも変わって行く。今ある、当たり前も、ほんの一瞬で、消えてなくなってしまう、危うさが常にあった。
僕は、彼女のように生きたいと思った。彼女のように、誰かのために、何かをするということが、この満たされない気持ちを唯一、満たしてくれるのだと彼女と出会い気づかされたから。
誰かのために、何かをするなんて、偽善者がやることじゃないかと思っていた。きっと、誰かを守ろうと思う気持ちすらも、自分のエゴなのではないかと思っていた。
だけど、自分のためだけに生きるのは、つまらなく、空虚だった。際限のない自分の欲望は満たしても、また、満たしたつもりになっているだけで、ただ、蓋をして、虚しい気持ちを覆い隠しているだけに過ぎなかった。誰かのために生きることで、自分という存在を強く感じられるのだと知った。こんな自分でも、誰かを笑顔にできるなら、生きていたって、いいよなって思えた。
僕は、青く澄み渡った大空を仰ぐと、心の中で誓った。
明日から、学校に行こう。変わりたいんだ。自分だけが、殻にとじ込もって、変われないでいるのは、もう嫌なんだ。殻から抜け出して、もっと自由な世界に飛び立ちたい。
※※※
「行ってきます」
僕は、後ろにいる母親にそう言うと、久しぶりに、学校に行った。なんとなく、その時、彼女が、僕の背中を押してくれたような気がした。
学校のみんなは、久しぶりに僕の姿を見て、少し驚いた様子を見せたが、変な目で、見たりはせず、ごく普通に接してくれた。
正直、ずっと、怖かった。引き込んでいた僕を、受け入れてくれるのか、変な目で、見られるのではないかと内心震えていた。
僕は、僕の作り上げた物語の中で生きてきたのだと思う。自分で勝手に、馬鹿にされるだとか、変な目で見られるだとか、そういう物語を作って苦しんでいた。
だけど、現実は、自分が思い描いた物語みたいにはならなかった。それもそのはずだ。すべて、僕が作り上げた物語は妄想なのだから、当たり前のことだった。
学校に通い始めて、数日たったけれど、なんの変哲もなく、当たり前のように、時間が流れた。時々、彼女のことを思い出す。彼女は、今もまだ病院で意識が戻らないまま、眠り続けているのだろうか。彼女に関する情報が全くなかった。彼女の妹にも、あの時に出会って以降、会っていない。
僕は、雪が降っている通学路を歩きながら、駅に向かった。今日は、特に寒い。息を吐き、すっかり、かじかんだ両手を温めた。吐いた息も、白くなっていた。
雪が降っているが、積もるほどの量ではない、なんとか、電車に乗って自宅に帰れそうだった。駅のベンチに座り、ぼんやり、駅から見える街の景色を眺めながら、電車が来るのを待った。
座っていると、お年寄りの女性が、何かに躓いて、転んだのが見えた。僕は、すかさず、お年寄りの女性に寄り添い、「大丈夫ですか」と声をかけていた。ごく自然に、何も考えることもなく、そんな行動に出ていたことは、自分でも驚きだった。
「心配してもらわなくても結構です」
お年寄りの女性は、不機嫌な様子で、自ら立ち上がると、どこかへ立ち去っていった。僕は、女性が、何も怪我をしていない様子を見て、安心すると、また、椅子に座って、電車が来るのを待った。
僕は少しでも、彼女に近づけただろうか。一人の女性としてではなく、一人の人間として、僕は、彼女のことが好きだ。
いつか、また、彼女に会えたなら......。
電車が、線路の上を走る音が聞こえてきたので、ベンチから立ち上がり、乗り場の黄色い線の手前まで歩いた。
立ち止まっていると、突如、耳をつんざくような叫び声が響き渡った。
すかさず、叫び声がした方向を見てみると、先程のお年寄りの女性が、乗り場から線路に落ちて、足が悪いのか身動きがとれなくなっていた。
助けなければ。
僕は、乗り場から、飛び降りて、線路にいるお年寄りのところまで急いで行った。早速、お年寄りを乗り場まで持ち上げようとするが、寒さで手がかじかんでいて、力が入らない。何度も、力を入れてみるものの、やはり一人では、持ち上げることができなかった。
そうしている間にも、電車は、音を立てて、すぐそこまで来ていた。このままでは、二人とも、電車に轢かれてしまう。この人だけでも、なんとか助けたい。
すると、僕たちの様子を見ていた人たちが次第に集まってきて、お年寄りの女性を線路から乗り場に上げるのを手伝ってくれた。そのお陰で、無事に女性を乗り場に持ち上げて、助け出すことができた。
あと、線路に残っているのは僕だけだ。
そう思った瞬間、電車が急ブレーキをかけ、火花を散らしながら線路を削る鋭利な音が耳に突き刺さった。
僕は、横を振り向くまでもなく、死を直感した。こんなにも突然に、なんの前触れもなく、その時が来るなんて思いもしなかった。
ああ、ここで死ぬんだな、僕は。
半ば、諦めかけたところに、女性の声が、聞こえた。
「生きて!田月くん、私の手に捕まって」
この懐かしく、暖かみのある声はまさか......。僕の方までまっすぐ差し伸べられた手を自ずと、掴んでいた。そのまま、乗り場まで、引き上げられた直後、線路に電車がものすごい勢いで通過した。
間一髪のところだった。先ほどの声は彼女だ。飛鳥さんのおかげで助かった。病院で意識を失っていた彼女は、生きていたのだ。やっと、彼女に会えた。伝えるんだ、思いを。もう覚悟は、できている。ラブレターがなくたって、自分の言葉で思いを伝えてみせる。
僕は、彼女に思いを伝えようと彼女の姿を探した。人が多くて、すぐには見つからない。
人の波を掻き分けて、辺りをひととおり見渡した。だけど、いない。先ほどまで確かにいた彼女の姿はなかった。
「あの......先ほどまで、ここにいた僕と同い年くらいの女性を知りませんか」
僕は、思いきって近くにいた人に彼女のことを聞いた。
「いや、知らないな。そんな人いたかな。ここに」
どういうことなのか、僕は、にわかに状況を理解することができなかった。ふと、駅の床に、何かが落ちているのに気づいた。そして、不意にそれを見て彼女の優しい笑顔が頭に浮かんだ。
「そうか、そうだったのか......彼女は、もう......」
床に落ちていたものは、彼女のお守りだった。僕は、お守りを拾うと、優しく握りしめた。
最後の最後まで、僕は、彼女に救われてしまった。本当にどこまでも、世界は、空気を読まず、平然と、移ろって、残酷な現実を突きつけてくる。
正直、くじけそうで、胸が苦しく、悲しみの涙がこぼれそうになったけれど、最後に聞いた「生きて!」という言葉を思い出し、耐え忍んだ。
彼女が、せっかく救ってくれた命だ。救ってくれたのに、苦しみながら、生きるなんて、彼女の行いを無駄にすることだ。そんなこと、あってはいけない。
生きるよ。自分らしく、君に負けない笑顔を浮かべられるくらい、幸せに生きる。誰かに、自分の幸せをお裾分けできるくらい幸せになる。
僕は、いつものように、電車に乗って、学校へと向かった。電車の扉には、幸せな顔をした僕が映っていたーー。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます