第9話 生活の旅

9-1 出発

 その日、妙子はモンペを履き、峯雄の遺品たるリュックに静江の和服の他、全体の約半分に家の風呂で使う薪を入れた。無論、カムフラージュのためである。そして、午前9時半頃、家を出た。

 「行って来ます」

 「気を付けて」

 玄関で、静江に見送られた妙子は、市電乗り場まで歩き、そこからは、途中、市電を乗り換えて、国鉄の駅へと向かった。1か月ほど前、芳江とともにしたルートである。

 そこで電車に乗った妙子は、さらに別の国鉄の駅へ向かった。

 駅に着いてみると、構内はにぎわっている。改札で目的地までの切符を買って、行き先の列車に乗った。

 10分程して、発射のベルが鳴り、蒸気機関車の太い汽笛が鳴った。車両全体が振動し、ゆっくりと列車が動き出した。

 妙子にとって、遠くまで旅に出るのは、一体、何年振りなのであろう。先日、涼子が言っていたように、旅に出る余裕など、戦時体制が半ば続く昭和30年の今日、殆どなかった。今日の旅は、藤倉家の命をつなぐ、重要な出張と言えた。それ故に出られた旅であった。

 走り続けている間、トンネルに差し掛かた時以外は、妙子は、というより、殆どの乗客は窓を開けていた。車窓からは石炭を焚く匂いが入ってくる。列車は妙子にその匂いを感じさせながらも、東京を出、次第に田園風景となって行く風景の中を走り続けた。

 車内の他の乗客にも、リュックを持つ者が少なくない。皆、何をしに行くのだろう。やはり、食料の買い出しだろうか。国中に闇経済がはびこっている昨今では、そうであってもおかしくはない。あるいは、妙子が建前にしている担ぎ屋であろうか。とにかく、公的制度が半ば機能しなくなっている状況では、庶民は、法を犯してでも、自分の生活を何とかしなければならないのである。妙子がそうした人々の一員として、この列車に乗っていることは言うまでもないことであった。

 東京を出てから、数時間ほど経って、列車は関東某県のある駅に到着した。妙子は脇に置いていたリュックを背負い直し、列車を降りた。列車は妙子が下りるのを待っていたかのように、妙子が下車した直後、太い汽笛を鳴らして駅を出て行った。

 「さてと」

 ホームに立った妙子は改札に向かった。駅を出て、これから中岡家に向かわなければならない。

 改札口を出てみたものの、勝手の分からぬ妙子としては、どのように動けばよいのか分からない。幸い、駅前に交番があった。そこで、巡査に道を尋ねてみることにした。

 「すみません」

 「はい」

 妙子は巡査に問うた。

 「お尋ねしますが、この街の○○町○○丁目の中岡さん方、分かりますでしょう 

 か」

 巡査は地図を拡げると、場所を指さして説明した。

 「ありがとうございます」

 何となく、場所が分かった妙子は、とりあえず、巡査に説明された方角に向かって歩き出した。

 暫く歩いているうちに、人が集まっている場所に出会った。何があったのだろうか。その家が、中岡家だろうか。なかなか、立派な感じの屋敷である。しかし、表札には

 「篠原」

 とあった。別の家である。

 数人の小作人らしき農民達が、この家の戸主らしき男に詰め寄っていた。

 「旦那、あっしらはどうなるんですか?」

 別の男が言った。

 「そうですよ、いきなり土地全部が軍に接収なんて。俺達は旦那の土地で働いてい

 るから何とか生きて来られたんだ」

 「旦那、なんで、土地を軍に譲ろうとしたんですか」

 戸主らしき男が怒鳴った。

 「俺は土地を譲ったつもりはない!」

 「ですが、旦那、この地方の新聞には、旦那が土地を軍に譲って、愛国の心情を発

 露って出ているじゃないですか」

 戸主氏は怒り心頭の表情である。しかし、新聞にまで「愛国心の発露」と出てしまっていては、今更、

 「あれは自分の本意ではない」

 とも言えないのかもしれない。よそ者の妙子には事情が分からぬが、妙子も大事な食料調達のための「出張」に来ているのである。早く中岡家に着きたかった。道を聞ける人々は殺気立って興奮している彼等以外にはなさそうなので、おそるおそる、道を尋ねた。

 「あの」

 男の1人が振り向いた。

 「すみません。ちょっと道をお尋ねしたいのですが、この近所に中岡さんという家

 は」

 「ああ、中岡さんの家なら、ここをまっすぐ行ったところにあるよ」

 「ありがとうございます」

 殺気立った男達の間に、長居は無用である。妙子が男たちの輪から離れようとした時、背後から戸主氏の怒りが聞こえた。

 「畜生、ヨシエの奴め」

 妙子ははっとなった。

 「ヨシエ?」

 勿論、妙子が思ったのは約1か月前に山村家を出た、あの芳江のことである。芳江はここに移って来ていたのだろうか。あるいは偶然、名が同一の別人かもしれない。とにかく、妙子は中岡家への道を急いだ。

 妙子が暫く歩くと、藁ぶきの農家が見えて来た。篠原家程、大きくはないものの、やはり、そこそこの農家らしい。入口の表札には

 「中岡」

 とあった。

 「ごめんください」

 「は~い」

 中から声がした。女性の声であった。静江の姉・春江だろうか。

 縁側から1人の女性が、草鞋を履いて出て来た。

 「どなた」

 妙子は言った。

 「藤倉妙子と申します。先日、私の母の静江がお手紙を差し上げたかと思います

 が、その件で、母の和服を持って参りました」

 「ああ、妙ちゃんね」

 この女性が妙子のおば・春江らしい。妙子は問うた。

 「春江おばさんですか」

 「そうよ、お上がりなさい」

 そう言うと、春江は妙子を玄関に通して、土間から家に上げた。


9-2 再会

 妙子は居間に通された。居間には都会では見かけない囲炉裏があった。

 春江が、居間に座っている妙子に話しかけた。

 「妙ちゃん、暑いし、大変だったでしょう。遠い所、ご苦労さん」

 そういって湯飲みに入れた麦茶を勧めた。暑い夏には嬉しい心遣いである。

 「冷たくて、美味しいお茶ですね」

 春江は言った。

 「一升瓶に入れて、井戸の中で冷やしておいたのよ」

 井戸水は冬は暖かく、夏は冷たい、と聞いていたことがある。中岡家でもそうなのであろう。

 春江が続けた。

 「妙ちゃん、最近はどう?妙ちゃんと以前に会ったのは、お父さんのお葬式の時だ

 ったから、あまり、私の記憶はないかしら?」

 妙子はミッドウェー海戦で戦死した父・峯雄の仏壇を用意した時、母が涙ぐみながら、

 「お父さんは、お星さまの世界に行ったのよ。お父さんはきっと、お母さんや妙ち

 ゃんのこと、お星さまの世界から守ってくれているから」

 と言っていたのを、おぼろげながら憶えていた。当時の妙子には事情は、勿論、分からなかった。

 春江が続ける。

 「もう、あれから13年も経って、昭和30年になってしまったわね。妙ちゃんも

 大きくなって、今じゃ、立派な女学生さんね。学校の方はどう?」

 妙子は答えた。

 「毎日、大変です。軍事教練の時なんか、暑い中、行進させられるし、38式歩兵

 銃の射撃訓練もあるし」

 妙子は続けた。

 「それに教練担当の教師がいつも怒鳴ったり、叩いたりで」

 妙子は、普段の理不尽に対する怒りを思わず口にした。それを聞くと、春江は

 「それは大変ね」

 と同情の言葉をかけつつも、少々、厳しい表情になり、周囲を不安げに見回した。

 「よしましょう。聞いている人でもいたら、どうするの」

 現体制への不満は、体制批判とも解釈し得る。春江は、警察への密告等によって、自分の地域内での村八分のようなものが怖かったのかもしれない。

 妙子は少し反省した。警察や周囲の目が怖いのは、都会、田舎を問わず、変わりはないらしかった。

 しかし、先程の篠原家での騒ぎは何であろうか。「愛国心の発露」ということなら、聞いても問題はないのではないか。

 「おばさん」

 「何?」

 「さっき、篠原さんという地主らしい方のお宅の前を通ったのですが、何か、騒ぎ

 になっているようですね」

 「ああ、あれね」

 春江は微笑を浮かべながら、答えた。 

 「篠原さん、皇軍のために愛国心を発露するとかで、持っていた土地の多くを軍に

 寄付したそうよ。それ以上のことは私にも分からない」

 妙子は以前、田舎では互いに顔見知りだから、何かあると、すぐに噂として広まる、と聞いたことがある。このあたり一帯でもそうなのであろうか。あるいは、先の男達が言っていたように、新聞報道で知ったのだろうか。謎めいた微笑が気になったものの、妙子は、和服と食料を交換するという出張目的で来たのである。本題である食料のことを切り出した。

 「おばさん、お手紙で約束した母の和服です」

 そう言って、リュックを開け、静江から預かって来た和服を取り出し、和服を包んだ風呂敷を開いた。

 「まあ」

 春江は和服を見るなり、声を出した。妹・静江が峯雄と結婚した時、春江と静江の母が、静江の幸せを願って、持たせたものであった。春江の脳裏にも色々なものが蘇った。

 ミッドウエー海戦の勝利の裏で、結婚生活もこれからという時に、涙を流している静江に、皇国のためには泣いてはいけない、という者がいたこと。静江が必死で感情をこらえていたこと。子供達はまだ、4歳と1歳であって、何もわかるはずはなかったこと。2人の子供を抱えて未来の不安にさらされている妹・静江に、助けられる可能性を確信できないのに、困ったら、相談に来なさい等の発言をしたこと等である。

 春江は、静江からの和服を暫く手にして、眺めていたが、傍で何を言って良いのか分からぬ表情の妙子に気づいた。

 「食べ物をお裾分けするんだったわね。ちょっと待っててね」

 そう言うと、裏の納屋に行き、暫くして麻袋を抱えて戻って来た。

 「これ、僅かだけど、妙ちゃんに上げる」 

 受け取った妙子は、麻袋を開いてみた。中には米の他、いくらかの野菜類が入っていた。

 「おばさん、こんな時なのに、ありがとうございます」

 妙子は、思わず、涙ぐみながら、お礼を言った。

 その妙子に、春江が小声で注意を促した。

 「警察の検閲も厳しいだろうから、気を付けて」

 勿論、そのために、カムフラージュ用の薪をリュックに詰めて来たのである。妙子は一旦、リュックから薪を取り出すと、米の入った麻袋を予定通り奥底に詰め、その上から、薪を、麻袋が見えなくなる形で詰め直した。

 夕方、妙子は中岡家を出た。

 「おばさん、今日はありがとうございました」

 春江が言った

 「妙ちゃん、元気でね。お母さんに宜しく」

 妙子は、往路を駅に向かって引き返した。篠原家前では、まだ騒ぎが収まってないらしい。数人の小作農らしき男達が何かを言い合っていた。

 「俺達はどうなる・・・・・」

 等の台詞が耳に入ったが、妙子にしてみれば、彼等がどうなる、よりも自分を含めた藤倉家の生活の方が大事なのだ。米が入って重くなったリュックを背負った彼女は、ひたすら駅に向かって歩いた。駅前の交番のことが気になったが、何かの事情があったのか、昼にいた巡査はおらず、交番内は無人のようであった。妙子は、そのまま、東京行の列車に乗って、引き返した。


9-3 目撃

 往路で列車に乗った駅で、妙子は列車を降りた。蒸気機関車の動輪の間から吹き付ける蒸気が妙子の顔を打った。人々の流れに合わせて、妙子も改札に向かった。

 改札に向かって歩きつつ、妙子は一瞬、息をのみ、緊張した。改札付近に数人の警官がいる。リュックの中身がばれたら一巻の終わりである。かといって、こそこそとふるまっていたら、かえって怪しまれるかもしれない。なるべく、警官と目を合わせないように気を付けつつも、表面的には何事もないかのように、改札に向かって歩いた。

 妙子は心臓が強く脈打ち、胃が何かしら重くなった。この恐怖は如何ともしがたい。人々は改札で駅員に切符を渡し、駅を出て行く。妙子も、そのようにして出た。

 「警官に目を付けられませんように」

 そう思いつつ、改札を出たところ、警官の1人が、傍の女性に声をかけた。

 「おい、そこの女、待て」

 女性の表情が一瞬、青ざめた。

 「鞄の中身は?」

 「あの、その」

 「中を見せなさい」

 そのすきに、妙子は逃げるように、往路に乗った電車への乗り換え口に向かった。振り返ってみると、警官数人と先程の女性が何か、押し問答になっている。何があったのかは分からない。しかし、他人の騒動のせいで、とにかく、警察という関門を何とか無事に逃れることができた。

 妙子が乗り換えた電車がそのうちに走り出した。

 妙子は思った。

 「あの女の人は、鞄の中に何を入れていたのだろう。私と同じように、闇米か何か

 を入れていたのだろうか」

 そんなことを考えつつ、妙子は電車の車窓から流れる日の落ちた暗い街を車窓から眺めていた。

 あの女性にどんな事情があったかは、他人である妙子には分かりようのないことである。とにかく、妙子の心中にあるのは、「出張」が帰宅まで、無事に終わってほしいという思いだけであった。

 妙子はその後、電車を下車し、駅前から市電に乗った。幸い、国鉄の電車から市電に乗り替えた時には、警官はおらず、警察という関門はなかった。どうやら、「出張」は無事終わりつつあるようであった。

 妙子は停留場で市電を降り、家に向かって歩いた。

 歩いていると、一台の自動車とすれ違った。妙子は一瞬、ぎょっとなった。警察の車らしかったからである。妙子は一瞬、思った。

 「まさか、こんな所で、闇食糧狩り!?」

 しかし、自動車は一瞬にして、過ぎ去って行った。暗くて、よくは分からなかったものの、後部座席に誰かが乗せられていた。

 町内を歩いているうちに、妙子は多江に出会った。

 「こんばんは」

 「あら、妙ちゃん、お使いにでも行っていたの?」

 「はい、もう家に帰るところです」

 「そう」

 多江は、何か、せいせいとした、という顔をしている。妙子は不審に思い、問うた。

 「どうされたんですか?」

 「隣組の山村太造会長が逮捕されたのよ」

 「え!?」

 突然の話である。一体何があったのか。先日、隣組での配給日に行方不明になってから、どうしたのか、と思っていたものの、まさか、逮捕とは。

 「何の容疑ですか?」

 「さあ、分からないわ」

 またまた、何かが女学生の妙子のあずかり知らぬところで動いているようである。しかし、とにかく、妙子は早く、米を家に持ち帰りたかった。多江との話が続いている間に、米を持ち帰って来ていることが知られ、噂が町内に広がったら、色々、大変である。

 「それじゃ、失礼します」

 妙子は、多江と別れて、自宅に戻った。玄関を開けた妙子は言った。

 「ただいま」

 「姉ちゃん、お帰り」

 静江より先に雄一が出て来た。米の話を聞かされていたのか、妙子が帰って来る前から、期待していたようである。

 「ただいま、雄一。お母さんは」

 「ああ、いるよ。母さん、姉ちゃん、帰って来た」

 静江が玄関に出て来た。

 「妙ちゃん、お帰り。どうだった」

 「うん、お米が手に入った」

 妙子は、リュックの口を開いて、上に乗せていた薪をどけると、リュックの底から、米の入った麻袋を取り出した。

 「すげえや」

 雄一が目を輝かせ、歓声を上げた。とりあえず、暫くは、飢えることはなさそうである。静江にも、思わず笑みがこぼれた。

 その日の夕食は、久しぶりに白米の夕食であった。静江はいつものように、仏壇の峯雄に手を合わせ、仏壇にも白米を供えた。

 家族の会話も何げに、いつもより弾んだ。妙子が言った。

 「ところで、深本さんちの多江さんが言っていたけれど、山村会長、逮捕されたん

 ですってね」

 静江が言った。

 「そうみたいね。何でかしら」

 そう言いつつ、静江は続けた。

 「とにかく、今日は白いご飯が食べられてよかったわね」

 雄一が言った。

 「ああ、美味かった」

 藤倉家では、米飯が口にできたことで、久しぶりに明るい気分になれたのであった。太造が逮捕されたことよりも、白米の方が数段、重要なことであったのだ。人間は何よりも、「食」を不可欠としている存在なのである。

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