第7話 芳江との別れ
7-1 午前十時、山村家前
翌日の日曜日、妙子は山村家の玄関前に行った。午前10時には未だになっていなかったものの、既に来ていた。暫くして玄関が開き、大きな風呂敷を背負った芳江が出て来た。
喜久子が芳江に声をかけた。
「芳江ちゃん、これまで大変だったわね。元気でね」
喜久子はさらに妙子に声をかけた。
「妙ちゃん、それじゃ、芳江ちゃんを送ってあげてね。悪いわね」
「はい、奥さん、私がお見送りします」
芳江が言った。
「奥さん、今までありがとうございました」
芳江は、玄関で見送る喜久子に一礼すると、妙子に促した。
「さ、行きましょう」
「はい」
2人は、近所の市電乗り場に向かって歩き出した。
芳江の表情を見るに、彼女は複雑な表情である。妙子には芳江にどういった事情があるのかは分からない。だからこそ、今日の見送りを申し出たのである。複雑な表情の背後には何が隠されているのか。妙子は問うた。
「芳江さん」
「何?」
「どうして、この街を出て行くのですか?」
芳江はそっけなく言った。
「契約期間が切れたから」
「そうですか」
妙子は、何だか、それ以上、聞けないような気がした。市電乗り場で待つ間、何も言えなくなってしまった。そのまま、自宅に引き返そうかとも思った。しかし、それも何だか気まずいような気がして、そのまま、一緒に行くことにした。
暫くして、市電がやって来た。2両編成である。後部の車両は、バスに市電用の車輪をはかせて、市電につないだものである。燃料不足から走れなくなったバスを、遊休状態にしておくのはもったいないと、バスに市電の車輪をはかせて本来の市電に連結する形で運用しているわけである。
2人はその後部の車両に乗った。
市電が動き出した。車内に市電のモーター音が響いた。車窓からはいつもの見慣れた風景が見える。
「守れ!日本の生命線」、「聖戦!死守!大東亜共栄圏!」
といったいつも通りのスローガンが見える。人通りは、日曜日だからか、平日よりは少ない感じである。あるいは、工場は燃料不足で操業を停止し、会社も勤務を停止しているのだろう。大東亜戦争に勝利した昭和18年ごろには最後の一押し、ということで、土日祝日も無視しての勤労動員だったというから、昭和30年の今の光景は、それなりに平和なものかもしれなかった。
芳江は、今では30位の女性である。昭和17、18年頃には今の妙子とほぼ同じ年齢だったはずである。この世代の女性達は、どんな青春を過ごしてきたのだろうか。
妙子が口を開いた。
「芳江さん」
「はい」
「芳江さんが、今の私くらいだった時、どんな毎日だったのですか」
「大変な毎日よ。ほとんど学校では勉強することができなかったし、土日も祝日も
勤労動員で工場勤務だった」
芳江は当時を振り返りながら続けた。
「零戦の部品を造っていたんだけど、私ってほら、ドジで不器用だから、結構、へ
まもやらかした。それで、海軍から派遣されて来た班長にしょっちゅう怒られた。
時には私も含めて、動員学生がぶたれることもあった」
「そうですか」
今と何も変わっていない。あるいは、今も当時と変わっていない、と言うべきか。この国は、大東亜戦争の勝利によって、何を得たのだろうか。それはともかく、芳江に辛い思い出を話させてしまったことをとを妙子は申し訳なく思った。
芳江が言った。
「そろそろ、○○前ね」
「はい」
「降りる支度しなきゃ」
「はい」
芳江は、風呂敷を背負い直した。妙子は芳江を手伝い、バス改造の市電を降りた。芳江は、ここで別の市電に乗り換えて、国鉄の駅まで行く予定である。
「駅まで行くべきか、それとも、ここで引き返すべきか」
妙子は迷った。妙子は「秘密」を知りたいと思って、ここまで一緒に来た。しかし、結局、それを知ろうとすれば、益々、何かしら、芳江の辛い思い出を聞き出すような形になる気がして、それをためらう気持ちもあった。このように迷っている間に、乗り換えの市電が来た。
「妙ちゃん、電車来たわよ。乗るわよ」
半ば、芳江の言葉に促される形で、次の市電に乗った。芳江が妙子の心中を知っていたかどうかは分からない。とにかく、妙子はそのまま市電に乗った。今度は1両である。妙子は、何も言わず、沈黙したままでは、それこそ気まずいので、改めて口を開いた。
「なんで、山村さん所の使用人になったんですか?それに、喜八さん、どうしてあ
んなことに」
「どうして聞きたい?」
「いえ、別に」
妙子はどのように続けてよいのか困ってしまった。
「まあ、色々あってね」
やはり、芳江には言いたくない事情のようなものがあるようであった。これ以上、興味本位に「秘密」を探ることはできそうになかった。
車内に車掌の声が響いた。
「次は、国鉄○○駅前」
2人の降りるべき場所である。芳江は再び、風呂敷を背負い直し、妙子は先程と同じように、芳江を手伝った。2人は市電を降りた。
芳江は駅前広場で、妙子に言った。
「妙ちゃん、今日はありがとうね。わざわざ、見送ってくれるなんて」
「いえ、こちらこそ、立ち入ったことをお聞きしまして」
7-2 お守り
別れ際、芳江は妙子にお守りを差し出した。妙子は問うた。
「何ですか、これ」
「私のお守りよ。ここまで見送ってくれた御礼に、これをあげる」
「そんな、大事なものなんじゃ」
「いいのよ、貴女にあげるから。とっておきなさい」
そう言うと、芳江は妙子の右手を取り、お守りを握らせた。
「それじゃ、これでお別れだけど、妙ちゃん元気でいてね」
「はい、芳江さんも、お元気で」
挨拶を交わすと、芳江は改札口に向かい、駅の中へと消えて行った。妙子は芳江の姿が見えなくなるまで、彼女を見送った。そして、妙子は駅に背を向けた。
7-3 曇天の下で
妙子は、駅近くのベンチに腰を下ろした。改めて、芳江にもらったお守りを手にしてみた。
御守には、勿論、「御守」の2文字があった。芳江にとって、この御守は、どんな意味があったのだろう。古い御守である。色が変色し、所々がささくれていた。
何時頃からのものなのだろうか。かなり古いもののようだが、それだけ、芳江に寄り添い続けて来たもののはずである。
妙子はつぶやいた。
「なぜ、これを私に」
しかし、そんなことは考えてみても、妙子には分かるはずもなかった。芳江の「秘密」を聞くこともできなかったのであるから。このような形で、妙子はまたまた、「秘密」に当たってしまった。
まだ、時刻は午後1時頃であった。昼である。このまま、帰宅しても、いつもと変わらぬ時間が過ぎていくだけであろうから、妙子は少し、駅前をぶらぶらすることにした。
道行く人々は、妙子を含めて、スカート姿が多い。先の芳江は、しかし、モンペ姿だった。芳江は動き易さからそうしていたのであるが、戦時体制が言われていた昭和18年頃までは、それが女性の標準的スタイルだったとされている。藤倉家でも、静江は工場に行く時は、モンペをはいて行くか、持って行く。昭和30年代という今の時代の平和は、その当時の人々の苦労によってつくられた、ということは繰り返し言われていることであった。妙子等は、それでも、スカートがはけるだけ、有難いのかもしれない。
街を歩いていると、様々な街行く人々を当然ながら目にする。しかし、それらの人々の姿は、何処か活気がないのである。今の時代、街にはこれといった楽しみはない。前線の軍が優先であり続けている状況の下で、喫茶店等が営業できる余裕等もあるはずがなかった。勿論、ビアホールも‐未成年の彼女は飲酒などしたことはないが‐どこも閉館していた。妙子は、ある建物の前で足を止めた。
その建物には、「ビア・ホール」という看板がかかっていた。電球が装飾されていることから、かつては、夜になれば、にぎわっていたのかもしれない。今はちょうど、夏だから、かつては、会社帰りのおじさん連中などでにぎわっていたのかもしれない。
妙子は、この建物の中を覗いてみた。出入口のガラス戸から、中が見える。
中には、勿論、誰もいないし、明かりもついてはいない。今日は曇天だからかもしれないが、中は、一層暗いもののように見えた。テーブルの上には椅子がさかさまに載せられていた。ホールの中は全体として、ほこりをかぶっているようである。
妙子は、なぜか気になって、足を止めてみた。しかし、普段は気にも留めることの無い存在だった。大東亜戦争戦勝前の過去の遺物であった。
「妙ちゃん」
「え!?」
不意に声をかけられて、妙子は驚いて振り返った。そこには涼子がいた。
「妙ちゃん、偶然ね。こんな所でどうしたの?」
「近所の人々をそこの駅まで見送って来たのよ。今は、その帰り。涼ちゃんこそ、
何をしているの?」
「ちょっとうろうろしていたのよ。何となく家にいたくなくて」
「どうしたの?」
「まあちょっとね」
似た言葉を先程は芳江から聞いた。どこにも何か秘密めいたものがあるようなのである。
涼子が提案した。
「そこまで歩かない?」
「ええ、いいわよ」
2人は雑踏の間を歩きだした。涼子が言った。
「もうすぐ夏休みね」
「そうね」
「妙ちゃん、夏休みはどうするの?何か予定している?」
「何も予定していない。うちには大してお金もないし」
「うん、うちも同じ」
涼子はなぜ、「夏休みの予定」ということを口にしたのだろう。暗い世相の中で、何か明るい話題でも見つかれば、と思って、敢えて口にしたのかもしれなかった。昭和30年の今、相変わらず「平和」を言いつつも、臨戦態勢である中、どこも苦しい生活が続いているのである。
こんな調子だから、妙子は大東亜戦争の勝利、に何の意義があったのか、と疑問を抱きたくなるのである。先日、富子に対して、それを言って彼女に止められもした。涼子にも口にしたい、とは思ったものの、流石に、それは憚られた。ここは大勢の行きかう街の雑踏の中である。勿論、道行く人々の大半は見ず知らずの他人でしかない。女学生2人の会話に等、特に気にも留められないだろう。しかし、何処に密告しようという人間がいるか分からない。又、特高の刑事が偶然にも傍にいた等ということになったらただでは済まない。先日、富子と話したように、村八分にされ、場合によっては幸長のようにされるかもしれなかった。権力の怖さは、自身の通う学校の橋田の行為が実証していた。それを思うと、恐怖を感じるものがある。
涼子が言った。
「崎田先生が言ったように、前はコーヒーとケーキを楽しめたらしいけどね」
その言葉をどのように捉えるべきか。この発言には、やはり、体制批判が半ば込められているような気がした。妙子は、このまま取り合っていると、そのままエスカレートしそうな気がした。
妙子は言った。
「とにかく、学校で勉強できるだけ、良い世の中になったじゃない」
と先日の富子の言葉をおうむ返しにした。その際、少し語気を強めた。これ以上、この話は続けるべきではない、という意思表示であった。
涼子は、妙子の意志を汲み取ったのか。
「そうね」
とだけ言って、この件については、これ以上、口にしなかった。
妙子と涼子は、何となく気まずい雰囲気になり、この後、少し歩いた後、分かれた。
妙子は往路と同じ市電に途中から乗ると、やはり、往路と同じ場所で乗り換え、自宅へと引き返した。
帰路の市電の中で、妙子は涼子と気まずくなってしまったことを悔いていた。そして、心中で呟いた。
「涼ちゃん、ごめん。強く言い過ぎたわね」
それは、臨戦態勢が実際の恐怖として、妙子の上にかぶさってくることから起きた具体的な事象であった。しかし、この種の恐怖は、涼子にとっても同じことであろう。だから、涼子は先程の妙子の言葉の裏にあるものを読み取ったのであろう。
その日は1日、曇天であった。曇天の天気が、妙子の心中を表わしているかのようであった。
「ただいま」
いつものように、妙子は自宅の玄関をくぐった。
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