第5話 進む展開
5-1 3人の会話
いつも通りの月曜日である。妙子はいつも通りの朝食を済ますと、自転車に乗って家を出た。深本喜八の死を目撃した翌日なので、昨日のショックが残ってはいた。しかし、学校に行かねばならないという事実があった。今日は休んでしまった方が良かったのかもしれない。だが、休んでしまうと、昨日のショックを色々と考え込んで、かえって、悶々としそうな気がした。
学校に入ると、妙子は、これまた、いつも通り、富子と涼子に会った。2人は、妙子の顔色が優れないのを察したらしい。
「妙ちゃん?」
「あ、うん」
妙子は声がかかったので、半ば上の空で返事した。
富子が言った。
「どうしたの?」
「昨日、うちの近所でとんでもないことがあって」
「え?」
「近所の人が殺されて、死んだのよ」
これには、富子や涼子も驚いた感じである。彼女等とて、新聞で見るところの「戦死者」等から、人の死を想像するしかないのである。それ以外に、「死」については触れる機会がほとんどないのである。
涼子が言った。
「どうして?」
勿論、妙子にその理由が分かるわけもなかった。
「分からないわよ」
富子が口をはさんだ。
「私達、刑事さんじゃないんだから、分かるわけないじゃない」
無論、それが現実である。富子が続けた。
「とにかく、授業に出ないと。早くしないと遅刻するわよ」
富子に促されて、妙子と涼子は、それぞれ教室に入った。
授業中、妙子は、とにかく、授業に集中しようとしていた。よそ見をしていたら、教師に怒られるだろう。大東亜戦争に勝利した皇国日本の銃後を担う人間が、そんなことでどうするか、と。勿論、どの教師の担当授業か、にもよるだろうが。但し、今日は橋田の授業はなかった。それが唯一の救いであった。こんな状況の中で橋田の授業を受けることになるとしたら、どんなことになるやら分からなかった。
とにかく、妙子は、喜八のことや、深本家のことが気になっていた。隣組の一員として、いつも付き合いのあった一家である。困っていた時には、僅かながら、藤倉家から助けを差し伸べたこともあった。勿論、本当に僅かである。深本家の2人の子供たちのために、雄一が幼かった頃の古着を譲ったのである。その時、多江は、とても喜んでくれた。物不足で、成長して行く子供達の衣服を調達し得るか否か、不安に思っていたのであろう。
「藤倉さん」
「藤倉さん」
「え?あ、はい!」
妙子は授業に集中せんとしていたものの、喜八のことを考えているうちに、授業からそれて、1人の世界に入り込んでしまっていたらしい。
「教科書の〇ページから〇ページまでを読んで」
「あ、はい」
しかし、先程まで、自分1人の世界にふけっていた妙子である。上手く読めるわけもなかった。周囲のクラスメートが少しく笑った。そうこうしているうちに、終業のベルが鳴った。休み時間である。妙子は偶然の時間の流れに救われた形になった。
教室から、生徒が外に出始めた。妙子も外に出た。廊下で崎田に出会った。
「藤倉さん、今日どうしたの?授業中、上の空だったって聞いているわよ」
「はい、昨日、ちょっと大変なものを見まして」
「え?」
「私の家の近所で、人が殺されて、死んだんです」
「まあ」
崎田は驚きの表情を示したものの、暫く押し黙ってしまった。戦死した夫のことが一瞬、脳裏に浮かんだのかもしれない。崎田の夫は死んだ、つまり、戦争で殺されたという事実があった。あるいは、やっと、一応は「平和」になったのに、何ということかしら、という気持ちもあったのかもしれない。傍の妙子には、崎田の心中については、想像することしかできなかった。
暫くの沈黙の後、崎田が口を開いた。
「大変だったわね。調子、大丈夫?」
妙子は、とりあえず、返事した。
「はい、まあ」
「藤倉さん、もうすぐ、次の授業は始まるわよ。気を確かになさい」
「はい」
妙子は返事すると、教室に戻って行った。
5-2 進む3人の会話
終業のベルが鳴った。授業が終わった。妙子と富子、そして、涼子の3人は、廊下で集まった。まだ、午後も授業があるのである。3人はいつも通り、弁当を広げた。いつも通りのふかし芋だけの弁当である。
富子が口を開いた。
「妙ちゃん、死体を見ただなんて、ひどい体験だったわね」
「うん」
妙子は返事をした。しかし、したものの、やはり、どうも、上の空の返事である。殺人の死体を見た、という体験というか、事実が、何なく、今一つ、事実として認識できないのかもしれない。
さらに涼子も口を開いた。
「私達、平和な時代に住んでいるものね。死体なんて、滅多に見られないわよ」
その口調には、何となく、妙子の体験に同情しつつも、自分も1回ぐらい、死体を見てみたい、という好奇心の響きがあった。
この言葉を聞いて、妙子は益々、複雑な感情になった。現実をどのように飲み込んでよいのか分からない。それ故、益々、上の空のような表情になった。それを察したのか、富子が口を開いた。
「よしましょう、もうこの話は」
涼子も理解したらしい。
「そうね、よしましょう。誰かが死んだのを興味本位で口にするのはよくないこと
だったわね」
しかし、妙子自身が言った。
「ただね、このことについて、気になることがあるのよ」
富子が言った。
「何が?」
「今、涼ちゃんが、人の死を興味本位に扱うのは良くないって言ったわよね。確か
にそれはそうなんだけれども、何かひっかかるものがあるのよ」
涼子が言った。
「何が?」
「私自身もよく分からない。ただ、死んだ人は、私の近所の男の人で、深本喜八さ
んっていうんだけれども、奥さんの他に、伸び盛りの2人の子供がいるし、今後、
深本さんちはどうなるのかな、って思う。実際、深本さんちに、うちの弟の古着を
譲ったこともあった。みんな、生活難なので、深本さんの奥さん、とても喜んでく
れた」
富子が言った。
「そう、いつも、みんな、生活難だし、生活苦よ。でも、助け合うところは、互い
に助け合うべきだし、それをした妙ちゃん達は偉いじゃない」
妙子が言った。
「有難う。でも、本当に弟が要らなくなったから、譲っただけで、本当に必要な物
は譲れないわよね」
涼子が言った。
「本当に必要なものか」
富子が既に、心中を察したかのように話をつないだ。
「決まっているじゃない、食べ物よ」
その通りだった。食がなければ、何もできない。本当に必要なものは「食べ物」なのである。妙子は思った。
「食べ物か。喜八さん、隣組会長の山村の指図で、農家から食料を調達していたけ
れど私達の食料は今後どうなってしまうのだろう」
全く、現実的な懸念である。先程、富子が
「いつも、みんな、生活難だし、生活苦よ。でも、助け合うところは、互いに助け
合うべき」
と言っていた。しかし、食べ物については、そうもいかない。そうもいかないから、皆、戦時中から隣組会長であり続け、「食べ物」の権力を握っている山村に頭を下げているのである。食料が調達できなければ、当然、飢えが待っている。飢えるのは嫌だから、町内の人間は、隣組会長の山村に取り入るしかないのであるが、それにしても、あの嫌らしいニヤケ顔が脳裏に浮かぶと、虫唾が走る。何とも言えない不快さだった。先に、山村の名を呼び捨てにしたのはそれ故であった。
涼子が口を開いた。
「うちは配給日には、隣組の会長が、助け合いましょう、なんて偉そうに言うの
よ。でも、食べ物は足りないし、この前なんか、食料の配給をめぐって、隣同士
で、おっさんが喧嘩よ。傍にいた巡査が止めたけれど。そのおっさん連中は大東亜
戦争の勝利がどうの、大東亜共栄圏の死守がどうのって、偉そうに言うけれども、
食べ物のことになったら、なりふり構わないのよ」
半ば、大人の入り口に差し掛かっている涼子は、建前ばかりを言って、偉そうにする大人社会の醜い現実を見てしまい、その不快な感情のはけ口を求めているのかもしれなかった。
富子が話をつないだ。
「うちも同じようなものよ。本当にみんな、生活が苦しい」
富子は無意識のうちに、
「いつも」
と
「苦しい」
の言葉を使った。
それを受けるように、涼子が続けた。
「いつも苦しい、か」
確かに、生活はいつも苦しかった。妙子、富子、涼子等が物心ついた頃から、食事には、米のようなぜいたく品はなく、今日も例にたがえず、ふかし芋だけの弁当だった。それが、大東亜戦争に勝利した大日本帝国の市民生活の揺るがない現実、あるいは、事実だった。
富子が言った。
「崎田先生が言っていたことがある。先生が幼い頃には、まだ戦争が激しくなく
て、お父さん、お母さんに銀座の喫茶店に連れて行ってもらって、ケーキを食べさ
せてもらったりしたって」
涼子が言った。
「じゃ、今のほうが前より生活が悪くなったってこと?」
「そうかもしれない」
妙子は先日、夢の中で、父・峯雄に菓子を買ってもらっている自分の姿を思い出した。しかし、それはあくまで、夢の中の世界でしかなかった。菓子やケーキ類等は、彼女等の世代にとっては、殆ど、想像の世界の話でしかなかった。
富子が続けた。
「本当に大東亜戦争に勝ってよかったのかな?」
先日の夢を思い出していた妙子は一瞬、ぎょっとなった。橋田にでも見つかったら、今の発言はただ事では済まないであろう。妙子は低音で、しかし、強い口調で言った。
「滅多なこと言わないで。橋田にでも聞かれたらどうするの?」
富子ははっとなり、富子に同調するような格好になっていた涼子も我に帰った。
妙子は言った。
「さあ、教室に戻りましょう。まだ、午後も授業よ」
3人は弁当箱を片付けて、それぞれ教室に戻った。
放課後になって、妙子はいつものように、自転車で帰宅した。
5-3 逮捕からの帰還者
自転車に乗って、自分の町内に帰った妙子は、村田家の前で人が集まっているのを見た。村田家には幸長という大学生がいる。
「こんにちは」
妙子は町内の人々に挨拶した。何か、ものものしい雰囲気である。妙子は不審に思い、傍の主婦に話しかけた。
「どうしたんですか」
「この前、喜八さんが殺された事件があったでしょう。その犯人として、村田さん
ちの幸長さんが逮捕されたらしいのよ」
「え!?」
幸長は上品な感じの大学生である。人を殺めるような人物には思えなかったので、妙子は正直驚いた。妙子は思わず口走った。
「なんで、幸長さんが?幸長さんに人を殺す理由なんてないはずじゃ」
「そこの所は私にも分からないわよ」
主婦は、答えられない質問をされたことに苛立ったのか、怒ったような口調になった。
「ただ、さっき、幸長さん、警察から返されて来た。警察の取り調べで、相当ひど
くやられたようだったわよ」
「やられたって、おばさん、幸長さんの姿を見たんですか」
「さっき、警察に担がれて、玄関から入って行くのを見たのよ。全身、相当にひど
い傷よ」
警察の「取調べ」は、まだ、村田家の中で続いているようであった。警察官らしき男達の声が聞こえてくる。
「それで、村田、今回は証拠不十分で釈放してやったが、今度、証拠が挙がってみ
ろ、必ず、ぶち込んでやるからな」
幸長の母の声がそれに続いた。
「はい、すみません。今後、このようなことのないようにいたしますので、今回は
この辺で勘弁してやってください」
母親の声は、最後は涙声になっていた。
玄関から、怒りの表情の刑事2人が出て来た。彼等2人は周囲の人々を払いのけると、自動車に乗り、引き揚げて行った。
妙子は幸長の姿を直接に見たわけではない。しかし、この様子では、相当な目にあわされたであろうことは容易に想像できた。
刑事が引き揚げた後、周囲の人垣も徐々に消えて行った。皆、何か重苦しい表情である。妙子も自宅に戻ったものの、軽やかに自転車をこぐ、という気分などにはなれず、重い足取りで自転車を押して帰った。
食料はろくになく、学校では橋田の怒声を浴び、町内では、喜八が死に、さらには幸長が苦しむ姿まで想像させられねばならなかった。わけても、幸長は物知りなので、時々、妙子は参考書として、幸長から書物を借りたりしていた。実を言えば、つい最近も本を借り、まだ返していないものがあった。
「ただいま」
家に帰った妙子は、浮かぬ表情で玄関をくぐった。
「おかえり」
いつもの母の声である。静江の声も浮かない声である。幸長の件を知っているのかもしれなかった。
「お母さん」
「何?」
「村田さんの」
静江は、すぐさま、強い調子で言った。
「そのことなら、言わないで」
有無を言わせないような強い口調である。妙子は静江の口調に圧倒された。圧倒されつつも、妙子にも言いたいことはあった。つまり、昼に学校で、富子や涼子と話していた内容についてである。
「大東亜戦争に勝って、本当に良かったのか」
ということを、である。先程見た村田の件で、一層、そんな気分になった。これは大東亜戦争に勝った今日の体制によってなされたものだからである。
そこに雄一が出て来た。雄一は今にも女の戦いが起こりそうなことを察したのか、押し黙ってしまった。雄一の表情を見た静江はいつもの台詞を口にした。
「さ、夕食にしましょう」
夕食は、気まずい雰囲気の中で、まずく感じられた。夕食をとりつつ妙子は心中にて思った。
「大東亜戦争に突入する前は、米のご飯も食べられた時もあったって、聞いたこと
もある。それなのに、今は、お米はないし、お菓子なんか夢物語よね。一体、この
戦争に何の意義があったのかしら」
そう思いつつ、静江の方を見た。
静江は、妙子の表情から、自分達、戦争世代への不満のようなものを感じたのか、
「文句は言わせない」
という強い表情であった。このままだと、本当に、家庭内世代間戦争でも起こりそうな雰囲気であった。雄一は、2人の表情から、ただならぬものを察して、縮こまっていた。普段は、静江プラス妙子対雄一の構図なのだが、今日は静江対妙子の構図であり、雄一は蚊帳の外といった感じである。
「ごちそうさま」
妙子は、ぴしゃりと言うと、食器を片付けて、自室に入った。その後、雄一も同じくした。
子供達2人に、先に居間から去られた静江は、食器を洗うと、仏壇に手を合わせ、峯雄に声をかけた。
「ごめんなさい、あなた。夕食時に気まずいことになってしまって」
そして、少し涙ぐんだ。
何時の間にか、雄一が居間に、出て来ていた。雄一は静江に声をかけた。
「母さん」
「何でもないの。あんたも、学校の宿題とかあるんでしょ。さっさとしなさい」
またまた、厳しい声である。雄一は自室に戻った。
妙子も、ふすまを僅かに開けて、静江の様子も見ていたので、母が涙ぐんでいるのは分かった。静江の先程の有無を言わせぬ態度に立腹し、半ば、涙の母の姿をいい気味だと思いつつも、静江の涙の理由を考えていた。
要は、「大東亜戦争」に青春をささげた、というより、捧げざるを得なかった世代としては、その結果、つまり、戦勝によって得られたものは何もない、という虚しさを感じているのかもしれなかった。それでも、それを認めてしまうと、青春そのものを否定してしまうことになるので、虚勢を張っているのかもしれなかった。
とにかく、妙子は、幸長の本を返さなければならない。外は暗くなっていたものの、近所である村田家まで本を持って、暗い夜道を歩いた。
電力の供給が不足しているので、街路灯も消えていることも屡々であった。大東亜共栄圏として、日本が拡げた領域を護る前線の軍への燃料等の供給が優先されているからであった。
妙子は、路地から何かが出て来そうな気がして、背筋が寒くなった。以前、前線で反日ゲリラが襲って来た、という話を帰還兵から聞いたことがあった。その時もこんな状況だったのだろうか。「平和」と言いながらも、同時に戦時体制が続いていることを思わせた。
藤倉家から村田家まで、徒歩で10分程度なのだが、この10分が極めて長いものに思われた。こんなことなら、翌日以降の明るい時間にでも行けばよかったのだが、静江との対立もあり、何となく、自宅内にいたくない気分だったのである。
「ごめんください」
村田家の玄関前で、妙子は言った。
「はい」
幸長の母の声がした。
「あら、妙ちゃん、こんな時間にどうしたの?」
「幸長さんから、お借りした本を返しに来ました。幸長さんに宜しく言っておいて
ください。今夜はこれで失礼します」
妙子は、そう言ってすぐに村田家を出た。敢えて、
「この度は、幸長さん、大変でしたね」
とは言わなかった。警察での一件は、幸長の母も触れられたくはないだろうし、妙子自身も、触れたくなかった。
「大東亜戦争に勝利して、本当に良かったのか」
という疑問に自分自身で深入りし、結果として、帰宅後、益々、静江との対立が激化するような雰囲気を作り出しそうな気がしたのである。
帰路も勿論、街路灯は消えていて真っ暗である。こんな調子では、喜八が夜間に殺されたとしても、なかなか分からなかったであろうと感じた。
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