第3話 下校

3-1 行方不明

 人々の群れに近付くにつれて、妙子は自転車の速度を落とし、そして、自転車を降りて、群れに近付いて行った。見れば、深本さん宅の主婦・多江が、警官と話している。近づいてみると、何か、深刻な表情である。

 「はい、はい、そうなんです」

 多江が深刻そうな表情で警官と話していた。

 「で、奥さん、ご主人が出られたのは何時頃のことですか」

 「2日ほど前のことなんです。隣組長の山村さんに言われて、米を買いに行くと言

 って、それきりで」

 「分かりました。捜索願を受理します」

 「すみません。宜しくお願いします」

 警官は一度、引き揚げることにしたらしい。去って行く警官を見送る格好となっている多江に、妙子は話しかけた。

 「こんにちは、深本の奥さん」

 「あら、妙ちゃん、おかえりなさい。学校からの帰りね」

 「はい」

 妙子は言った。

 「ご主人、どうされたのですか」

 「いいえ、大丈夫よ。うちの主人ったら、飲んだくれだから、何処かで飲んで、ひ

 っくりかえっているんじゃないかしら」

 多江の表情には、呆れとも怒りともつかぬ表情が浮かんでいた。確かに、ここ数か月程、多江の主人・深本喜八は酒を飲む量が多くなっていて、妻の多江を怒らせていた、と言われていた。 

 喜八は、山村太造の秘書のような仕事をしていた。田舎の農家から送られて来る食料の町内への調達係のようなことをしていたのである。妙子等の隣組にとっては、なくてはならない存在であった。「食」は、どんな状況でも不可欠だからである。深本夫婦にも子供が2人いる。どちらも小学生の育ち盛りだ。その2人の子供が何時の間にか、家から出て来ていた。

 「ねえ、母ちゃん、父ちゃんどうしたの?」

 多江は少々、強い口調で言った。

 「いいから、あんたらは、家に戻っていなさい」

 子供達は、多江の強い口調に圧倒されたのか、黙って家に戻って行った。

 「妙ちゃん、ごめんなさいね。心配かけちゃって」

 「いいえ、奥さん。私は、これで失礼します」

 妙子は自転車を押して、自分の家に戻った。

 「ただいま」

 母の静江が出迎えた。

 「あら、おかえりなさい」

 「あら、母さん、もう帰っていたの」

 「うん、今日は工場での仕事が早く終わったのよ」

 最近は、母が勤めている工場では、時短操業も多くなっていた。占領地から、燃料、資源等が、日本の内地に入りにくくなっていた。そのためにこそ、皇軍による占領地での占領継続の必勝を願わざるを得ない状況でもあった。

 静江が言った。

 「妙ちゃん、学校の制服を着替えてらっしゃい。夕飯にしましょう」

 「そうね」

 妙子は自分の部屋に入ると、浴衣に着替えた。居間に戻ると、母に問うた。

 「雄一は?」

 「さっき出かけたけど、じきに戻るでしょう。雄一が戻ったら、夕食にしましょ

 う」

 10分ほどして、雄一が戻って来た。台所の静江が言った。

 「身なりを直していらっしゃい。夕食にするわよ」

 雄一は、

 「うん」

 と一言、答えると、自分の部屋に戻り、妙子と同様、学校の制服を着替えて来た。

 「さ、夕食にしましょう」

 静江がそう言うと、妙子と雄一は揃って、ちゃぶ台を囲んだ。勿論、献立はいつも通りである。ジャガイモ、サツマイモ、それにカボチャの煮付だけである。米飯は、無論はない。いずれも、隣組を通して配給されたものである。静江は、食べる前に仏壇の峯雄に手を合わせ、今夜の献立の一部を供えて、手を合わせた。

 「あなた、妙子も雄一も、こんなに大きくなりました。そちらの世界も大変かもし

 れないけど、2人を見守ってくださいね」

 妙子にとって、峯雄は4歳くらいまでの記憶、それも薄ぼんやりとした記憶しかなく、雄一にとっては、記憶外の異世界の人でしかなかった。

 「さ、食べましょう」

 静江に促されて、妙子と雄一は箸を手に付けた。


3-2 会話

 「姉ちゃん」

 「何、雄一?」

 「俺、今日、学校で一悶着あってさ」

 静江が口をはさんだ。

 「あんた、さっき、帰って来た時、浮かない顔だったわよね」

 「教室で喧嘩したんだ」

 妙子が問うた。

 「あんた、一体、何したの?」

 「同級生の奴が、俺達の戦争の勝利を疑問だって言うんだ。そしたら、うちと同じ

 ように、戦争でと父ちゃんが戦死した奴が、お前のところの父ちゃん、戦争にも行

 っていないくせに、生意気言うなってけしかけて、言い合いから取っ組み合いにな

 ってしまったんだ」

 妙子がさらに問うた。

 「で、あんた、その時、どうしたの」

 「俺も、父ちゃんが戦争に行っていない奴が言うことなんか、おかしいと思って、

 父ちゃんが戦死した奴の味方をしたんだ」

 妙子が続けた。

 「それで」

 「結局、そいつにぶん殴られて、制服が汚れちまった」

 静江が声を荒げた。

 「あんた、ここ最近、石鹸の配給が少ないし、売ってもいないことも分かっている

 でしょ。それなのに、何てことしてくれたのかしら」

 雄一は縮こまりつつも言った。

 「でも」

 妙子が追い打ちをかけて言った。

 「でも、じゃないわよ。あんた、お母さんがいつも苦労しているの、分かっている

 でしょ。その年齢になって、何てことなの」 

 雄一にも、勿論、言い分はあった。しかし、静江と妙子の気迫にすごまれて、何も言えなくなってしまった。結局、言えたのは

 「ごめんなさい」

 の一言だけだった。静江は言った。

 「さっさとおあがんなさい。要らない苦労を増やすなんて」

 静江は、嘆息交じりにそう言いつつも、雄一の喧嘩の現場を見ていなかったとはいえ、一体、この争いは、誰の主張が正しかったのだろう、と思わざるを得なかった。

 大東亜戦争に勝利した日本ではあった。しかし、食料を中心として、必要な生活物資の多くは配給のままであり、種類も数も足りない。そんな中で、静江は、妙子と雄一の2人を育てなくてはならなかった。特に雄一は育ち盛りで、食べる量も多くなくてはならないはずであった。それを毎日、白米もなく、芋類とカボチャだけの毎日である。学校だって、制服が衣類としてあるだけ良いようなものの、汚されては替えは容易に手に入らない昨今なのである。

 静江は、若い頃は、僅かに人生の花を楽しんでいたとも言えた。喫茶店でコーヒーを楽しむ余裕もあった。しかし、何処をどのようにたどって、今のような生活になったのか。自分の力では抗えない力、あるいは歯車によって、であった。余計に深刻な感情になりそうであった。

 「ごちそうさま」

 夕食が終わり、妙子も雄一も食器を台所に運んだ。2人とも、いつもと変わらぬ献立とはいえ、完食していた。楽しみもない中、食べることは大きな楽しみであった。完食しないはずがないのである。

 台所で食器を洗うにも、石鹸が必要である。しかし、ここでは、石鹸の心配は然程なかった。食用油も不足しているので、油汚れがないのである。静江が台所仕事をしている間に、妙子と雄一はそれぞれ、部屋に戻った。

 

3-3 独り言

 自室に戻った妙子は、今日1日のことを振り返っていた。

 「今日も、軍事教練、暑い中、厳しかったな」

 軍事教練は、学校生活の中で定められた逃れられない科目である。日常のことではあるものの、かくも暑い中で教練となると、疲れもひどくなる。まあ、橋田の体罰がなかっただけ、マシな日だったとも言えるものの、この状況がいつ果てるかも分からない現実があった。

 鬼畜米英‐妙子等にとって、今日、昼食の際に涼子が言ったように、見えぬ敵でもあった。しかし、鬼畜米英が存在している限り、軍事の担い手は、妙子等、若い世代にかかっているのである。そうである以上、この状況は、逃れられない強制参加の性質だった。又、近く、軍事教練は、竹槍のみならず、38式歩兵銃を使ったものをも取り入れるらしい、という噂を耳にしたことがある。

 38式歩兵銃‐皇軍の主力兵器であるこの銃は、神聖なものであるらしかった。橋田が、武勇伝ぶって、そのことを話していたことがあった。妙子にとっては、世代間格差もあり、今一つ、認識が薄い。

 しかし、以前、静江から、38銃を僅かに、粗末に扱っただけで、軍内で厳しい制裁が加えられた、という話を伝え聞いたことがある。橋田の形相を思い浮かべてみると、何となく、分からないでもなかった。

 妙子は、学校のことを色々と考えているうちに、疲れて来た。自分の人生が何だかわからぬが、何となく、目に見えない歯車の下で、半ば、自分の意志とは無関係に自分自身も回されているのである。マスコミも、そうした生活が世界情勢と直結していることを伝えていた。

 新聞には、

 「鬼畜米英、我が大東亜共栄圏を脅かす」

 等の見出しが並び、社説では、

 「我が聖戦の要は、若き世代にあり」

 等と語っているのである。そう言えば、妙子は今日の朝刊に目を通していなかった。

 「お母さん、今日の新聞、何処?ちゃぶ台の上にないんだけど」

 「雄一が自分の部屋の中に持ち込んでいるんじゃない」

 妙子が雄一の部屋を開けてみると、静江が言う通り、雄一が自室に新聞を持ち込み、何かの記事に熱心に目を通していた。

 「雄一、あんた、何の記事に目を通しているの?」

 「世界情勢」

 雄一も14歳になり、然程、成績が良いのでもないが、世界情勢に興味が出て来ているようであった。妙子は言った。

 「あんた、新聞はみんなのものなのよ。ちゃぶ台から、勝手に持ち出さないで」

 「俺は集中して読みたいんだ」

 「読み終わったら、さっさとちゃぶ台の上に戻しといてよ」

 妙子は、ふすまをぴしゃりと占めた。

 雄一にとっても、学校生活は楽しいものではないのである。妙子同様、軍事教練があるし、今日のように人間関係が荒んでしまうこともあるであろう。自室で新聞を読む、というのは、自分の世界に入ることで、嫌な現実から逃がれる方法でもあった。国内は様々に物資不足で、若者が喜びそうな物もあまりないので、新聞を読むことが楽しみの一つでもあった。

 自室に戻った妙子は、暫くして、居間に再度、出てみた。雄一は新聞を読み終えたらしく、やや乱雑に折りたたまれた朝刊がそこにあった。妙子は、先程は、雄一に、家族の共有財産たる新聞を自室に持ち込むな、と言ったくせに、自身も新聞を自室に持ち込み、記事に目を通し始めた。


3-4 新聞記事

 その日の新聞は、昭和28年に逝去したスターリンに代わり、ソ連首相となったフルシチョフのソ連と帝国政府の交渉についての記事が載っていた。雄一も、この記事を見たのだろうが、見て、何を思ったろう。学校では、一つの歯車として、うだつのあがらぬ彼なのかもしれぬが、国際情勢を自身で分析、研究することで、自室の中でだけは、自分自身を主人公、つまり、自分の意志で自身を動かせる存在になっているのかもしれなかった。妙子も似たような存在であるから、新聞を自室に持ち込んだのだ。

 新聞には、「満蒙は日本の生命線」と主張する記事が相変わらず載っていた。妙子が物心つく頃から、常に言われて来たことで、別に何らの新鮮味のある記事でもなくなっていた。特に、今日の新聞も、何らかの新鮮味のあるものでもなかった。

 ただ、妙子にとっては、小学校低学年の頃まで、一緒に遊んでいた本田美子のことが気になった。美子は、妙子が幼かった頃、一家で満州国に移住したのである。別れる時、又いつか一緒に遊ぼうね、と約束した相手だったが、それから全く会っていない。

 「美ちゃん、今頃、どうしているかな」

 新聞記事に「満蒙」という言葉が盛んに出るので、ふとそんなことを思った。満州国には広大な土地があり、豊かな生活が保障されている、とは聞いていたものの、それは、マスコミの報道や噂の域を出るものでもなく、妙子にとっては別世界の話である。

 今日は、土曜日である。夕方まで、今日は学校にいたが、しかし、明日は日曜日で休日である。とりあえずは、ゆっくりできそうである。電力の供給が悪く、何時、又、扇風機が止まるかわからないものの、とにかくも妙子は眠りについた。

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