ディアナの晩酌
「へぇ。様子がおかしいとは思ってたけど、そんな事があったのか。それで本は結局?」
「閣下にお渡ししたわ。毒が仕込んであるような匂いは無いと鼠の長が保証したから。内容もわたくしの目にはあの男が話した通りに見えましたし」
夜である。ディアナは何時もどおり夫のアルベルトと、一日の出来事をさかなに薄い葡萄酒を飲んでいた。
ディアナにとって最も心休まるはずの時間。それが今日はどうしても愚痴交じりな口調になっていると気づき、ため息を吐く。
「何者か本当に分からない男なの。平民なはずだけど会話するだけで疲れたわ。ルティシア様が興味を抱かれたのが唯一の救いよ」
妻の言葉にアルベルトは感心した風に、
「君が誰かをそんな風に言うのを初めて聞いた気がするよ。この大陸の名ある人殆どと会ってる君が、会った事の無い男か……興味が湧いてきたな」
内心の軽い苛立ちにより、机をゆっくり叩いていたディアナの指が止まった。
「―――今まで似たような人も、居た事は居たわよ」
アルベルトは妻の常に無い様子に驚き、目線で誰かを尋ねる。
「レギオン・リグ・アスカン前公爵。それと―――ヨアヒム・リグ・クローゼ陛下。受けた感触だけだけども」
アルベルトは受けた衝撃で開いた口を何とか閉じて、
「平民が、今も皆が畏れるあのお二方に? 幾ら何でもそれは―――」
「当然あのお二方のように偉大だとは言わないわよ。陛下は言うまでもないし、公爵もわたくしは嫌いだったけど、敬意を払って当然の方。比べられるわけ無いじゃない。
でも、あのお二人のお言葉を聞くと何時も、全く理解できない理屈でお考えだと感じた。旦那様も覚えがあるでしょう? それがとても似ていたの」
ディアナが話すだけで疲れたというように、酒を飲む。アルベルトはそれを見て苦笑しつつ、
「恥ずかしくも、どうやら嫉妬を感じているみたいだ。年下の、平民に。
知っての通り自分はごく詰まらない男だからね。ほんの一時話すだけで尊敬する妻にそこまで言わせるとは―――羨ましいよ」
ディアナが目を見開く。そして手で口を隠しからかいを乗せた声で、
「あら、栄えある公爵家護衛騎士団副団長様からそんなお言葉を頂くなんて。わたくしもまだ捨てたものではなかったのかしら。もうお見限りのようですし、わたくしの方から若い側室なり、娼館通いをお勧めすべきかと考えていたくらいですのに」
アルベルトは両手を上げて降参を示しつつ、
「此処しばらくはお互い忙しくて疲れていただろ。何より―――言うべきか迷うな。つまり、君を亡くすのが怖いんだ。本当は、まだ子が欲しい。君との子が。でも、ミキッヒの奥さんみたいになったらと思うと」
真剣な目に胸を突かれたように感じ、鼓動が速くなる。
確かにもう子供を産むのは怖い。しかし子供もおおよそ手を離れ寂しく、もう一人欲しくもあった。
何より夫が自分を今も強く求めてくれている。ならばこの喜びに身を任せようとディアナは心定めて席を立ち、アルベルトの手を取って、
扉を叩く音が響いた。
お互いが、お互いの顔に同じ苛立ちを見たように感じた。そして一瞬無視できないか考えた事も。
しかし自分たちの誠実な家臣が、突然主君へ如何に効果的な嫌がらせをするか挑戦しだす訳もない。
ため息も同時だったのに、二人で慰められつつ苦笑し、
「ルティシア閣下からかしら?」
「はい。奥様。誠に申し訳」「分かってるわ。わたくしが遅れればあの方が寝るのもまた遅れてしまうもの。有難う。邸宅へ赴けば良いだけよね?」
「その通りでございます。鳥を今玄関に準備しております」
足音が去るのと同時にディアナは立ち、繋いでいた手を離して腰に手をやり改めて溜息をつく。
アルベルトはそれを見て笑いながら、
「やはり昼の男の話かな。こうも妻を操られては、いよいよ嫉妬を覚えるべきかもしれない」
ディアナは夫の詰まらない冗談に心がより落ち着くのを感じて、
「必要ないわ旦那様。明日の夜まで心変わりなさらなければ、わたくしの夫は一人よ」
******
『であるそうな。全く身の程知らずが。十年以上前ならともかくあのような年増番い殿に全く相応しくないわ。しかも人如きの間でどれだけ蒙昧に振舞った奴か知らぬが、番い殿を下である等と。盲いているのが人と分かってはいても苛立つのぅ」
『いや、今でもぎりぎり元美人と言っちゃ駄目なくらいモテそうだったし。確かに子供を産むのは運要素高め年齢だけど。あの竜角王と腹黒公爵に似てると言われたのも、私としてはめちゃ光栄で鼻の下伸びそうな喜びなんですが』
『黙るがよい。
『はい―――すみま』『謝るでない。うーぬぅ……よし。まぐわおう。そうすれば気も晴れる』
『個人で取った部屋でいたしたら怒られるつーに』
******
入室を許可されディアナが入ると、主ルティシア・リグ・バルトニカ公爵は書類に判をつくのを止め、笑顔で迎えてくれた。
一瞬ディアナはどれだけ良い時を邪魔されたか嫌味を言いそうになるが、何とか踏みとどまる。
主が子の事で酷く悩んでいるのは近い家臣皆が察する所であり、ディアナは口に出した者を強く叱責している。立場上もう子供を産む危険を冒すのも難しく、それも悩みの一つなのに自分の子に関連して話をしようとは。
ディアナは大いに内省した。
主にも健康に育っている男子がいる。悪くもない。自身の子であれば、将来が楽しみだと誰もが言ってくれただろう。しかし二大公爵家の長となるには―――、
「ゆっくりしていただろうにすまないとは考えたのだディアナ。しかしお互いの明日を考えると今夜中に話した方が良いと思えて」
主君の声で彷徨っていた思考が戻り、
「いいえ。何時も申していますように、良い時にお呼び頂いた方が結局は楽だと存じております。それで、お話しはその本についてでしょうか?」
ルティシアの机には昼受け取った本があった。しおりの場所からして随分と読んでいる。
「その通り。しかし不思議そうだな。この本には大した価値が無いと?」
悪戯げな何時もの笑みからかなりの上機嫌を読み取れるのにディアナは驚きつつ、
「ご様子を伺う限り、直接の面談をお望みのようですが―――。其処までの価値はわたくしには分かりません。本人の言う通り清書し、更に公爵家の図書館幾つかに安置して、ついでに十分な金銭を与えれば十二分と思われます」
ディアナにはこれでも厚遇が過ぎるように思える。公爵家の図書館に本を置かれたという経歴は、平民にとって並外れた価値を持つ。本人の年齢を加味すれば何処かの領主に仕官さえ適うかもしれない。
「確かにそんな所が普通であろう。しかし、この本はそういった軽い傑作とは違う。情報の選別基準、正確さ、更には大陸全てを網羅する執念か何か。全てが興味深く、直接尋ねたい事だらけでな。明日会うと決めた。ただ少し懸念もある。なんだか分かるか?」
ディアナは手を口に当て数瞬考え、
「そのような大した本となると、三十になるかならないかの平民が書いたとは益々思えません。作者ではなく詐欺師と面談したのでは公爵家の恥となります」
ルティシアは我が意を得たりと笑顔で、
「よろしい。さりとて判別は容易では無いが、まず適当な項を写させ文字を見、次にこれだ」
そう言ってルティシアが開いた所には絵が描いてあった。地方の珍しい服装をした女で、服装が分かりやすいよう幾つもの視点から描いてある。
「これは―――仕事になりそうな腕前ですね。承知しました。あの男が絵まで描けるとは思えません。簡単に描かせてみましょう」
「それだけではない。この絵は世の主流全てと違う技法で描かれておる―――のだけど、まぁよいか。絵描きが別にいる所から問い詰め、詐欺師と分かっても酷く扱ってはならぬ。品を持ってきてくれた商人と考えれば良いのだ。勿論それも作者の状態次第であるが。他に何か質問は?」
本音を言えば呼ぶ事自体を考え直して欲しかったが、言っても無駄だと知っているディアナはただ何時も通り静かに確認する。
「本の制作に携わっていた場合、明日の何鐘頃謁見の間に連れてくればよろしいでしょうか」
******
『決まった。明日の五の鐘で此処に来る。……如何した。なんぞ考える事があるのか』
『どうでも良い話だよ。ついさっきまで本を保存してくれるのかどうか不快な落ち着かない気分だったのに、大丈夫だと知ると日本に居た頃聞いた、自分の作品を商人に持ち込んで待つ気分をもう少し味わいたかったなと思ってしまってね。何とも自分勝手だと反省してたんだ』
『何を苛立つかと思わば―――。
『人間どうしでも何が面白いかしょっちゅうさっぱりになるのに、人外から保証されても全然安心出来ないってば。兎に角これでゆっくり眠れるよ』
『うむ。今日は
『え”。それもしかして―――無茶しないでよ頼むから』
『分かっておる。全く、今まで無茶などしてなかろうに。番い殿の名が広まっていないのがその証拠じゃぞ』
『まぁ、精神病らしき貴族を事故死っぽく見せたくらいは、大体皆幸せになったし無茶とは言わないと私も思うけど。でも明日会うのはこの大陸で二番目に高位の人物なんだから。特に気を付けて』
『気を付けるとも。まずは本の保全じゃ。さて寝るがよろしい。
『分かった。有難うノクヤ』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます