ノクヤの肩書
矢を受け止めた手を見てノクヤの様子が変わった。目を見開き、
「皮が、剥けておる。そ、それに血も。―――かかる恐ろしさのあることよ! 見ておくれ番い殿!」
ヨナスは怪我をさせたかと焦って走り寄り見る。が、指のささくれの方が痛そうだった。
安堵を声ににじませ、
「あんな受け止め方でその程度って。確かにノクヤ様がこんなに丈夫とは思ってませんでした。すみません。これなら一人で軍を相手にするみたいな真似をしなければ、大怪我しないで済みそうだ」
ヨナスは感心して言うが、聞いたノクヤは不満も露わに、
「否! 全く話が違うわ。
そう言ってノクヤは崖の岩に向かって手を伸ばし、平手だった指を鷲の爪のような形に。
唐突に非常に硬い物のぶつかったような音が鳴る。
その音にヨナスが驚く間もなく、ノクヤの体がブレたと見えた次の瞬間には、崖の前にいた。手で岩に肘まで埋め込んでいた。
―――知らなかった。この崖豆腐だったんだ。て、うんな訳あるかい。
小学校に入ったばかりの頃、漫画の真似をして砂場でかなり力を入れて殴り、漫画のように手は埋まらないし拳を擦りむいて痛いしで、とても悲しかったのを思い出す。
にしても何をしてるのかとヨナスが思った所でノクヤが岩を引っ張り出した。
人の体ほどに大きい岩だ。
力む様子も見せないのにヨナスが目を疑う間もなく、ノクヤはそのままボール同然の扱いで真上に放り投げる。
洒落にならない危険な真似を見て咄嗟に走り寄ろうとし、ヨナスは何とか踏みとどまる。巻き込まれるだけで何も出来ないに決まっていた。
ノクヤがそんなヨナスを見て微笑した。
次の瞬間岩がノクヤの伸ばした腕に当たり、転がり落ちて寒気のする重い音を立て、止まった。
「―――は? え?」
混乱したままヨナスが近寄ると、ノクヤが見ろと腕を伸ばして来たので観察する。打ち身した様子さえ無い。
どんな生物だろうが不可能と確信できる真似をした生き物は、誇るどころか心から下らぬといった感じで、
「お分かりか。少しでも気を張って体に力を入れていれば、人にとって
後は―――この山。腐った沼鱗と
脳が言葉を食べ損なった。しかしもう一度記憶をたどってじっくり考え、
「こんなカルデラ地形になったのが噴火の所為ではなく、ノクヤ様と誰かが戦った結果だと? てか前から聞こうと思っていたのですが、腐った沼鱗という方はどんな方なのですか?」
「
知る訳ねーよ誰も知らねーよ。とヨナスは首を振る。
「ふむぅ? あの愚か者は千と幾百年かは忘れたが以前、
前言撤回。
知っていた。この大陸に暮らしていて知らない奴は死んだ方が良い話だった。
「そ、それ、西の端で一番大きいとなるとジョウ皇国で、千年前に教えたって―――ならノクヤ様が戦ったのは神竜猊下で、かの方は怪魔の王である巨大な鳥と戦いこの島を守ったと伝わっているから、ノクヤ様がその怪魔の王になるような―――」
九割ねつ造と確信していた神話である。怯えか驚きか感動か自分でも良く分からない感情にヨナスは震える。
一方ノクヤは馬鹿馬鹿しいと感じてるのが雄弁な表情で、
「神竜とは酷すぎる。アレが教えたのはあちこちで人がやっていた事でしかないのに。若かったとは言えあの腐り苔鱗は……いや、流石に己では言わぬか? まぁ番い殿のお考え通りじゃろうて。しかし
嘘でしょ。と、ヨナスは言いたい。だがノクヤの態度には疑念の覚えようがなかった。
ヨナスもノクヤが神話の不死鳥くらいは人知を超えた生物だと思ってはいたのだ。しかし実際は大怪獣並み。何かの勘違いである可能性も限りなく低い。目の前で証明された事だけでも、数万の軍相手に一人で殺しつくせる。
思考が乱れそうになる。が、
―――いや、不死鳥が怪獣になっても大差ない。奥さんの破壊力がより高いのは良い事だ。喧嘩になった時即死しやすくなる。
そう考え引き攣った顔のまま冷静さを取り戻そうと努力するヨナスにノクヤは、
「いや、醜くき奴の話より番い殿の矢よ。お持ちの欠片が番い殿の意を汲んで
「え? ああ、はい、全く感じませんでした、けど、私の第六感に見えてるのは深奥なんて御大層なものだったんですか? あと意を汲んでるは無いんじゃないかなぁ。今まで矢でも何でも異常に何かを壊したり傷つけた事はありません」
ノクヤはしばらく絶句し、
「―――あのな、番い殿が敵意があると言うのに
ヨナスとしても頷ける話だった。水を大量に出せるのもその欠片のお陰と考えれば説明がつく。しかし感想としては、
―――凄くどうでも良い。
であった。つい先日ノクヤに吊り上げられた時は死力を振り絞って抵抗している。あれで何も起こせないのなら無いと考えるべきだと思う。
使うべきは枯れた技術。頼れるのは若い美人ではなく皺のあるおじさんおばさんなのだ。
それよりも今遥かに気になる事がヨナスにはある。
「ノクヤ様、前から考えていたのですが、そんな欠片を持った私と貴方が親しくなれたのは、あの方の意志という事はないでしょうか。それくらい起こり得ない話に思えるんです。しかしそうだとしても目的は全く想像つかないのですが……。ノクヤ様は、どう思われますか?」
ノクヤは不思議そうに首を捻った後、
「問われて考えはしたが、やはり意味のある疑問と思えぬ。尋ねられない相手の意志など考えても致し方無き話。どう悩もうが気ままにに動くのと同じになろうぞ。知らずに逆らっての罰を恐れておいでなのは分かるが、番い殿のお話しをを聞く分には理屈の通ったお方であるし、罰の前に言うてくれる。そう考えるしかあるまい?」
ヨナスは空を見上げる。全く反論が見つからなかった。
日本に居た頃からこうだったなと思い出し、自嘲の笑みが浮かぶ。
どうしようもない事を無駄に考えて、勝手にストレスを受け時間を浪費するのだ。
あの頃から自分が深く関係してる事だけを気に掛けるべきだと思ってはいた。なのに思い出せば頻繁に、同じような賢さの無い無駄な考えで悩んでいる。馬鹿は死んでも治らないの通りだった。
―――もっと大事な事実を考えないと。……理解出来るか不安がある相手とはいえ、とても信頼出来る相方が、この大陸で誰も抗えない力を持っている。という事を。
おかしくもないのに笑えてしまう話だった。だが、事実だろう。聖書のモーセの如く弁えなくなって見捨てられるのは怖いが、彼女なら何かする時事前に相談していればまず大丈夫に思えた。
ヨナスは客観性を持とうと考え続ける。が、穴は見つからない。
どう考えようと現在この大陸で最も力を持つ人間は、ジョウ皇国の皇王でも、クローゼ王国の竜角王ヨアヒム陛下でもなく、この辺境の一狩人。ヨナスであるという結論にしかならない。
そう自覚した時、ヨナスの脳裏に今でも恩を感じている二つの顔が映った。片方はこちらへ懇願しており、もう片方は美しく泣いていた。
とても鮮明だった。当然だ。今でも折に触れ、あの絵を見るし何度も描き直している。
―――未練だな。醜い。後悔を無かった事にしたいとは誰でも思う。だが、出来はしない。出来たと思えたら、それはその時から何の成長もしなかっただけ。
彼女に願えば、可能だろう。何処の誰か分からなくても子爵を脅して聞きだせばいい。そして彼女の背に乗って飛んでいき、あの二人の不幸を全て彼女に皆殺しにしてもらうのだ。してくれる可能性は十分ある。彼女にとって正に片手間で済む話なのだから。
実に愚か極まる願望だった。
今も親子が不幸だと何故分かる? 二人を幸福にしたいというだけで、何人の真っ当な人間が不幸になるのかも分からない。他にも多くの問題が思いつく。
親切はとても難しいのだ。事情を鑑み、客観的に評価しなければならない。そもそも本人たちが心の奥底で何を望んでいるのかが分かり難い。
善意で行動すれば全て都合の良いように事が回り、良い事だけが起こるのは物語でだけ起こる事象。
現実は善意で行動したと主張する人間にとってさえ、後悔が残るもの。十年近く前の知り合いへ突然おしかけ、あの時出来なかった親切をしようなど精神病患者の発想だった。
―――旅の途中持ってる似顔絵で、さりげなく探すくらいはしてもいいか。そして見つければこっそり幸せそうか様子を伺うくらいは。それも、金持ちになった途端増える親戚と思われそうな話だけど。……そもそも見つからないだろうな。
大きく息を吐き、気分を改める。そして、
「ならば気ままに生きますか。ノクヤ様、今までお話ししてませんでしたが、私はこの大陸中を旅しようと思っています。面白い物を見たいのと、何より死前消費し壊すだけだった歴史と文化の為、歴史資料を書き残したいんです。
だから私は何処でも生きていけそうな猟師を選び、後数年かけて準備するつもりでした。しかしノクヤ様から外にも大陸があると聞き、今では連れて行っていただけるならそちらの本も書きたくなっていまして。
なので少しでも時間に余裕を持つため、ノクヤ様がここ数か月のように私を支え、強盗や獣等の危険から守ってくださるなら近いうちの出発を考えたいのですが、いかがでしょうか?」
反応は劇的だった。ノクヤは輝く笑みで、
「げにも素晴らしき話じゃ! いかがも何も
よし、何処をお望みか? この島程度なら陽が落ちるまでに何処へでも行けるゆえ、悩まず申されよ!
己だけで完結してる方は行動が速くて素晴らしい。とヨナスは羨ましさで苦笑し、
「まだ考えるだけですよ。未成年の旅は厄介ごとを愚かしいまでに増やします。ノクヤ様の助けで何でも処理出来るとしても、やはり我慢をお願いする時もあるでしょう。だから危険を増やしてまで早く始めても意味がないのでは、と悩んでまして」
ノクヤが一足でヨナスの前に飛ぶ。そのまま額を額に当て、
「
読み取られると承知の上であるヨナスがわざとらしく慇懃に頭を下げようとし、心底面倒そうなノクヤに頭を掴んで止められ愛想笑いをする。
「吾は今まで従順であったはず。今後も同じぞ。何時出るかも当然番い殿の意志に従うのみじゃが、今も先も利と損は霧の中なれば、先ほどのように悩もうと意味無く思えるの」
またもやごもっともな話である。両方の選択がヨナスにとって一長一短あり、しかも判断が難しかった。
ふんむ。と鼻を両手で擦り―――占いで決める事にした。
平べったい石を拾い、適当に決めた表が出れば早く出る。裏なら最短でも成人までは留まると決める。
真上に放り投げ、出来るだけ運任せになるよう手で受け止めた。
表。
「決まりました。まだ考えますが、二週間後にはこの領地を出ようと思います。頼りにしますよノクヤ様」
ノクヤが両手を翼のように広げる。顔には楽しくて溜まらないといった笑み。
「幾らでも頼るが良い! 楽しみじゃな番い殿!!」
夫の趣味に付き合わされる妻とはとても思えない様子のノクヤに、ヨナスの心に残っていた不安が消える。
考えていたよりずっと楽しい旅になる確信に、鼓動が速くなるのを感じた。
「―――はい。楽しんでいきましょう」
そして二十年を越える時が流れた。
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