男は備えていた。しかし―――。

「そこの荷車、止まれぇ!」


 そう呼びかけて、走鳥に乗る騎士が弓への備えとして距離を取りつつ荷車の前に出る。荷車の後ろには騎士の配下二人。そのまた後ろには人生最大の緊張をしながらも長槍や網を構えた徒歩のエルクス院長と、その部下三人。ヨナスはというと更に後ろで荷車と一緒に置いてけぼりだ。


 声を掛けた御者の男が少し怯えたのを見て、騎士に虚言で踊らされたのかという疑念が浮かぶ。だが確かに深夜こんな場所に領外の商人が居るのは怪しく、荷の検査は常識的な職務の範囲と気を引き締め直し、

「商人! 荷を改める。降りてこちらへ来い」


 騎士の言葉に男は当然の狼狽をして、

「え、ど、どうしてですか騎士様! 荷なら関所で改められております」


「理由などお前が知る必要は無い。早くせよ。力づくでも良いのだぞ!」


「わ、分かりました。お言葉の通りにしますから、どうか手荒な真似はお許しください。今免状を持ってそちらへ参りますので」


「免状? 何のだ」


「それは見て頂いた方が。はい、こちらで御座います」


 そう言って御者席より降りて男が差し出したのは、非常に質の良い紙の巻物だった。

 内容を確かめる前から騎士は声を掛けたのを後悔した。出来れば受け取らず済ませたいとの思いが浮かぶ。

 しかしそうも行かない。騎士は諦めの溜息を苦労して抑え、手に取り開いて、

「この者、我が信任を預けし者也。―――アーネスト・リグ・ボルチカ伯爵っ!?」


 文章としてはたった一行。他は免状の書かれた日付、場所、担当した人物、商人の名前のみの簡素な物。だが騎士にとっては予想を超えて最悪な内容であった。額にぬるい汗を感じ、間違えて免状に落とさないよう急いで体から離す。


―――主君の親貴族による免状! いや、間違った事は何もしていない。あの方が攫われたとなれば一大事。子爵閣下の元へ確認に向かわせた部下はまだ戻っていないが、実際部下が夜中にもかかわらず車の音を聞いていたのだから、念のため先に動くのは正しいはずだ。自分は職務通りに動いたのだ。

 しかし、免状を出したこの男にはもう不審が在ってはいけない。


「騎士様、その免状通り私は怪しい者では御座いません。お仕事の重要さはよく存じておりますが、貴き方の私物を外で広げたとなれば私はお叱りを受けます。どうか此処は一つ、特別な気遣いを頂ければ、と。深部あって森に恵み在りとも申しますし」


 こちらの様子を見て、ここぞとばかりに畳みかけてくる男に騎士は不快感を感じる。

 とは言え内容は騎士にとって渡りに船。

 一応配下達と、孤児院の者に口を出す気配が無いのを確認する。

 最後にこの領地唯一の学院の院長を見ると、頷いてこちらの意向に沿う意思を示していた。

 心の中で舌打ちを一つ。今回のこれは幾ら何でも黙っていられない。それでも本当にあの方が居なくなっていれば良しとしよう。だがそうでなかった時には―――。


 どのように謝らせるべきか想像し、それで何とか心を落ち着かせて、

「そうだな。乱暴に調べようとした事、謝罪しよう。こちらにも事情があるのだ。ああ、勿論持ち物を調べたりなどは」

 感情は別にして場の全員が安心した、その時。

 子供の声が事態を蹴り砕いた。


「女の子が―――ミーアが樽の中に入ってる!」


 誰も子供の声の意味を咄嗟には把握出来ない。色々な疑問が認識されずそれぞれの頭に浮かぶ。

 どうやってあんな所に。荷車と一緒に待っていたのでは?


 一瞬も待っていなかった。大人たちが全員背を向けて直ぐ、車を降り低い子供の身長を活かして草で身を隠し、場面を見計らい、最後は匍匐前進で誰にも知られず男の荷車に乗り込んでいた。

 そして脳裏に浮かぶ濃い緑色の点を頼りに幾つもある樽の中から、目的の樽を特定。樽の蓋が釘で止められていれば蓋を割ろうと短剣を持ってきていたのに、重しが乗せられているだけだったので拍子抜けしつつミーアを発見していた。


―――後は大人たちに任せよう。誘拐犯が怒ってこちらへ来たら車の下に潜り込みでもして逃げる。ただその場合ミーアを人質に取られると不味いので、何とかして樽から出して縄から解かないと。

 うっ覗き込んでる体制からじゃ無理だな。短剣で縄を斬るか。ミーアの肌を傷つけないようにしないと。

 にしても思ったより上手く行ったなぁ。


 さて、その上手くやったヨナスは神ではない。

 当然彼が半日で立てた計画には穴があったし、夜中の誘拐への対処ともなると更に穴があった。

 そして今、致命的という言葉通りの穴が一つ。


 この国を生きる成人した人間にヨナスの判断を教えた場合、誰もが心からの疑問を感じてこう尋ねるはずだ。

 どうして貴人を誘拐するような奴の邪魔をして、距離があれば安全と思ったのか? と。

 何のことはない。賢人気取りのヨナスの考えも平和で膿んでいたのだ。


 事態の急展開に最速の反応をしたのは、商人であると自称していた男である。

 ヨナスの声を聞いた瞬間はまだ平静だった。

 あの子供を隠したのと同じ樽は幾つも在る。自分が離れたのは短時間で、幾ら目の前の騎士たちに注意を集中していても、探し回るような音を聞き逃す訳はない。子供が嘘を吐いてるだけ。それが理の当然だ。

 が、半身で振り向いた時目に映ったのは、正に隠した樽の上に覆いかぶさっている子供の姿。


 混乱、怒り、絶望。

 男自身にも把握できない感情は、彼の理性へ届く前に反射と同じ作用で行動の動力源となる。

 後ろに残していた右足を前へ。同時に右手で腰にある、旅をする者なら誰でも持つ作業用の短剣に偽装した投擲用短剣を抜き、右足から起こった捻られた体が元に戻る力を殺さず、肩から肘へ。そして手首から短剣に通して投擲。

 狙いは男がその生涯で万を越えて繰り返した鍛錬により、こちらへ向けている頭の横、肩を刺し貫いて心臓と定められた。


 夜。黒く塗られた刀身。

 本人さえほぼ無意識の内になげられたソレは、例え殺気という物がこの世にあったとしても、感じられるのは短剣の到達と同時だっただろう。

 男の人生で最高の、人の技として至高と言っていい投擲。この大陸で最も戦いに長けた人であろうと傷つける可能性を十分に秘めた物。

 当然身体的には年齢相応でしかなく、しかも男の方を見てもいないヨナスに避けられる道理はない。


 が、ヨナスに与えられた何かは男が短剣を抜くより速く。衝動が産まれた瞬間に感知し、ヨナスにとって感じていた男の色を濃いオレンジ色から鮮やかな赤へ変化させた。

 初めて見る色。けれども今もミーアの位置を教えてくれたこの能力は、既に五感の一つでありヨナスに迷いを与えない。この色は危ない。

 体も脊髄反射同然の動きで応えた。樽を覗き込んでいた体を仰け反らせ、その力を利用し跳ねて樽の陰に隠れようとする。


 だから男が短剣を手から離す瞬間目に映ったのは、体が命中と判断した短剣を、人外の動きと反応で樽の陰に隠れ、避け終わっている子供の影だった。

 避けた? 子供が? 確信と現実の大きすぎる差に男の体をおぞ気が這いまわる。何かこの世に在らざるべき事が起こったような感触。

 

 この時、他の大人たちに短剣は見えておらず、後になっても男が短剣を外したと思う事になる。

 此処まで全てが許容範囲。後は男から逃げ切るだけ。それも可能だろう。

 完全なる勝利。


 だがこの時点では神のみぞ知る事実がある。

 今、人生で初めて見た赤い色に怯えて取った全力の行動は、ヨナスのした最大の失敗だった。

 ヨナスは高貴な身分であるはずのミーアを誘拐した男は、必ず殺されると考えていた。

 しかし男がラウメン子爵へ誰に雇われ何を命じられたかを喋れば。子爵は怯え、男を開放する。

 そして男が雇い主の元へ帰り全てを話たなら。


 ミーアを助け邪魔をした者。手練れが強く注意を訴える孤児。少しでも知恵があれば念のため処理するのは当然であり、ヨナスに逃れる術は無い。必死である。

 しかし、


 投てきに使われなかった手が振られる。魔術のようにやはり黒塗りされた短剣が手の中にあらわれた。そのまま止まらず、躊躇なく。男へ与えられた訓練と命令に沿って刃がはしる。自分の首へ。


 血が噴水となった。


 大人たちは誰一人事態に付いていけず硬直している。

 ヨナスは荷台の下で地に這ったまま突然男の反応が消えたのに驚き一瞬で動けるよう構え、猿轡をされたミーアのくぐもった助けを求める声だけが当たりに響く。


 男の最後の思考は、『アレは本当に人だったのか?』だった。

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