第3話 Start Line(3)

「えっ! 慎吾の上司の人が?」



美咲の母は桃を抱っこしてやって来て思わず驚いて本人の前で言ってしまった。



「ごぶさたしています。 突然にすみません。 あの、もう4月からぼくは厳密に言えば八神の上司やなくなったんですけれども、」


志藤は気まずそうに言った。



「あらあら。 すみませんねえ~。 美咲のことを気にしていらしてくださったんですか?」


母はソファに腰掛けた。



「八神とケンカして実家に帰っちゃったとか聞いて。 心配になって・・」



「この子わがままなんで。 カーっとなって飛び出してきたみたいなんですけど。」




八神と美咲の娘・桃は生まれて半年になり、本当にかわいくなってきた。


志藤のほうに一生懸命に手を出す。



「こっち来るかあ?」


ニッコリ笑って手を出すと、桃は両手を出して抱っこをせがんだ。



「あらあら、桃ったら。 ダメよ。」


美咲の母は言ったが、



「いえいえ。 もー。 慣れてますから。」


志藤は慣れた手つきで抱っこをした。



「最近よだれがすごいから。」


と、美咲もハンカチを出して志藤の服が汚れないか気にしたが、



「ああ、もう。 ヨダレなんか平気やし、」


志藤は笑った。




「ほんま。 八神にソックリやな~。 かわいいなァ・・って認めるのも悔しいけど。」


そう言われて、美咲はまた落ち込んでしまった。



「慎吾は。 いつもあたしや桃よりも真尋さんなんです。 今度のことだってあたしに相談もしないで、『行きたいんだけど。』って。 桃にだってそんなに長い間会えなくなるってゆーのに。」


ハンカチをいじいじしながら言った。



「もし。 おれならな。 いくら真尋のことでも・・めっちゃ迷うと思う。」



「でしょう?? 迷って当然です!」


美咲は大きな声で言った。



「やっぱ、 子供はかわいいし。 毎日毎日どんどん成長していくのに、何ヶ月も顔見ないでいたらどうなっちゃうんやろって、思うし。 だけど、少なくとも八神はおれよりも仕事に対しては真面目やってことやろな。」




桃がよだれだらけの手で志藤のネクタイを握り締めたが、そんなことも全く気にせずに志藤は静かに言った。




「真面目・・?」



「八神はほんまに真尋のピアノが大好きで。 今までだってあいつに散々な目に遭わされても、それが嬉しいくらいやし。 うん。 仕事とかそんなんを超えてるって感じかなあ。 ほんまにエライなっていつも感心する。」



「・・・」


美咲は黙りこくってしまった。



「だから。 慎吾が海外に行っている間はウチにいなさいって言ったのに。」


美咲の母はため息をつきながら言う。



「でも・・」


美咲はうつむいた。



「そうすれば、慎吾がいなくても安心だし。 桃の世話だってみんないるし。」




すると


美咲はいきなり



「・・そうじゃないの!」



大きな声を出して、わっと泣き出した。



「美咲ちゃん、」


志藤は驚いて彼女の顔を覗き込む。



「さっ・・寂しいのに! 桃と二人でいるのが不安とかじゃなくて! 慎吾がそんなに長くいなくなっちゃうのが・・寂しいのに!!」


大粒の涙をぼろぼろとこぼした。



「は・・」


志藤は思わず口がぽかんと開いてしまった。



「やっと。 やっと・・慎吾と結婚できて。 子供も生まれて。 すんごい幸せに暮らしてたのに~。 あたしはそれだけで・・じゅうぶんだったのに・・・」



そう言って泣く美咲が


本当にかわいそうになってきた。




八神のことが子供のころから大好きで。


とうとう東京まで追いかけてきて。



山アリ谷アリだった道のりを経て


本当にようやくその望みを叶えることができたのに。




彼女の気持ちが痛いほど伝わってくる。



「しょうがないわねえ・・」


美咲の母も笑ってしまった。



「あんたがそんなにまでして一緒になりたかった慎吾は。 そうやって何でも一生懸命にのめりこんじゃう男でしょ? そういう慎吾が好きなんだから。 しょうがないじゃない。」


と、明るく言われて



「しょうがないじゃないよ~~!」


美咲は泣きながら母に抗議した。



笑っちゃ悪いと思いながら


美咲の素直さに志藤はふふっと口元を緩めてしまった。


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