第24話
音は置き去りにした。光すら追いつかなかった。現象だけが初めに起きた。
誰にも知覚することは出来ない。魔王がその身に保有する莫大な魔力を、たった一歩の加速にだけ費やしたのだから。
ナレアスがそれを知った時、既に魔王はその懐へ潜り込んでいる。そして右腕を突き出し、白の身体に風穴を開けた。
そうしてから、光が魔王に付き従う。影が足元へゆるりと近寄って来た。
風が吹く。猛烈な、全てを破壊し尽くす豪風が謁見の間を、魔王城を内側から撫でる。爆風よりも荒々しく、あらゆる物を木の葉より軽く吹き飛ばした。
漸く音が追い付く。破砕音が鳴り響き、城を粉微塵に引き裂いた。石造りの荘厳な建造物は、一瞬の内に爆裂し、瓦礫の山へと姿を変える。
トビーは玉座の陰に隠れてはいたが、無傷とは程遠い。魔王の言う通り玉座自体は無事に保っていたが、雪崩落ちる残骸に押し潰されたのだった。
それでも生きて、砂塵舞う元謁見の間で魔王の姿を探せるのは、身体に巻いていた『傷癒しの魔布』のお陰だ。最上級の治癒魔法が込められた魔布は、即死しない限りは使用者の命を守り続ける。
効果を全て使い果たし、ボロ布となった魔布を破り捨ててトビーは歩く。総身が弾け飛んだかと思う程の暴力の嵐だったが、癒しの力によって生き延びていた。
風魔法で辺りの砂煙を撒き散らす。甚大な被害となった魔王城は形すら残っていないが、方向感覚を頼りにトビーは進み、見つけた。
ナレアスの胴体に致命となる穴を開けた魔王の姿を。初めて見るナレアスの驚愕を。
白の体は人の形を保っているのが不思議な惨状だった。胸の半分以上は大きな穴が開いており、その中心には数多の罅が入った白濁した球体がある。
五体満足ではあるものの、その体の端はボロボロと朽ちるように崩れていた。砂の城が風に流されるように、粉末となって手足や顔が崩壊している。
明らかに存在を消失する寸前だ。神の構造を知らないトビーでも、一目でそうとしか思えない有様だった。
「ば、馬鹿か、神と戦うのに、一撃で全てを使い果たす、なんて」
ナレアスは言葉を漏らす。心底今の状況を理解できていない口調だった。
それを聞き、魔王は当然のように答える。
「言ったであろう、大切な時の一歩こそ真の魔法だと。我輩の力では到底、神へは届かん。ならばこそ、全てを賭けて進み続けるのみよ」
そう言う魔王だが、その身体は半死半生であった。
一歩分の勇気は全魔力を加速に変えるだけの魔法。衝突の際のダメージは度外視で、ただ最速で駆け抜ける事だけを考えている。
突き出した魔王の右腕は肉塊も同然だ。龍人族の鱗は完全に禿げ、屍族の力によって辛うじて形を保っているだけ。総身は光より速く動いた反動として、堅牢なはずの衣服は紙屑のように裂かれ、骨が全て砕けていた。
二つの足で立っている事すら奇跡といえる状態。治癒魔法を使おうにも、魔力を使い果たした魔王には無理な注文だった。
神と魔王は互いに死の寸前。
だが、元の持つ力の総量の問題だろう。ナレアスが先に動いた。
「はは、油断したかな。流石のボクも、これは危ない。魂核が壊されちゃ、再生するのも非常に大変だ。ギリギリ、壊れなかったけどね」
ナレアスはよろよろと後退り、虚空となった自身の胸を押さえる。その中心で浮く白濁した球体は、白の砂を零しながら徐々に形を崩れさせている。
舌打ちをするように魔王は呟く。
「一撃で仕留めるつもりだったのだがな。足らんか」
「いやぁ、惜しかったよ。けど残念、ボクは生きてる。少し時間は掛かるけど、復活するのは難しくない。努力賞くらいはあげようかな」
あは、あはは、とナレアスは笑う。砕けつつある顔で表情を歪ませる。
けれどそれは一瞬で収まり、今度は無表情で声を発した。
「やはり、君は危険だよ魔王。消そうと思ったのは間違いではなかった。ボクもそう力は残っていない。だが、君だけは今ここで確実に殺しておこう」
ナレアスは腕を持ち上げ、掌に力を収束させる。捩れた白の汚泥が集い、濁った光が灯る。根源が分からぬナニカは、獲物を求め蠢きだした。
鎌首を持ち上げるように汚泥は触手となり、幾重にも枝分かれして狙いを定める。目標は言うまでも無く、魔王であった。
「消えなよ、魔王」
つまらなさそうに、感情を込めていない平坦な声でナレアスが言う。
その声に従い、ナニカは飛び出した。
満身創痍の魔王には、それを回避する余力は無い。まともな身動きすら出来ぬ魔王は、ただその時を待つのみ。
濁流のようにナニカが迫る。触れた瞬間に存在を消し飛ばす力を持ったそれは、津波の如く魔王の全身を覆い尽くそうとし、
瞬間、横から飛び出してきた緑の陰が魔王を蹴飛ばし、ナニカは空を包むに終えた。
蹴り飛ばされた勢いによって地面を転がる魔王。一方で、蹴り飛ばした側は見事な着地を決めて話しかけた。
「魔王様、危なかったゴフな!」
ニカッと笑って言うトビー。仰向けに転がった魔王はそれを見て、ふと笑った。
「また助けられたな、トビー。すまぬ、神は我輩が終わらせるつもりだったのだが」
「問題ないゴフ! どう見たってアイツは死に掛けゴフな!」
「……そこを退け、矮小な子鬼。塵に構う暇は無いんだ」
ナレアスが小さく一歩進み、半壊した顔でトビーを睨む。元は比喩も出来ぬ美貌だったからこそ、壊れかけの人形のようにも見える。
トビーはそんなナレアスの前に立ち塞がり、堂々と告げる。
「オレ、お前を自分で倒そうなんて思ってなかったゴフな。神なんてゴブリンじゃ無理ゴフ。自分じゃ出来ない事は誰かに任せる、ゴブリンの鉄則ゴフ」
それは弱者の本音。不可能ならば誰かに頼み、可能な事だけに手を伸ばす。無闇に蜂の巣を突けば怪我をするだけなのだから。
そうする事で、弱者なりに生き残ってきたのだ。
「正直、ここに立ってるのも怖いゴフ。死に掛けって言っても、神は神ゴフな。震えるくらい怖いし、滅茶苦茶強いって思うゴフ」
全身は悪寒に苛まれていた。生存本能は叫んでいる。目の前の存在はゴブリンの身には余る、今すぐ逃げ出せと声高に。
でも、と。トビーは言い、続ける。
「きっと、魔王様を殺したら、その後に力を戻したら、お前はオレとサリナを殺しに来るゴフ。協力してくれたベルとティアも危ないかもしれないゴフ。それは、絶対に嫌ゴフな」
だからトビーは今、この場に立つ事を決めた。
頭の中はただ一つ。最初から、力を求めたのはこの為だった。
トビーは宣言する。神を相手に、最弱のゴブリンは言い放つ。
「皆を守らせてもらうゴフ。オレの力は、誰かを守るためにあるゴフ」
トビーは一歩前に出る。それは小さな一歩、ゴブリンの歩幅に出来る最大限。
けれどそれで十分だった。意思と身体を合致させ、敵へと挑む第一歩。
ナレアスはトビーを見下し、淡々と告げる。
「下らないな。いいよ、消してあげる。塵も残さず、魂の欠片も根源へ還さない」
「難しい事は分かんないゴフ。けど、これだけは分かるゴフな」
トビーはすぅと息を吸い、言い切る。
「オレが勝つゴフ!」
全身の魔力を呼応させる。身体強化、目星、風魔法を身に纏う。
繰り返しの中で得た力を解放する。ゴブリンの身には不相応な、魔法や技能。幾度も死んで、その中で拾い集めた力の結晶。
全てを出し切る。そして守るのだ。魔王を、仲間を、何もかもを。
トビーは諦めない。諦めたら立ち止まってしまうから。
始めよう。トビーは己に語りかける。
終わらせよう。この長い旅路を、終わりの見えなかった道のりを。
拳を握り、視線を神へと集中させる。勝つ手段はただ一つ、神の力を失わせる事。
そう考えれば、トビーの頭は単純だ。一つの事だけの集中する事は得意中の得意。難しい考えが不必要ならば、ゴブリンは直向に走り続けられる。
神とゴブリンが対峙する。森に住む魔族最弱と、天上の存在が同じ地に立つ。
全ての終わりが、始まった。
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