第12話
ナレアスを知覚してからのトビーの動きは早かった。
初手で殴りに行きたいところだが、相手は神。魔王すら凌ぐ可能性のある存在。それを相手取ってどれだけ戦えるのか、トビーには想像もつかない。
「ナレアスッ、よく堂々と出てこれたじゃないッ!」
紗利奈が怒りで顔を歪ませ、憎しみに溢れた視線をナレアスに向ける。その様子は今にも飛び出してしまいそうで、トビーは慌てて鎮める。
「サリナ、落ち着けゴフ。呪いの装備持ってないんだから、今のお前は弱いゴフ!」
「分かってる。分かってる、けど……ッ!」
息を荒くして、紗利奈は答える。力が及ばないのは理解出来ていても、 理性で感情を抑え切れていない。
あの長い苦痛の時間。それを知るトビーには気持ちが分かる。今だって殴りに行きたい衝動に駆られるが、神なのだ。ただのゴブリンと人間には役不足すぎる。
ナレアスはこの状況を察しているのか、それとも馬鹿にしているのか。ニコニコと微笑んでトビーたちを見ている。
トビーは解せなかった。このタイミングで神が自分から現れるなど。それも、即座に殺さずに見ているなど。
それに、だ。トビーは目の前の神から畏怖を感じないのだ。今まで多くの強者と戦ってきたが、その全てからは命を削る恐怖を感じた。弱者が本能的に恐れる、生命の危機だ。
それが、ナレアスからは一切無い。あまりの力量差に感覚すら狂うのだろうか。
そんな事をトビーは考えて、気づいた。じっとナレアスを見ていて、分かったのだ。
「……お前、本当にそこに居るゴフか?」
トビーの唐突な言葉に、紗利奈は聞き返した。
「トビー、どういうこと?」
紗利奈はじっくりとナレアスの姿を見る。そこには白く、ただ真っ白なだけの存在がいて、気色の悪い笑みを浮かべているようにしか思えなかった。
トビーは視線をナレアスから外さず、紗利奈へ答える。
「目星の魔法で見てるゴフが、映らないゴフ。いつもなら見やすくなるゴフが、お前にはそれが無いゴフな。どういうことゴフか」
目星。それは物に輪郭を作り、より見やすくする為の魔法だ。トビーは攻撃の回避のために多用している魔法だが、何故か目星がナレアスに通じなかった。
こんな事、今まで一度も無かった。飛んでくる魔法すら認知出来たというのに、一体どういう事なのか。
トビーの言葉を聞き、ナレアスは少し笑った。目尻を下げて、口を少し開き、悠々と喋り始める。
「凄いね、ゴブリンなのに冷静じゃないか。その通り、ボクは今ここに居ない。東雲紗利奈には、ホログラムって言えば通じるかな? 幻影みたいなものって思ってくれればいいよ」
パチパチと、ナレアスは小さく拍手した。その姿も気品が溢れているが、しかしただ目の前の相手を虚仮にしているようにしかトビーには感じられない。
トビーは気を緩めずに、ナレアスに問いかけた。
「それで、幻影が一体何の用ゴフか? オレたちは忙しいゴフ」
「ははっ。ボクを殺そうとしているのに、それを止めない訳ないじゃないか。手駒も寝返ったみたいだし。ね、東雲紗利奈?」
チラリとナレアスは紗利奈を見た。見られた紗利奈は肩が跳ね、表情が強張る。
言っている事は筋が通っている。味方が敵に落ち、あまつさえ雇い主を処そうとしているのならば現れるのは当然。神の力ならば造作も無い事。
まずいゴフ、とトビーは呟く。この場では神に匹敵する力が無い。手を出されれば、その時点で死が確定するだろう。
そして繰り返しの力は神によって起こされていると考えれば、死んでも戻ってこれると考えるのは安易過ぎる。
冷たい汗がトビーの額を流れる。繰り返せない、死ねない、そんな状況で神と対峙するなんてゴブリンには重過ぎる役目だ。一歩分の勇気すら、どこまで通用するかも分からない。
けれど、ナレアスはこんな事を言い始める。
「そうは言っても、ボクはまだ力を出せない。君たちは理から外れているが、この世界に存在する住人だ。神が直接に手を下すと世界のルールを捻じ曲げてしまうからね」
「……今は殺さない、ってことゴフか?」
「その通り。今は、だね。とても面倒だけれど、ボク自身にも影響が出るから仕方ない。本命の魔王も殺さないといけないしね」
微笑を崩さず、ナレアスはつらつらと言い並べる。信じていいのか、トビーには判断できない。それでも、今すぐに手を出してこない事は分かる。
殺意が無い。魔力の揺らぎも無い。ここに存在すらして無い。
そう考えれば、多分だが今は手を出さないのは事実だ。ほっと息を吐きたくなるが、気は抜けない。じっとトビーはナレアスを見続ける。
「そう睨まないでほしいな。トビーだっけ? 君はとても複雑な存在だ。ボクも想定外だったよ、ゴブリンが繰り返しに巻き込まれ、その上で理からも自力で抜け出すなんてさ。原住民で理から外れてしまうと、世界のルール的に変な立場になってしまう」
ナレアスはトビーを見て、言葉を続ける。
「そこで、ちょっとゲームでもしようじゃないか」
ウインクでもしそうな、調子の軽い感じでナレアスは言う。表情も変えずにそうされると、トビーには怪しさしか感じられない。
「ゲーム、ゴフか?」
トビーが言葉を聞き返す。するとナレアスはこう返す。
「そうゲームさ。例えば――、」
紗利奈を見て、ナレアスは言う。
「三〇日でただの人間が魔王を倒す、みたいな、ただのお遊びだよ」
「ナレアスッ許さないッ!!」
紗利奈が激昂し、トビーの静止を振り切って飛び出す。身体に輝きを、覇道の宣誓という強化魔法を纏い、殴りかかる。
その拳は、空を切った。ナレアスが回避したわけではない。その体をすり抜け、拳はただ空気を殴りつけるだけだった。
「ははっ、単純で明快。それだから面白い。東雲紗利奈、それなりに楽しめたよ。惜しかったね、邪魔さえなければ元の世界に返れたのに。ボクは本気だったよ?」
「よくもそんな事をベラベラと……絶対に許さない、絶対にッ!」
「……紗利奈、今は勝てないゴフ。ナレアス、ゲームってなにをする気ゴフか? また、ふざけた繰り返しでもやる気ゴフか」
トビーは落ち着いた声色でナレアスに問う。冷静なわけではない。もし、この後にでもいきなり襲い掛かってきたら、トビーは守らねばならないのだ。力の無い紗利奈を、そしてベルチェもティーアも、魔王も。
だから、怒りに身を任せたくはあるが、拳を上げる訳にはいかないのだ。不用意に突っ込み、死んでしまってはもう戻れない。
ナレアスはそんな二人を見て、楽しそうに答える。
「面白いね、人間が怒りに身を任せ、それをゴブリンが宥めるなんてさ。これだから神は辞められない。それじゃ、ゲームの話をしよう」
ナレアスは言う。
「内容は簡単、魔王が神になる直前にボクは殺しに行く。君たちはそれを止められたら勝ちだ。ボクはその日まで手を出さない、というか出せない。魔王は理から抜けていないからね。神になる直前に抜け出すから、そこを狙ってボクは殺しに行く」
「その言葉、信じると思うゴフか?」
「信じるかは君たちの勝手さ。ボクも準備があるから、邪魔なんてやってる暇は無いしね。いいじゃないか、ねえ東雲紗利奈。あれだけ殺したがってた魔王を、今度は守らなきゃいけないんだ。楽しそうだね?」
「……このクズめ」
「神にそんな事を言えるって、ああなんてボクは優しいんだろう。その言葉、受け止めてあげよう。それで、こう返すよ」
ナレアスは一拍置き、言う。
「君たちの事は、輪廻全てから魂ごと消す。それが敗者への罰ゲームだ。完全に消し去り、二度と復活などさせはしない。神を馬鹿にした者への罪だ」
ゾワリ、とトビーは妙な感覚を感じた。
臓物が全て持ち上げあられたような、平衡感覚が抜けてしまったような気色の悪い感じ。森も大地も、何もかもが消え、宙に取り残されてしまったような感覚。
これは、神の力の片鱗だ。トビーは直感的に思った。
魔力も、武力も使わない、ただ神が手を伸ばせば起きてしまう現象。自分たちでは何の手出しも出来ない、位が幾つも上の怪物。
「おっと、ちょっとだけ神気を出してしまったかな? ごめんね、君たちのような存在には、ちょっと刺激が強かったかもしれない」
おどける様な声で、ナレアスは言う。それに対し、トビーは言った。
「……何てこと無いゴフ。それに、もう結果は決まってるゴフな」
トビーはボロボロのナイフを持ち上げた。刃先が滑るように動き、真っ直ぐに前へと向けられる。神へ、ナレアスの喉元へ向けて。
「勝つのはオレたちゴフ。泣かせてやるから待ってろゴフ!」
ニヤリ、とトビーは口角を上げた。
勝算は分からない。方法もまだ見えていない。それでも、先に言っておいたのだ。
これは、自分への鼓舞だ。未来への宣誓だ。諦めないと、己に刻むのだ。
そんなトビーを見て、ナレアスは不愉快そうな顔をした。初めて表情が変わるのを見たトビーは意外に思う。神はゴブリンの事など、気にも掛けないと思っていたから。
「……いいだろう。ただの、矮小なゴブリン」
言い終えると、ナレアスの姿が薄くなっていく。空気に溶けるように、徐々にその輪郭を消えさせていく。
「結果は見えているけれど、楽しいゲームになるといいね。また会おう、下等な存在たちよ」
言葉が途切れると同時、ナレアスの姿は無くなった。最初から何も無かったように、繰り返しが起きた直後のように。
「それじゃ、サリナ行くゴフか」
ナイフを鞘に戻し、魔法を解いてトビーは言う。紗利奈も身体強化の魔法を解除したが、表情は優れない。ポツリと呟いた。
「……ごめん、止めてくれてたのに飛び出した」
申し訳無さそうに、俯いて紗利奈はそう言う。それを見て、トビーは笑顔で返した。
「いいゴフよ。それに、オレも一発くらい殴りに行けばよかったゴフ! やっぱりムカつくやつゴフな、あのナレアスってのはゴフ!」
ぺちんっとトビーは右拳を左手で受け止める。紗利奈の記憶で見ていたが、実際に会ってみるとその性根の悪さは想像以上だったのだ。ふんっと鼻息を荒くしてトビーは怒っていた。
そんな様子を見て、紗利奈も同意とばかりに同じ動きをする。
「ホント、最悪な神。あんなのが居るって知ってたら神頼みなんて一生やらないし」
「じゃあゴブリンと同じ『小さき神』に頼れば良いゴフ。小さくてもでっかいやつに戦うカッコいい神様ゴフ!」
「ふふっ、まあそれもいいかもね。……あれ、日本の神様事情ってどうなんだろ」
あっちの世界で呼び出されたんだから、まさか地球の神って……。と紗利奈は考え始めてしまったが、それを気にせずトビーは言う。
「じゃ、やる事はいっぱいあるゴフ! 早く行こうゴフ!」
「やる事って……そうだ、どうしよ。神を倒すって、私たちじゃ無理じゃん」
目標は、神を倒すこと。しかし戦力は人間とゴブリンだけだ。世界の理にすら影響を与える存在を、どうにか出来るとは紗利奈には思えない。
それを聞き、トビーは率直に返答する。
「それはそうゴフ。オレたちじゃどう頑張っても無理ゴフな」
「え、それじゃどうする気? 私たちで無理って……まさか」
コクリとトビーは頷く。
「魔王様に神を倒してもらうゴフ。その手伝いをするゴフな!」
トビーにとって、それは当たり前の事だった。自分に力が無いのは当然の事で、ならば力ある者に頼れば良いだけ。ゴブリンの処世術である。
「魔王様は亜神ってやつゴフ。ナレアスが気にしてるんだから、きっと良い方法があるゴフ! それを助けるのがオレたちに出来る事ゴフな!」
他人任せと言えば聞こえは悪いが、トビーは魔王を信じていた。絶大な力を持ち、魔族を統べる魔王ならばどうにかしてくれるはずだと。
紗利奈はそれを聞いて、はぁと息を吐く。
「……なんか、もっと『オレが倒すゴフ!』とか格好良いこと言うのかと思ったけど、まあゴブリンだもんね。しょうがないか」
「ゴブリンに何を期待してるゴフか! オレに出来る事なんて少ないゴフ!」
ふんすっとトビーは胸を張る。身長一三五セルチのトビーでは大した大きさにもならないが、何となく自慢げに紗利奈には見えた。
「で、どうすんの? 助けるって言っても、何が出来るかな」
「やる事は一つゴフ。まずは、いつものゴフな」
いつもの? と紗利奈は首を傾げる。トビーは言った。
「酒の実集めゴフ! オレがいつもやってるの記憶で見てたゴフな!」
ずんずんとトビーは歩き始める。まずは家に帰り、大きな袋を用意しなくてはならない。それから、もう慣れた手順で群生地に行って採取をするのだ。
記憶を共有している紗利奈もそれは知っているが、神を倒すのにまずは木の実狩りって……と不安そうな顔だった。
「そんな事してて間に合う? 私の手に入れてた呪いの装備とか集めたほうがいいんじゃない?」
「それは駄目ゴフ。あれは命を削る危険なやつゴフ。もう使わせないゴフ」
トビーは振り向き、紗利奈の目をしっかりと見据える。真剣で、絶対にもう呪いに手を出させないと、そう語っていた。
それから、オレに任せろゴフと言い、ドンと胸を叩く。
「酒の実を集めたら、仲間を作ろうゴフ。数は多くて悪くないゴフからな!」
トビーの記憶には、幾つもの魔族の顔が浮かぶ。ベルチェ、ティーア、オルドン、皆トビーよりも強く、信じられる存在だ。
数々の繰り返しの中で、トビーは多くの出会いをしてきた。それを、今こそ一つに纏めるのだ。友になる時が、今こそ来たのだ。
「皆良いやつゴフ。サリナも友達になれるゴフな!」
「……それとなく嫌な予感もするんだけど、まあ仕方ないか。うん、私も手伝う。ただ、ベルチェとティーアの喧嘩には巻き込まないでね」
「喧嘩? なにを言ってるゴフ、そんな事あるはず無いゴフ」
優しくて仲間思いな二人が喧嘩をするはずなど無い。トビーはそう思っていたが、紗利奈には違う未来が見えていた。
「…………そうだといいけど」
心底信じられないといった表情の紗利奈。トビーはハテナを浮かべていた。
「じゃ、行こうゴフ。忙しいゴフよ」
「私だって伊達に繰り返してたんじゃないから。頼りにしてよね」
トビーと紗利奈は歩き出す。目指すはゴブリンの集落だ。
「あ、人間の私が家に入っても大丈夫かな。襲われない?」
「攻撃しなきゃ大丈夫ゴフ、多分。ゴブリンもそんなに気が荒くないゴフよ」
ホントかなぁ、と紗利奈はトビーの隣を歩く。その歩みは、しっかりとしていた。
ずっと一人で歩いていた森。けれど、今は違う。小さなゴブリンと、紗利奈は歩いている。誰かに指図された事ではなく、自分の意思で進んでいる。
どうなるかは、分からない。紗利奈にも、トビーにも。
けれども、その先は明るいような気がする。紗利奈はそう感じていた。
諦めないやつが、隣に居るのだ。ずっと走り続け、今も進むゴブリンが。
「きっと上手くいく。なんか不思議な感じ」
「? どうしたゴフ?」
「なんでもない! さっさと行こ!」
ふと漏れた呟きを誤魔化し、紗利奈はトビーを置いて先に進む。歩幅の短いトビーは慌ててその背を追いかけた。
森の中は静かだ。早春でまだ雪が残り、冷たい風が吹く森は、いつだって変わらない場所である。
けれども、きっとこれが最後なのだろうと、紗利奈は名残惜しさを少し思う。ずっと繰り返し、何度も見てきた実家のようなこの時間ともお別れだ。
だが、寂しくは無い。寧ろ清々としている。
先に進む。未来へ行く。
もう、後戻りなんて有り得ない。
紗利奈は振り返り、笑顔でトビーに手を伸ばした。
「忙しくなるね、トビー!」
「それオレが言った事ゴフ!」
トビーは紗利奈の手を握り、一緒になって走り出した。
その手はトビーよりも少し大きい。トビーは握るより、包まれる感じがした。
けれど、温かさは変わらない。ゴブリンも人間も、同じ生きている生物だ。
未来は不確定。先行きは誰も知らない。
それでも、進み続ける。歩みは止めない。
ゴブリンは心に素直。思ったことはすぐに行動する。
だから、トビーは動くのだ。
絶対に、諦めない為に。
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