Case 2-18.Gettng each other

「せ、先輩……?」


 呆然とつぶやく高座たかくら。それをじっと見つめ、天川あまかわ先輩は黒髪をなびかせ、ゆっくりと踏みしめるように歩き、やがて影の中から出てくる。


「久しぶり」

「は、はい……」


 高座は驚きを隠せない表情のまま。おそらく言葉を交わすのも、会うのも久しぶりなのだろう。向かい合う二人はどこかぎこちない。


「高座君」

「は、はい」

「私……美術部を辞めるって言ったけど、その理由をまだ言ってなかったと思って」


 高座が不安げに、ちらりと俺の方を見る。俺が黙ってうなずくと、覚悟を決めたように表情に力を込めた。


「わかりました。聞かせて、ください」

「うん」


 天川先輩は、ぎゅっと目を力強く瞑ってから、高座の顔を見る。そして、一気に息を吐き出すように言う。


「フランスに行くの。有名な絵の先生から誘われて、こっちで絵の勉強してみないかって」

「え……?」

「どうしようか迷って、考えた。……それで、行くことにしたの」

「……」

「だから学校も、美術部も辞める。……ごめんなさい」


 言い終わったときには、天川先輩はうつむいていた。高座にどんな反応をされるか、そんなことを考えているからだろう。俺も、こればかりは予想できない。


 天川先輩の言葉を噛みしめているのか、高座は黙ったまま。かと思えば、いつもより大きめのトーンで、


「すごいじゃないですか」

「え」


 それから少し大げさなくらいに手を広げる。


「ほんとすごいですよ、海外へ留学だなんて。そりゃ先輩の才能を考えたら、そんな話がないほうがおかしいくらいですよ。おめでとうございます」

「う、うん」

「というか、先輩が謝ることなんてないですよ。むしろ僕の方こそすみません。気を遣ってくれたんですよね、僕に。だから、理由を言わずに出ていこうとしたんですよね」

「それは、その」


 まるで決壊したダムのように、高座は言葉を紡ぐ。尊敬する先輩の門出を祝って、笑う。けれど、その笑みはどこか渇いているようにも見えて。

 自分の本心に、薄い膜を貼っているようにも見えて。


「がんばってください。僕のことは気にしなくていいんで。やっぱり美術部も、先輩みたいなすごい人がいてこそですし。僕みたいなのがひとりいたって、しょうがないですもんね」

「そんなことは……」

「美術部が廃部とか、小さいことで悩んでた僕がバカみたいですね。僕みたいな平凡な絵しか描けない人のことなんて、ほんと気にしないでください。だから、向こうでがんばって――」

「違う!」


 ぶつりと、高座の言葉は遮られた。初めて聞いた、天川先輩の大きな声によって。


「先輩……?」

「自分の絵を……そんな風に言わないで」


 まだうつむいたまま、言う。


「気持ちを込めた絵を、自分で否定しないで」

「で、でも僕のなんて、先輩のに比べたら」

「君の絵を好きだって言ってくれる人だって、絶対にいる」

「そんな人……」


 そこまで言ったところで、天川先輩は小脇に抱えていたものを差し出した。いつも持っていた、スケッチブックだ。


「これ……あげる」

「え、でも」

「いいから」


 ぐい、と押し付けられる形で、高座は受け取った。その真意を理解できないまま彼はそれを開いて、


「……!」


 その目はスケッチブックの中に吸い込まれていた。声を失ったように、口は開いているものの言葉が出てこないようだった。


「先輩、これ……」


 そう言葉を漏らす高座の手元のスケッチブック。そこに描かれているものを、俺は知っている。


 そこに描かれているのは、高座の姿。


 普段からは想像できない、真剣な眼差し。まだ真っ白なキャンバスに向かって、大海原に漕ぎ出そうと筆を伸ばす姿。彼の癖なのだろう、左腕の肘が太ももに置かれている。高座のことをよく見ていなければ描くことのできない姿だ。


 一目見たとき、俺は悟った。

 天川先輩が、高座の絵が好きな気持ち。絵を描こうとする高座が、好きな気持ち。

 この絵には彼女のそんな感情すべてが込められている。眩しいほどに、あふれ出さんばかりに。

 俺でさえわかるのだ。同じ美術部として絵を描いてきた彼に、わからないはずがない。


 何時間、とも錯覚しそうなほど高座はスケッチブックの中を見つめ、そして閉じた。

 それからぼつりと、つぶやく。


「僕、先輩の絵が好きです」

「え……」


 その言葉で、天川先輩はようやく顔を上げた。二人の目と目が合う。


「先輩と美術部で過ごした時間も好きです。だから先輩から美術部を辞めるって聞いた時、もしかしたら絵を、やめちゃうんじゃないかって……でもよかった、なぎさ先輩が、絵をやめるとかじゃなくて」

「高座、君……」


 名前をつぶやき、天川先輩は高座の手を取った。


「私も……楽しかった。だから、言えなくて……ごめんなさい」

「いいですよ。先輩の絵で、先輩の気持ち、ぜんぶ伝わってきましたから」


 再び、高座は笑う。そこにはもう渇きは見えない。


「絶対、もっとうまくなって帰ってくるから。だから……待ってて、ほしい」

「待ってます。僕も絵を描いて。だって」


 そう言って、手に持ったスケッチブックを大事そうに抱える。


「先輩の絵と、先輩が、好きですから」

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